碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (111)

2020年03月17日 20時51分54秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

 ebatopeko②

         長谷川テル・長谷川暁子の道 (111)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

   (九) 

  (劉仁と長谷川テルの出会い)

 1928年4月19日、日本の第二次山東出兵、5月3日、済南事件が引きおこされ、8日には第三次山東出兵、ついで6月4日、関東軍は張作霖の専用列車遼寧省の現瀋陽校外で爆破し、自宅(大帥府)に担ぎ込まれた張作霖はやがて息を引き取った。

 目の前で起きたこの有様をじっと見ていたのだろう、劉仁は大きく人生の進路を水産学から政治に切り替え、奉天の東北大学(所在地は現在の遼寧省政府大院)予科に入り、1930年、文法学院政治系第四班に進級した。

 しかし1931年の夏季休暇を前に劉仁は大学を離れ、北平(現北京)で反軍閥、抗日の実践活動に飛び込んでいく。だが彼らの戦いは、挫折した。

 劉仁は襲いかかる白色テロ(注:支配者が反政府運動ないし革命運動に対して行う激しい弾圧のこと。このときは、蒋介石が革命運動に対して行った激しい弾圧を指すとおもわれる)の難を避けると共に、自分の非力さを感じ、改めて勉強することを決意して、1933年秋、日本へ官費留学生として日本に渡った。

 ついで劉仁は、1934年2月、東京高等師範の予科に入学した。なお劉仁に続いて、弟の劉介庸も翌34年、東京に留学してきた。劉介庸は兄の勧めで東京農業大学に入学した。そのクラスは彼以外全部日本人で授業は当然日本語のみ、ノートを取るのも大変であった。

 日本語を少しでも上手になろうと、先に日本に来て、日本語の格段に上手い兄の指導を受けるため彼は足しげく兄の下宿に通うことになる。

 彼はここで兄の下宿に集まる中国人留学生や、日本人や、両国のエスペランティストたちと出会う。この頃のことを『緑川英子与劉仁』の中で次のように記している。


 「兄が多くの進歩的知識人たちと交流があることを発見した。その中には日本人の他、在日の朝鮮人、中国人がいた。日本人の中には秋田雨雀などの作家や朝鮮の留学生もいた。中国人留学生は中国南方各省から来た人が多かった。                   

  この人たちにはある共通点があった。それは、みなエスペラントを学んでいることで、彼らが集まり話し合う時にエスペラントで会話をし、日本語を使うことはまれであった。討論が白熱し、気持が高ぶった時など、エスペラントで「インターナショナル」を歌ったりする。

  歌声は決して大きくなかったが、気持を奮い立たせる感じがした。わたしはその時はじめてこの無産階級の聖歌ともいうべき歌を耳にしたのであった。

  初めの頃、エスペラントは理解出来なかったのだが、かれらの会話の中から多くの事を学んだ。兄の所に集まり参加する中で、わたしの日本軍国主義の本質に対する認識も大きく変化した。

  兄は私の生活面にもいろいろ気を配ってくれ、遠く国を離れている寂しさを紛らわせてくれた。

  1936年の春になると、エスペラント運動の発展から、兄たちが集まることも増えた。この頃に緑川英子と知り合った。

  私の見た感じでは二人の間がとてもよい感じで、たびたび一緒に居るのを見かけるようになった。

  このようなわけで私と緑川英子もしょっちゅう顔を合わせることとなった。二人はたびたび私の下宿にやって来て、わたしが不在の時は伝言を残しておいたりした。

  緑川英子と兄は、性格や、学習に対する興味や趣味、社会活動など、おおくの共通点があった。そのような点から二人が出会い、恋愛に発展したのは決して偶然ではない」


 テルと劉仁の交際は、演劇鑑賞活動などを通じ、急速に深まっていっている。その様子を『宮本正男作品集』(日本エスペラント図書刊行会)は、テルと劉仁の演劇活動について詳しくこう記している。
                     
  「利根(光一)によると、三宅史平が、1936年3月24日から31日の間のいつの日にか、テルが未来の夫、劉仁とともに築地小劇場で、『夜明け前』を観劇しているのを見かけたという。

   プロット(日本プロレタリア演劇同盟)解体後に再編された新協劇団の旗揚げ公演がこの『夜明け前』の第一部であり、二人を見かけたというのは第二部公演であろう。

   5月2日にはエスペラントの仲間30人とともに『洋学年代記』を見た。30人ほどの仲間というのは、ルーマ・ロンドとノーヴァ・クンシードの仲間たちであろう。

   9月16日、同じ劇場で、新協の『どん底』をみた。小山内薫訳『夜の宿』を村山知義が新しい演出でやった。ペペル=宇野重吉、ナターシャ=赤木蘭子、ナスチャ=北林谷栄、サーチン=中村栄二、ルカ=滝沢修。

   この年死んだマキシム・ゴルキー追悼公演が世界的に行われたものの一つである。  9月20日、同じ築地で新築地劇団が、やはりゴルキー追悼として、『エゴール・ブルィチョフ』を演じるのをみた。

 11月7日~18日の『群盗』をみたかどうか、利根は書いていない。私(利根)も調べてはいないが、ザメンホフがエスペラント訳したこのシラーの若々しい舞台を、テルも見たものと思いたい」

 こうして二人は演劇とエスペラント活動を通じ急速に親しくなり、10月24日、テルは母に劉仁と結婚することを伝えている。10月31には父親にも伝えている。

 当初父母は困惑し、特に父は激しく反対をしたであろうことは、容易に想像がつく。だがテルの姉西村ユキ子と、母長谷川米により書き続けられた『日記』には、テルが父親に勘当されたという記載はなく、却って両親のある種の諦めと、納得とが入り混じったような気持が感じ取れる。

 もとより、どのように説得しても、テルが一旦こうと決めたら絶対と言ってよいほど、考えを変えるような人間でないことを、両親が一番よく知っていたからでもあろう。

 たとえば、小学校の頃でも、弟とけんかをして、自分が悪くないと思ったら、決して謝ろうとしない。女学校卒業後、東京女子大と奈良女子高等師範学校の両方に合格したが、両親がどんなに東京女子大を薦めても、頑として奈良女子高等師範学校に進学している。

 加えて劉仁の人柄の良さは頑なな父親にも伝わっていたはずであり、なによりテルの一途に劉仁を愛する心が、母や、同じエスペラントを学んだ姉ユキ子などの気持を動かしたと思える。

 結婚式も、婚姻届も提出しない二人だけで健康診断書を交わしてだけであったが、上海に旅立つ頃には、劉仁は長谷川家の人とともに食事をし、テルが劉仁の家に泊まることも事実上認められていたことがこの日記からは読みとれ、彼女はじゅうぶんに幸せであったのだろうと推測される。

 一枚の写真がある。『緑川英子与劉仁』の表紙に使われている写真がそれである。写真館で写したものであろうか。劉仁が小柄なテルを包み込むような形でテルの座ったいすの後ろに腰掛けている。仲むつまじい写真だ。

 テルは相変わらず分厚い眼鏡をかけ、じっと前方を見ているが、髪はつやつやと輝いており、うりざね顔の引き締まった頬の輪郭が若々しく美しい。背広にネクタイ姿の劉仁は、惚れ惚れするような美男子である。

 テルは子どもの頃から、常にありのままの自分を受け入れてくれる人を求めていた。テルは小さいときから「頭のよい子だが、頑固で我が儘な変わった子ども」というレッテルを貼り付けられてきた。

 誰も彼女の小さな胸の内の悲しみや寂しさを理解しようとしなかった。

 奈良女子高等師範の級友たちも、その一見厳しく見える理知的な瞳の奥にみなぎる情熱や、また人恋しさを知ろうとはしなかった。

 テルが絶対的信頼を寄せたエスペラントの同志でさえ、彼女の胸の奥深くに、女性ゆえの悲しみや、愛されたいという渇望があることを理解し、かなえることをしなかった。そして中国人の劉仁に出会った。出会うべくして出会った二人であった。

 長谷川テルは、劉仁がかって出会ったどの女性とも異なった女性であった。

 何より彼女は聡明であった。当時の日本の女子学生にとって、難関の東京女子大学と奈良女子高等師範の両方に合格し、両親の反対にもかかわらず、奈良女子高等師範にすすんだ。同級生の談によると、成績は学年でも三番を下らなかったという。

 テルは日頃静かでおとなしく見えるが、自分の納得できないことは、頑なに見えるほど妥協をすることなく、また己の信ずるところを論理的に、整然と相手に述べ説得することができた。これは当時の女性としては非常にまれな資質、性格であり、能力だと言える。
         
 奈良女高師は将来学校の先生になるための人材を育てるのを主たる目的とする、女子教育の関西における最高学府とされていた。

 奈良地方の近現代史に詳しい日本近現代史研究家、鈴木良氏は、「この学校は本来『良妻賢母を育てること』を教育のモットーとする保守的な学風であり、テルの在籍時(1929年4月~1932年9月)、軍部の圧力のもと『思想善導』の取り組みが進など、息のつまるような統制ばかりの学校であった」と述べている。
              
 治安維持法反対同盟機関紙『不屈』奈良版は1931年12月、当時の文相鳩山一郎が奈良女高師を訪問しているが、思想統制の目的があってのことで、単なる訪問ではなかった」と述べている。

 なお、奈良女高師のテルの先輩のような女性が丸岡秀子である。1924年の卒業であるが、戦後の教育運動などで活躍している。

 劉仁に出会った頃、テルは奈良女高師を不合理な逮捕により自主退学をさせられてはいたが、そのようなことにへこたれることなく、エスペラント協会で働きながら、エスペラント文学の創作や翻訳に生き生きと励んでいた。

 エスペラントを流暢に使いこなし、「世界を共通の言語で結び、エスペラントを戦争反対、反ファシズム、国際平和、正義を支持する事業のために使おう」と美しい声で歯切れよく情熱をこめて語るテルは、同じエスペラントを学ぶ劉仁の心を強くとらえた。

 おそらく劉仁が中国でも日本でも出会った事のない、新しい女性であったに違いない。

 祖国中国は日本の帝国主義軍隊に蹂躙され、軍閥が跋扈し、反軍閥、抗日に身を投じたものの、志半ばにして日本に留学生としてやって来た劉仁には、長谷川テルの困難にめげず、己の信じることを頑なまでに押し通そうとする姿は驚くほど魅力的であったのだろう。

 エスペラントの同志としての同志愛が、男性としてテルを愛するようになるのに時間はかからなかった。

 自分を受け入れてくれる人と出会って、テルは急速に劉仁にひかれてゆき、彼女の心の奥深いところに、用心深く隠されていた優しさ、人間としての本質的な美しさが一度にあふれ出てきたのであった。

 二人はこのようにして結ばれ、間もなく劉仁は抗日活動に参加するために1937年3月、上海に帰国、テルは劉仁と共に日本の侵略戦争に反対する活動をするべく、劉仁より1ヶ月遅れ1937年4月15日上海に渡った。


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