碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (114)

2020年04月15日 22時30分43秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

 ebatopeko②

         長谷川テル・長谷川暁子の道 (114)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 

 

   (十二)  第三庁でのテルと劉仁

 ここでテルと劉仁を漢口の国民党軍事委員会政治部第三庁で抗日活動に参加できるように取り計らった郭沫若と、日本の反戦作家鹿地亘に深い関わりをもつ馮内超という人物を紹介する。もちろんテルと劉仁も深い関わりがある。

 馮内超は日本生まれの華僑で新中国成立後、人民政府政務院文化教育委員会副秘書長、中央人事部副部長など数々の役職を歴任した人である。

 この人は1901年横浜生まれ、小学校、中等学校、高等学校とすべて日本で学んでいる。その後、東京帝国大学(現在の東京大学)、京都帝国大学(現在の京都大学)に学び、東京大学では美学を学んでいる。

 馮内超の父は中華民国建国の父、孫文と親交があり、国民党と強い結びつきのある在日の華僑であった。

 馮内超は大学時代に詩作を始め、後期「創造社」に属し、劇作家でもあった。

 1926年、馮内超の詩集『虹紗灯』が上海創造社の刊行物に載る。この時より創造社と関係が始まり、後期創造社出版部日本支部の責任者となる。

 1927年、中国に帰国し演劇活動、文学運動などに積極的に関わる。

 1929年秋、芸術劇社の成立に参加する。同年、女優李声韵(いん)と結婚する。

 1930年1月、芸術劇社が上海でフランスの作家ロマン・ロランの『愛と死の戯れ』を上演し、李声韵がヒロインのソフィアを演じる。

 1930年3月に成立した、中国左翼作家連盟の常務委員に、魯迅、沈端先(ちんたんせん)、銭杏屯(せんきょうとん)、田漢、鄭伯奇(ていはくき)、洪霊菲(こうれいひ)など七人と名を連ねる。

 1930年7月に娘馮真が生まれるが、妻の李声韵が肺結核に冒され、経済的に非常に困窮する。

 1931年、次女が生まれる。生活の困難と妻の病気のため、次女を南方の華僑に託す。

 この華僑は次女を連れ国外に移住したため、60年以上連絡が取れなくなる。しかし偶然のことから彼女の行方が判り、馮真と妹は2003年に再会することが出来た。

 2006年秋、私(木田)は北京市昌平区に居住する馮内超の娘馮真女史をその自宅にお訪ねした。そしてこの『馮内超伝記』(『南海文史資料、第九編 馮乃超特集』・中国広東省政協南海県委員会文史組編1986年9月刊』))を頂いた。

 伝記をその場で何気なく開くと、中から一葉の写真がひらひらと床に落ちた。拾い上げてみると何とその写真には、長谷川テルの姿があった。共に写っているのは、馮内超、同夫人李声韵、鹿地亘、鹿地亘夫人池田幸子。

 馮真女史は「この写真は私の父が桂林で写したものですが、父母と鹿地夫婦は知っていたのですが、あとの一人が誰だか解りませんでした」と言い、私(木田)が「この人は長谷川テルです」と説明すると非常に驚いたようであった。

 『馮内超』伝記によると1938年12月2日の記事に「午前郭沫若と共に汽車に乗り西へ撤退。翌日「文化城」桂林に着く。

 三庁を三つに圧縮編成し、三分の一の人員を桂林に残し、政治部に参加させ仕事に当たらせる」、5月5日、鹿地亘らと共に桂林を離れ重慶に向かう。・・・」とあり、この写真により劉仁とテルも漢口から桂林を経て重慶に入ったことが明らかになった。

 生まれてすぐ南方の華僑に託され、60年以上行方不明になっていて、偶然再会出来たという妹さんもこの時お目にかかった。彼女はこのときすでに70歳を越えていたが、写真の中のお母さん李声韵の若いときの美しい姿に驚くほど似ていた。

 馮真女史は抗日戦の間、母方の祖父母下で暮らしていたとのことで、長谷川テルのことは・・・以下不明)

 長谷川テルも鹿地亘夫妻も若々しく、それぞれが不思議な縁で結ばれている人々の複雑かた必然的な結びつきを示す貴重な写真であった。

 馮内超の妻李声韵の父、李書城(1881~1965)は日本の陸軍士官学校を卒業し、辛亥革命には参謀長として参加した国民党の元老であった。

 1932年、この人は湖北省の建設庁の長官となった。

 馮内超が関わっていた「後期創造社」の幹部に李声華tおいう人がいる。この人は馮内超の妻李声韵の兄で1931年に肺結核で亡くなっている。

 父は息子に続いて娘も肺結核が重く、経済的にも困窮しているのを心配し、娘婿馮内超を自分の秘書とし、李書城が民政庁長官に転じるとともに馮内超を民政庁にいれたのであった。(『馮内超伝記』)

 郭沫若が1937年に帰国した頃、馮内超は国民党武漢政府の民政庁にいたのである。

 1936年12月に張学良が蒋介石を監禁して国民党と共産党が協力し、一致して抗日することを迫る。いわゆる西安事件が発生した。

 西安事件により内戦を停止した南京政府は、中国国内はもとより、国際的にヨーロッパやアメリカなどに、広く日本の蛮行を訴え、国際世論を中国の味方につけようと戦略を打ち立てる。

 1937年に帰国した郭沫若はまさしくこの目的に、もっとも適う人物であり、国共合作のシンボルとして、武漢に移動した国民党政府に迎え入れられたのである。

 1938年3月初め、国民党軍事委員会は、政治部に所属する組織(第三庁)を作り抗日宣伝を行うことを決める。これは事実上周恩来の指導によるものであった。

 そして周恩来と郭沫若を接近させた人が馮内超であった。

 つまりこの人は中国共産党と国民党の接点にいた人で、このような人が当時の国民党政府の中枢にいて、国共合作を実践面で支えていたのである。

 長谷川テルは、エスペランティストとして日本にいる時から、すでにエスペラントで文章を書き、フランスやスペインのエスペランティストと交流をしていた。

 またテルは国民党側の人間でもなかったし、鹿地亘のような日本共産党の党員でもなく、政治的にはまったく中立的な立場であった。あえて言うなら戦闘的良心的リベラリストを言うべきであろうか。

 彼女は政治的に中立で、しかも視野は世界に広がっている。中国を無法に侵略する日本帝国主義の軍隊の不正さ、非道さをエスペラントで批判できる長谷川テルと劉仁は、国際宣伝所に最も必要な人材であった。

 ここに長谷川テルと劉仁の存在価値がある。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。