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碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『拾有七年』を読む  (23)

2010年08月08日 11時18分10秒 | 『拾有七年』を読む

   ebatopeko

 

 

                『拾有七年』を読む  (23)

 

      (帰省の宿、「たばこや」) 

  

    (前回まで)

 『拾有七年』は、米子の生んだジャーナリスト碧川企救男の紀行文である。庶民の立場をつらぬいた彼は、日露戦争時においても、民衆の立場からその問題性を鋭くつき、新聞紙上で反戦を主張した。

 碧川企救男は、鳥取中学(現鳥取西高等学校)を出て、東京専門学校(現早稲田大学)に進学するため郷里を出た。それから17年ぶりの明治四十五年(1912)、郷里鳥取の土を踏んだ。その紀行文である。

 明治四十五年(1912)、完成したばかりの「山陰本線」に乗り、兵庫から鳥取に入り、むかし碧川企救男が鳥取中学(現鳥取西高校)にいたときの記憶を呼び覚ましていった。当時の旧友のあれこれとの交流、思い出に碧川企救男は十七年ぶりの感慨にふけっていた。

 また碧川碧川企救男は、妻の父の墓にもこの機会に詣でた。妻かたの父は幕末維新の時代、鳥取藩の家老であった和田邦之助信且であった。没後従五位を贈られ、のち明治41年(1908)には従四位を追贈された。

 前にふれた松田道之の妻は、この邦之助の妹であった。のち松田は初代大津県令や第七代東京府知事をつとめ、また「琉球処分」を担当した。

 幕末期、松田道之は京都において、和田邦之助は鳥取にあって東西呼応して鳥取藩を佐幕派から勤王派に転じさせたのである。徳川家ともっとも関係の深い因幡藩を勤王へと導いた鳥取の中心人物の一人であった。

  上級生の室長(四年生)らは、毎朝の掃除を一・二年生がすることを決議しようとした。それを知った碧川企救男ら下級生は、ここに階級闘争の幕を開けた。幸いに二年生は寄宿舎全生徒の過半数であった。

   碧川企救男ら二年組は、その多数を頼んで遂に上級生に挑戦した。その挑戦の第一歩は、討論会において二年組は同一歩調をとることであった。

 当時の討論問題とは、たとえば「金銭が貴いか、名誉が貴いか」とか「鉄が貴いか、石炭が貴いか」とか、あるいは「農工商いづれが重し」とかいったもので、もし上級生が甲といえば彼等は乙といって反対し、一年と三年の中立を集めて討論に勝利を占めた。

 この討論会の勝利は、ついで役員選挙の上に及ぼした。従来は会長は五年生、副委員長は四年生、書記二名は三年生と定まっていた。これに対して彼らは、副会長以下をことごとく彼ら同級生で奪取してしまった。

  そして、碧川企救男は彼の寄宿舎生活と、今日の中学校の寄宿舎生活とを比較する。当時から考えると、どこの寄宿舎生活でも非常に進歩改良された。今ではどこでも当時のごとく軍隊的なものはない。

 しかし、その結果はどうであろうか?と疑問を呈する。束縛はもちろん面白くない。併し放任よりは効果がありやしないか。少年時代の束縛は決して少年にとって苦痛ではない。

 碧川企救男は主義として放任を賛成する。しかし少年にはあくまで束縛を加えて勉強させたいという。こんにちの中学生は、一般の知識は発達しているが、一生懸命に勉強していないので、学問の知識はすこぶる欠けているという。

  碧川企救男らが在校していたころ、体操の先生は、いつでも彼らの袴がダラリとして長いことを叱った。

 しかし、碧川企救男は当時相当な腕白児であったが、袖から腕が出るような活発な服装は大嫌いで、袴も足の甲が隠れなければ穿く気がしなかった。碧川企救男の癖は大人になってからも残っていたという。

 21世紀の今の若者が、引きずるようなズボンを穿いている様子に、つながるような気がして面白い懐旧談である。

 碧川企救男が中学二年のとき、黒板に書かれた進級試験問題がどうしても読めないことを発見した。幾度か目を撫でてみた。しかし文字は朦朧としてどうしても読めない。

 彼は近眼になってしまった。そのため彼の目標であった海軍兵学校は諦めざるをえなくなった。

 旧制鳥取中学(現鳥取西高等学校)に在学していた頃のことを振り返った碧川企救男は、彼らが困らせ、からかった脇山先生と渡辺先生のことを思いだした。

 また、釣りの好きなため舎監を自ら望んだ向井先生、真剣の泥棒を木の棒で立ち合った横山先生など名物先生を思い出した。

 碧川企救男が旧制鳥取中学に在学していたころは、夏・冬の休みには自宅に帰省した。企救男の家は米子であったので、鳥取から米子まで歩いて帰った。その二日半の道のりを思い出すのであった。

 とくに冬の雪の時は、腰くらいまである雪をかき分けながら帰ったのであった。それにひきかえ、現在(明治45年)山陰線が通るようになってたった二時間半で米子に帰り着くという便利さを実感するのであった。その道筋を思い起こす旅であった。

 千代川は水がすこぶる清冽であり、その清冽の水は鮎の名所になっている。明治の末にはすでに漁期が厳重に守られているので、若鮎をとることは許されないが、この漁業規則が出る前は、若鮎狩りはこの千代川の名物となっていた。 

 千代川を過ぎて、汽車はやがて湖山池に着く。湖山駅は湖山池の岸にある一寒村の停車場である。湖山池は周囲三里半の小さな湖であるが、風景はすこぶる美しい。西によると青島という島がある。

 湖山池を過ぎると汽車は海岸を離れて、山に入ってしまう。次の宝木の駅までは隧道(トンネル)を五つも通らねばならぬ程である。

 宝木に入る隧道の手前に、水尻(みずしり)の池というのがある。あまり大きくはない。しかしこの池を船で渡ると、約半里を歩かずに済むので、碧川企救男らは常に渡し船に乗った。その渡し賃は四厘であった。当時鯛焼き一つが一銭であったから今で言うと四厘は三十円くらいであろうか。

 碧川企救男は二十年前の悪戯を思い出した。それは中学一年(明治二十四年のころ)のときであった。大きな試験を終え、帰省の途中であった。朝早く鳥取を発って、この池に来たのは七時ころであった。

 一緒だったのは、悪友五人連れであった。この池の手前に来ると道の傍らに一匹の土竜(もぐら)を発見した。

 なにしろ腕白盛りの碧川企救男らである。すぐに引っ捕らえて処分の方法を協議した結果、誰かの発案で水尻の池まで持っていき、池の真ん中でこれを水の中に放り込むことに決した。

 哀れなる土竜は、たちまち糸でくくられて渡し船に持ち込まれ、ついに湖に放された。土の中を潜ることしか知らぬ小さな動物は、小さな波紋を描いて藻掻き藻掻がいてやがて池の底に沈んだ。碧川企救男ら腕白仲間は、手を叩いて喝采した。 

 しかしこの悪戯は、たちまち天罰を受けることになった。三時間後、晴れていた天候はにわかに暴風雨となり、傘を折られ荷物を濡らされた彼らは、青谷というところで、昼飯を食べたまま半日を空しくて、挙げ句の果ては、ここに泊まることを余儀なくされた。

 むかし誰かの言った言葉を思い出した。罪は許されても柱の釘の跡は取れぬと。悪いことをしたのは、永久に心のどこかに潜み、ときどき人を苦しめる。碧川企救男も、この腕白当時の小さな罪悪を忘れることは、今もって出来ないのであった。


  (以下今回)

 因幡という国は随分山が多い。碧川企救男は汽車に乗って旅行して一層この感を深くした。鳥取から西の「泊」という駅までに、隧道(トンネル)の数が十カ所を越えている。

 湖山駅の次は宝木駅である。宝木駅からさらに3~4カ所の隧道を過ぎると浜村である。鳥取から浜村までは五里半(23キロぐらい)、碧川企救男らが徒歩で旅行していた時は、早くて三時間かかったが、汽車では30分もかからぬ。17年ぶりの彼は唖然とするしかなかった。

 しかし、停車場に入って浜村の家々を見ると、17年前のこの温泉宿のありさまがことごとく眼に浮かぶ。

 寄宿舎の厳格な生活から出て、いわゆる籠の鳥が故山の古巣に帰る時に羽を休める処は、すなわちこの温泉宿であった。宿は「たばこや」という旅館で、親切な愛想のよいお婆さんがいた。

 年の暮れの十二月二十七、八日ごろになるときっと大雪が降る。婆さんは表の火鉢に身を寄せて、「雪の降り出しが・・・、中学校の坊様等(ぼうちんたち)がもし帰らるだらうがや」と言うのを常とした。

 そして婆さんがこう言った日の夕方に、碧川企救男らの一行20何人の一団が、半年ぶりにこの婆さんに元気な顔を見てもらうのである。

 この宿の「たばこや」は、煙草を売るという意味ではなく、碧川企救男らの郷里では休むとこを「タバコする」と言うから、多分その意味からつけられたのであろう。

 学生の一団がこの宿に泊まると、すぐに温泉に突撃する、雀の如くにしゃべる、犬の如くに跳ねる。

 湯から上がると、一団が着いたことを耳にした村の菓子屋が、菓子箱を持って小さな旦那衆の懐を絞りに来た。ソレ饅頭、ソレ菓子とたちまちのうちに一箱は空になってしまう。

 そのうち、下女が晩飯を持ってくると、今まで蟻の如く甘きについた一団は、すぐ車座になり、二三人の下女を中心にして、茶碗を握った腕があっちからもこっちからも、半径を描いて出てくる。

 下女は目をまわしてしまう。料理はご馳走というわけでもない。冬の魚は、金頭(かながしら)に似たホーボーの塩焼き、玉子のフワフワその位が関の山である。

 ある時碧川企救男は、婆さんにこんな謎かけをしたことがある。「たばこやに泊まるとかけて五重塔に登ると解く」。心は解るかな?と言うと、婆さんは呆れたような顔をしていた。心はな、「ホーボーが見える」ってんだ。と大いに笑わせてやったのであった。

 碧川企救男らは、この村に泊まる時にはきっと松葉蟹を買って食べた。松葉蟹はこの近海で獲れる大きな蟹で、北海道のそれとあまり違わない。当時一匹二十銭くらいで買えたという。今で言えば1,000円くらいであろうか?

 これを互いに少しずつ銭を出し合って(これをコンパニーと言った)、買ったのである。ところがこの蟹は、やっかいなものでなかなかうまく肉がとれない面倒な奴である。脚の中などを箸で突っつくなどは容易なことではない。

 しかるに「諸遊(もろいう)」と言う友人がいて、これがこの蟹を食うことにすこぶる長けていて、碧川企救男らが一本の脚にマゴついている間に、この友達だけは二本も三本も食べる。

 これがために、後にはこの天才蟹食い家を仲間に入れると、互いに損だと言い出して、除名問題を持ち出したこともあった。

 宿料は十八銭から二十五銭くらいであった。今で言うと900円から1,250円くらいであろうか?



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