碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 ⑩ 

2008年04月26日 14時50分58秒 | 因幡二十士事件


                   ebatopeko

 

        鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 ⑩      

  

   (二十士事件の周辺)    安達清一郎 その2

 安政三年(1856)、この年鳥取藩藩主池田慶徳は領国に帰る時期であったが、幕府がこれを止め、江戸での滞在を命じた。

 十月、安達清一郎は伊豆地方に赴き、翌四年四月、藤田小四郎らと笠間・羽黒に遊んだ。清一郎はまた蝦夷地探索の志を持っていた。福地政次郎を通して烈公すなわち徳川斉昭に内願し、以て藩主慶徳の許可を得ようとしたが志を得なかった。さらに水戸留学の延期を願ったがこれも許されなかった。

 同四年閏五月二十日、水戸を発して日光に詣った。そのご中山道を経て六月、京都に入った。数日間の逗留中、梅田雲浜、頼三樹三郎らを訪ね、宍戸左馬之助・池内大学・僧月性らと会見し、天下の大計を論じた。

 周知のごとく梅田雲浜、頼三樹三郎は、吉田松陰らとともに安政の大獄で刑死あるいは獄死した人物である。梅田雲浜は小浜藩士、頼三樹三郎は頼山陽の子である。僧月性は吉田松陰とも親しくした尊王攘夷派のそうである。梅田雲浜とも交流した。

 六月二十四日、鳥取に帰った。これより水戸の学風および書籍は、安達清一郎により鳥取に伝わり、弘道館記述義や新論などを読み、尊王説を論じる者が鳥取藩に多くなった。

 七月、安達清一郎の母が病気になった。清一郎は牛頭天王に願をかけ、病気平癒を祈った。九月、神発流取立を申請し、さらに馬十頭を拝借し、騎馬による砲術を家中に伝授した。

 安政五年(1858)五月、騎馬砲術の門人を武宮丹治に譲った。丹治はこのころ帰国し、神発流の稽古は武宮家に委せられることになった。八月、仙台藩安藤太中が来たり安達清一郎を訪れた。そのため原田帯霞に書を書いてもらい、伯耆の富豪を説き資金を出させることに成功した。

 十月、伯耆に遊び、武信新九郎の反射竈(反射炉)を視察し、境港に景山道邨を訪ね、橋津に中原吉兵衛に会った。

 京都御留守居の山部隼太は、姉婿であったので度々京都の形勢を受けていた。この頃しきりに志士を投獄するのを聞いて、憤慨し堀庄次郎・佐善修蔵・正墻薫らと会い、たびたび国事を論じた。

 十一月一日、水戸藩士矢野長九郎・関鉄之助が鳥取に来たり、安達清一郎を訪ねた奉勅に関して鳥取の慶徳公の援助を得る為であった。関鉄之助は、のちの桜田門外の変において現場の総指揮役をとった人物で、斬罪に処せられた人物である。

 安達清一郎は、堀庄次郎とともに彼らに会い、田村貞彦によって慶徳公の内意を伺い、これを伝えた。このころ同じく水戸藩士の桜任蔵も鳥取に来たり、湯谷に赴き滞留した。十二月十二日、彼ら水戸藩の三人を湯谷に訪れ、十三日彼らの出発を送って帰った。

 安政六年正月十七日、矢野長九郎・関鉄之助らが長州よりの帰途、再び安達清一郎を訪れた。五月、鳥取藩の職制が改革され、文部・吏部・工部・武部・戸部・義部の六部に総督が置かれた。またこれを大督大尉をもっておさめさせ、小吏にいたるまで役名みな唐風にした。

 安達清一郎、堀庄次郎、佐善元立らはその名分を誤ることを論じ、田村貞彦にこれは失体であることを述べ、これを改めさせた。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。