碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (21)

2013年11月20日 15時52分43秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

 ebatopeko
  

       長谷川テル・長谷川暁子の道 (21)

 

    (長谷川テル その 18  母の思い出)

      ー全世界のエスペランチストへー ⑥

 

  (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 長谷川暁子さんと母の長谷川テルさん、このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「清」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

    実は碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は、あるいは長谷川テルを知っていたのではないかと私は想像している。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と長谷川テルは結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子の母長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子の著作『二つの祖国の狭間に生きる』、『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』、家永三郎編『日本平和論大系17』長谷川テル作品集、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」を中心として記す。

 

  (以下今回)

 数週間前
 そのなくなった二つのリンゴをさがすため
 私はM温泉に出かけました
 緑の大地には さわやかな光がふりそそぎ
 黄金色の菜の花が目の前に広がっていました
 明るい紫色のソラ豆の花の なまめくようなかおりが
 疲れた私をうっとりさせました
 ああ ここは 私が幼い日をすごした
 あのK村ではないのでしょうか?
 あなたのたもとをひっぱって
 「ハルガキタ ハルガキタ」と
 大きな声で歌いながら 飛んだりはねたりした
 あの野原ではないのでしょうか?
 ー 戦争を知らない永遠の楽園
  私はあまりにも早く この楽園にさよならをしてしまいました
 思い出が楽園から私をせき立て 追い出したのでしょうかしら?

 北から南へ 東から西へ
 二年にわたる果てしない放浪のうちに
 私のほおのリンゴは いつのまにかなくなってしまったのです
 ごめんね おかあさん
 だけど 盗んだ犯人を私はよく知っているのです
 その憎むべき手は同じです
 それは 何十万 何百万の若者や幼児から
 ほおの赤さを奪った手です
 この中国でも 私の祖国日本でも

 私 そして私たちは
 奪われたものをとり返さねばなりません
 どうしたら とり返せるでしょうか
 青白い かりそめの「いこい」によってでしょうか?
 おかあさん 
 耳をふさがないでください 目をおおわないでください
 たとえ あなたが死ぬほど恐れていようとも
 燃えたぎる戦いのルツボの中からのみ
 なくしたリンゴをいつの日にかとり返せるのです
 だけど おかあさん
 たとえあなたの娘が
 せっかくいただいたあのリンゴを
 永久になくしてしまったとしても
 どうぞ しかったりしないでください
 大切なおかあさん わかってほしいのです
 この大陸で 日本で 広い世界で
 赤いリンゴが永遠に美しく実るようにと
 ときならず落ちた無数のリンゴのうちの
 たった二つだけだーということを!
 
                  1939年 4月     重慶



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