人は、生まれた瞬間から一歩ずつ「死」に向かって歩んでいる。その期間はそれぞれ。各々の場所で生き、老いて行く。
20代のときには目の前のことで悩んでいたが、ここ最近は、残りの人生について考え、時に不安になったり、思い煩うことがある。
数年前、20代の頃できていた逆上がり(鉄棒)が出来なくなっていたときは、肉体的な変化を痛烈に感じ、失うことへの不安を覚えた。
意識して鍛えなければ身体の衰えのスピードは高まるばかり。
「できなっていく」という失うことへの恐れは、生きていくことをどんどん辛くさせる。
こんなことを考えていたとき、ある方のブログでおもしろい表現をみつけた。
「老婆は1日にして成らず」
(「ローマは1日にして成らず」から)
上手いこと言うもんだな。
老婆には1日ではなれない。「変身!シュワッツチュ!」と呪文を唱えてもなれない。
つまり、生まれてからこれまで、そして今、これからの日々の積み重ねが、老婆たるものであるという。
見かけが老けてきても、昔できたことができなくなっても、その分、老婆には思い出や経験、知恵が増していく。そう、老婆は人間的魅力の宝庫に成りうるのだ。
こう考えると、年をとることも悪くない。
「老婆=魅力の宝庫」という意識の方が、「老婆=老いの象徴」と思うよりも前向きだし、生きる姿勢も変わり、その結果、精神的にも、きっと肉体的にもより元気でいられるのじゃないか。
またあるエッセイにこう書いてあった。
「40歳から70歳までは第2の新しい人生だ」と。40歳は折り返し地点であり、その新しい扉に立っていると言うのだ。
新しい人生のスタートを始めるためにオススメされていたことは、
1.今までの自分の出来事を年代ごとにふりかえり、書き留める。この作業で忘れていた感謝すべきことや転機、出会いなどに気づかされる。
2.書き留めた自分年表にある過去の自分をリセットする。もちろん、今まで一緒だった家族を捨てるとかそう意味ではなく、「自分はこういうことができた」など自分の栄光ややってきたことに固執しない、囚われないということだ。今の自分にできることを、はじめから考えてみる。また何をすべきかを新しい気持ちで考え、そこに向かっていく。
うん、なるほど!ちょっと気持ちが軽くなったぞ。そして、もうひとつ新しい自分の人生が用意されていると思うと、楽しみになってくる。
古い自分の鎧で自分を覆い隠さず、ときにはその鎧を脱いで、まっさらな自分になってみる勇気も必要だということかな。
いつまでも自分の若い頃を思い出して今の自分を嘆くことは、必要ではない重たい鎧までも着けてしまうようなもの。新しい鎧に着替えて、気持ちよく歩みたい。
この文を書いてるうちに、ある映画を思い出した。十数年前に流行った「永久に美しく」。キリスト教の聖書観の「神を信じるものには永遠のいのちを与えられる」というところを捩って、肉体的な美(若さ)を永遠に持ち続けるために奮闘する女性たち3人の話である。皮膚を張り替えたり重ねたりしながら、上っ面の美を追求する。人間の計り知れない欲深さや虚栄心を感じつつ、3人のドタバタがちょっと怖くも笑える映画だ。
聖書観の「永遠のいのち」は、今の見える形の(肉体をもった)自分が永遠に続くという意味でなく、もっと霊的な、魂の部分においての話である。つまり、老いて、「肉体の死」を遂げた、その先にある「いのち」のこと。
神が与える「いのち」は、肉体の死が老いて行くのとは逆に、日々新しくされていくとある。「老婆は1日にして成らず」の老婆のように、「いのち」も少しずつ磨かれ、成熟されていくのだ。
これまでの人生、良いときも、悪いときもあった。でも、いつもそこには助け人や支え、恵みがあった。不安や悩みの渦に巻き込まれそうなときは、心沈め、その恵みを数えよう。
そして、今、人生の折り返し地点にいる。
肉体は衰えてはいくが、このあとの30~年どんな人生を送るのか。素敵な老婆になれるように、そして神が与えてくださった「いのち」を良いもので満たし、磨いて、内なる自分が新しくされていくようにと願いつつ、祈りつつ、自分も努力し続けられるように。
「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(聖書 コリントII4-16)
祈り:温かいお友達との交わりに心から感謝。これまでの出会いや感謝や恵みを数えながら過ごせますように。
欲しかったものが与えられない世界中の子供たちに慰めと励まし、恵みが与えられますように。愛する人と共にすごし、温かい食事や寝床など必要が与えられ、恐怖や圧迫のない生活が与えられますように。