おひとりさまの介護

母が認知症になった。なにもわからなかった介護の世界との格闘記

年末年始

2009年10月24日 | 留守宅
デパートから歳暮のカタログが届き、今年ももうそんな時期かと悠長に考えている暇はなく、早急に年末年始、母をどうするのか予定をたてなければならない。

家は工事していることになっているので、そこが使えるとわかる一時帰宅は選択外。
大晦日の日にわたしがホームで過ごすのは、ゆっくりできないのでこれも×。
結局ホテルの年末年始プランに問い合わせ、そのまま電話で予約済みの運びとなった。
ホテルでお節も出るし、わたしは食糧の買出しに行かずにすむので助かる。
ただ母と一緒に3泊は非常に厳しい。母の繰り返しの話でまた脳ストレスが高まること必定。もうひとり誰か居て交替で応対できるのならそれも可能なのかもしれないが。

そこで、1日の夜は叔母にお願いして母と一緒に泊まってもらうことにした。
私はその日は家に郵便物や新聞を整理に行く。初参りも多分その日になるだろう。
2日の夕方、バトンタッチしてもう1泊し、3日の父の祥月命日には墓参りに行って夕方までに母をホームに送っていく、というシナリオである。

個人的に唯一楽しみなのは、宿泊パッケージに入っているオンデマンド映画見放題である。

帰るとき

2009年10月18日 | 介護施設
今日は行く予定ではなかったのだが、出先で母の好きな笹団子を売っていたので、それを買い求めて母に持っていった。
今日は帰れると思っていたのか、「ここに荷物置いてってもとられないわよね」と始まる。
しばらく留守にしていたという意識からか、家を掃除しなければならないと言う。
A子ちゃんがやってくれてるよとなだめて、繰り返しの話に付き合う。
いい天気だが、今日は散歩に連れて行く余裕がない。
帰るとき、いつものように母はエレベーターホールへの出口の引き戸までわたしをおくってきた。
そのとき、はっとするように母が言った。
「あ、お母さん、ここから出られない」

私を送ってくるとき、ホームの職員のひとが私についていかないように、後ろからいつも見に来る。
それはソフトな対応なのだが、母は勘の鋭さから自分が軟禁状態にあることを察知しているようだった。

父親似

2009年10月12日 | Weblog
昼間の用事と夕方からの用事の合間に、ちょっとした時間ができたので、お菓子を持って母のホームに行った。
この季節は、急に温度が変わるときでもあるし、置いてある服に過不足がないか調べなければならない。
母は、下着の上に直接ニットのカーディガンを着ていた。
長袖のカットソーを多少補充する必要があるがあまり在庫がなく、やはりユニクロで仕入れか。
「○○ちゃんはテキパキやってくれる」と母が言う。
さらに、「お父さんに似ている」とも。

昔は父に似ていると言われるのが死ぬほど嫌だったが、今はそれほどでもない。

今年の秋刀魚

2009年10月11日 | Weblog
世の中は3連休だが、わたしは相変わらず締め切りに追われて仕事。
台風が来たり、秋らしさがさまざまなところに感じられる中、そういえば今年はまだ秋刀魚を食べていなかった。

2尾のパックを買ってきてこの週末のおかずにする。
母がやっていたように内蔵を出して、頭をとった。
結構うまくやったように思う。

叔母の伝言では、母はホームで里芋をむいたり、玉葱をスライスしたり炊事を手伝っているようだ。
季節もいいので、休日にちょっと川沿いの散歩などに一緒に行きたいのだが、わたしの余裕がなく果たせないでいる。

つきそい

2009年10月06日 | 認知症の日常
毎月1回のお年寄りのサロンが、今週は台風を心配して中止になるという電話があった。
来月はバスでちょっとした遠足だそうだ。
となると、送り迎えだけで済むかどうか。
グループホームの職員さんたちは、認知症の人のことがよくわかっているが、サロンの世話役の人たちはそうとは思えない。
というのは、母が引越ししたと周りに話しているのか、「サロンは地域のひとのためのものなので、引越ししたことはお話されないように」との伝言があったからだ。
返答の電話をした私は、「本人にも言って聞かせますが、サロンに行ったそばからすぐにそのことを忘れてますので」と話した。
ウェイティングの末に入ることができたサロンなので、グループホームに入ってからも続けているが、面倒なことが続くなら適当なときにお断りしようかと逡巡している。

悟り

2009年10月02日 | Weblog
親の老いや死にゆくさまを日々間近に見なくてすむものは、自分の老いや死にリアリティがなくて幸せかもしれない。

それについてあれこれ考えているうちに、こんな言葉に出会った。

「悟りとは如何なる場合にも平気で生きて居る事だ」正岡子規

いかなる場合にも平気で死ぬ事が悟りではなく逆だったのだ。

おしゃれごころ

2009年10月01日 | 認知症の日常
「白髪を染めたいとおっしゃってたので染めてもいいでしょうか?」とのホームからの伝言があった。
ホームには定期的に理美容の出張があるらしい。
それでもいいのだが、本人の行きつけの美容院があるので、行けるうちはそこに連れて行こうと思いますと、伝え、今日は美容院に行った。

昔から行っている美容院の担当は店長さんで、もちろん母の言動がヘンなのは心得ている。
お店の人もみんな多分、ボケたばあさんだとわかっているのだと思うが、母の居心地が悪くなるようなことはなく親切に対応してくれる。
帰るときは「またいらしてください」と送り出してくれる。
美容院の顧客も年々老いて行くから、母は決して例外ではないだろう。
あらゆるサービス業、接客業が認知症の人への対応に直面しうるのだ。

母が白髪を気にするのはいいことだと思う。
身なりを気遣う心が残っている表れだからだ。
着るもののうちすれ切れたりひどいものは私が捨てたので、おかしな格好をすることもない。
ただホームの母の収納の中は相変わらず脈絡がない。
特に、服をつないで風呂敷代わりにモノを包んでいるのは、いったいどういう発想なのか、まったくワンダーランドである。