人混みが苦手であり、疲れ果てるので、用事はまとめて行う。休日には、殆んど家の中で過ごしたい。愛車での運転にも、事故を想定するので、気疲れするのだ。仕事を辞めたら、徒歩での行動範囲にしよう、と思っている。遠出には交通機関を使おう。
自分の命もだが、他人の命を奪ってしまう危険が充分あり、高速には乗らない。飛行機も、落ちる確率を考えて控える。落ちてくるのは仕方がないが、空中に浮かんでいる気分は、逃げ場がないから。寿命は決まっているので、何処かで必ず終えるが。
自宅で、親を看取ったり、介護をする時代は済み、施設や病院での終末が増えた。ところが、人情も愛も消えてしまったのに懸念して、再びそういった再考を促す。幼児は、親の保護がなくては育たない。子どもは、育てられ方によって、親の面倒を看る。
わたくしも、青春時代には、自分の命への軽さがあって、親に屁理屈を捏ね、産んでくれと頼んだ憶えもなければ、こんな貧乏は厭だと文句を言っていた。あり難さどころか、生きていることが堪らなかった。年老いた親が何も出来なくって、衝撃を受けた。
そうか。歳を重ねると云うことは、こういうことなんだ。と我に還った。命を受け継いでいることの責任もあるが、自分を見つめ直すきっかけにもなった。親を受け入れると言うことは、自分を好きになることでもある。性格は個々に違うのを容認することだ。
施設で働いていても、時間的なことだけを勤めればいいのではない。育ってきた年数、時代や環境にも左右される。人格形成の大切さは元より、置かれた状況に馴染んでもらうことも配慮する。相性の云々もある。歳を重ねると更に意固地になってる。
そういった方々の看取りを、施設の中ですること事態が無理だ。同居していないから、というのであれば、場所の提供はあってもいいが、基本は自分の親であることを意識してほしいのだ。任せ限でなく、一緒に過ごす時間の共有を、心掛けてほしいが。
流動食や、ミキサー食の味気なさより、目の前で調理して食べさせてあげたい。この世に感謝して旅立っていこうとする者への、祈りに通じると思うが。子どもの頃にしてもらったのは、物ではなく心であったと気づいて。してもらえなかったことは還らない。
長崎茂木の枇杷葉。花芽のつき具合が、半端ではないくらいに付いた。孫の歳と変わらないので、15年目である。