狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

六月十日

2009-06-10 20:36:00 | 反戦基地
            

1945年6月10日。この日が日曜日であることは今でも忘れられない。
そして、その日の朝は、2009年の今日と同じような曇天であった。添付写真は畏友Y氏の著書から借用した。空襲で炎上するその日のT航空隊の貴重な写真である。
加納誠氏提供とあるが、ネット検索では特定出来る氏の項目はなかった。
当時の状況のすべての再現は、少年だった私には到底出来得る事ではないが、直面した爆撃の後の惨状の部分部分は言語に絶する。不幸中の幸いは日曜日の朝で、学童も教師も校舎内には一人もいなかった。学童は400人ぐらいいた筈。もしもという仮定を想像すれば大惨状になったに相違ない。今でも夢に見ることがある。
町史によると、(戦後の合併で町になった)合併前の我が村の死者23名。負傷者25名、家屋全壊24棟、半壊60棟以上。爆弾投下穴跡156以上とある。
 爆撃は、町史などの記載は、爆撃現場近くにいた方の思い出話で、正確を欠いている部分も少なくはない。
 この数字は民間側だけの数字で、航空隊では281名の少年航空兵の命を失い、負傷者115名(病院収容後26名死亡)という数字からも当日の惨状は想像出来よう。