A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

流離譚14

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 道太郎は自由民権運動の立志社の新聞社創立に参加し、ジャーナリストとして活躍したのであるが、その才能は時事的な分析や、政治思想的な論述ではなく、「民権かぞえ歌」のような文学的な方向で開花したようである。ちなみに植木枝盛の給料は破格の50円で、道太郎のそれは15円であった。

流離譚13

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
道太郎墓

 道太郎の墓を見つけるのに、雨の中を1時間以上探し回った。結局、植木枝盛の墓を左下に見下ろすような角度になる崖上の崖っぷちに6基の墓があった。足場が悪く、墓はそれぞれ思う方向に傾いている。墓所としては最も適さない場所に建っているといってよいだろう。右端奥が道太郎の墓である。


流離譚12

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
植木枝盛墓

 小高坂山を頂上から、南斜面の側に草を分け僅かな道を探しながら進むと、崖の上に出た。その下に、孟宗竹の林に囲まれて、ぽっかり窪地が広がっていおり、植木枝盛の墓はその中央にあった。最初の目印は見つかったわけである。



LUMIX FX8

流離譚11

2005年08月25日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 (8月23日の続き)山北より高知へ戻り、午後からは小高坂山の安岡家墓地を探すことにした。植木枝盛の墓の近くということだけが、手がかりである。

 しかし植木枝盛は自由民権運動でよく知られた人物であるし、その墓であれば訪れる人も多く、誘導の標識なども整備されているものだろうと思っていた。また小高坂山の墓地は非常に大きなもののようであるから、ある程度は区画整理されて並んでいるであろうと想像していた。

 その想像は二つとも間違っていた。まず植木枝盛の墓を指し示す標識などというものはひとつもなかった。小高坂山の墓地も、檀家寺や斎場があって管理されているようなものではなくて、山内氏の高知入城以来の無数の墓が、ただ無秩序に散乱しているのである。厚く手入れが行き届いた墓地もあるが、無縁になって放置されたらしいものも夥しくあり、荒れた区画では、墓石は倒れて斜面を転がり、道筋も途切れている。

 お西家の人々の墓地の場所は、家系も途絶えているので、安岡家の人にも、すでに長い間分からなくなっていた。安岡氏にも、ある人が植木枝盛の墓の近くに道太郎の墓をみたことがあるという話が伝えられているだけであった。安岡氏の最初の探索ではやはり見つからず、空しく引き上げている。

 小説の終わり近くになって、文助の墓が発見された知らせが届く。後日、安岡氏が再び訪ねた際は、神社の左まわりの坂道を登って、一度頂上近くへ出て、植木枝盛の墓を見下ろす位置から墓所に至っている。ところがこの神社の名前が分からないのである。

 タクシーに乗って、小高坂山の植木枝盛の墓地へ行きたい旨を伝えても、年配の運転手は分からず、無線で問い合わせてくれたが、これも情報が得られない。とにかく小高坂山の麓まで行って貰う事にしたが、途中小高坂市民会館を見かけたのでそこに着けてもらった。何か手がかりが得られるのではないかと考えたのだ。

 市民会館では、差別問題の16mm映画の上映会が催され、市の関係者が集まっているようだった。職員の若いふたりの女性に尋ねたところ、親切に住宅地図、観光地図を取り出して調べてくれた。植木枝盛墓入り口と書いた観光地図はあるのだが、はっきりと道筋のポイントを読み取れない。市の観光課へ問い合わせても情報なしであった。

 この付近に神社はあるかどうか尋ねたら、あるとのことでまずそこに行ってみることにした。忘れ物の傘をついでに借りた。若王一宮神社というのがその神社の名前で、その裏手が小高坂山にあたる。しかし右にも左にも斜面を登る道筋がないのである。前のお宅へ入ろうとする年配の女性を引き止めて尋ねたところ、左方へ進み、先の市民会館が面した通りへ出てすぐ上へ登る道があるらしく、そこだというのである。

 その道を登ってゆくと、山の頂上付近に行き着いた。そこから墓地らしいものが見える方へ、草を分け入って道なき道を進んだ。次から次へ墓地が現れるが、もちろん目指すものではない。傘でクモの巣をはらい、雨で濡れた草をなぎ倒してしばらく進むと、突然見晴らしの利く崖上に達した。崖下に孟宗竹に囲まれた窪地が広がっていて、中央に大きな自然石の墓と由来書きが建っていた。それが植木枝盛の墓であった。樹木に覆われ麓は見えないのだが、ここを下ってゆくと先の神社に至る位置関係のように見受けられた。

 まず第一段階はクリアしたわけである。しかし雨も強くなっており、既にシャツまで濡れていた。

流離譚7

2005年08月24日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 安岡家は、本家、お上、お下、お西の四家に分かれ、お互いに婚姻関係を結んだり、養子を出したりして、緊密な結びつきをしていた。

 御成門は藩主を迎え入れるための門と云われている。   

流離譚6

2005年08月24日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
覚之助墓

 覚之助の墓石は、後部が土中に沈み込み、仰向くように傾いていた。雨は止み、いつの間にか、うるさいくらいの蝉の声に変わっていた。

 覚之助は長男で、非常な秀才であったようだ。戊辰戦争に参加してからも、父文助の元へ夥しい手紙を送っている。板垣退助からも嘱望されていたが、会津で流れ弾を受け、妻子を家郷に残したまま亡くなった。享年三十五歳。

 こんなに墓ばかり撮影した旅は初めてであるが、仏式の戒名ではなくて、生前の本名に忌み名を付すという形の墓は、なかなかにいいものだと思った。35ミリフィルムは、お墓を撮るのにまことに適した縦横比であるナと感心。

 

流離譚5

2005年08月24日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
嘉助墓

 救われる思いがするのは、処刑された嘉助の遺骨が、今は故郷に戻り、母親の墓の隣で眠っていることである。

 覚之助は大阪住吉の陣屋勤務の際に、武市瑞山に出会っていて、その人物と勤皇思想に感銘を受けた。弟の嘉助にも武市に会って薫陶を受けるようにと進めた手紙が残っており、嘉助はそれに従ったものであろう。土佐勤皇党の仲間に加わり、吉田東洋暗殺の刺客に加わったのは、一年しないうちであった。

 脱藩し長州藩、薩摩藩と匿われた後、天誅組の大和義挙という愚挙に参加することになる。

 嘉助は覚之助と違って、それまで土佐を出たことがなく、見聞を広めるような経験も積んだことがなかった。ひたすら武市と勤皇党の影響下にテロリストになる道を選択したのであろうか。筆者は別な見方を試みているが、何分本人が書き残したものは少なく、その折々の心中を窺い知るのは困難である。