A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

安岡覚之助の戦死現場4

2006年09月19日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 昨日は、郡山からJR磐越西線で、会津若松へ向かった。

 「流離譚」の主人公の一人である、安岡覚之助が、戊辰戦争会津城包囲戦の最中に、落命した場所に立ってみたいと思ったのだ。

 タクシーに乗って、行き先を越後街道を七日町の方角へ向かって、柳橋のあたりと告げると、その柳橋というのが、運転手に分からなかった。会津藩娘子(じょうし)隊の中野竹子が亡くなった涙橋というのがあって、それのことではないかと云うのである。そうと判断する材料も持っていなかったが、とにかく現地へ行ってもらった。去年、土佐の小高坂の安岡文助墓を探し出した時のような、大変なことになるかもと覚悟していたのに、今回はすんなりと現場へたどり着けた。

 安岡章太郎の文章では、そこは非常に荒涼とした湿地帯で、柳橋はドブのような川にかかっており、「覚之助は本当にこんなところで死んだのだろうか?」と絶句したとある。それが頭の中にあって、殺伐とした風景を思い浮かべていたのだが、目の前の実際の風景はかなり違っていた。
  
 涙橋は、はたして柳橋の通称であった。柳橋のかかる川は湯川というのであるが、前日の雨のために水量が豊かで、長い水草が沈み、たくさんの川鴨が群れていた。橋は架け替えられ、護岸され、たもとに柳が植えられ、川沿いに公園ができていた。橋の会津側に、ベンチがあり、由来書きが立っている。要するに、非常に整備されているのだ。

 由来書きには、このあたりがかつて処刑場で、キリシタンや外国人宣教師が処刑されたこと、戊辰戦争で、娘子隊の中野竹子がこの付近で亡くなったことなどが、記されているが、覚之助のことは全く触れられていない。不思議に思ったが、考えてみれば、会津人にとっては、薩長、土佐の人間は親の敵であって、顕彰する対象でないのは、当然の話だ。会津では、薩長の新政府軍を西軍、会幕軍を東軍と呼ぶ。彼らは、賊軍と呼ばれるいわれはなかったと思っているので、間違っても会津でそれを口にしてはならない。勝者の歴史と敗者の歴史は別物だ。歴史はひとつではない。

 会津軍は越後街道を新潟側から攻めて、長州、大垣軍を七日町あたりにまで撤退させたが、その後、土佐軍が加勢に加わり、柳橋近くまで押し戻したということらしい。この時、覚之助は、胸壁に登って、長州勢に何か連絡をしようとして、銃撃を受けたようだ。願わくは、赦されて、いつの日か、ここに覚之助の小さな碑が建って欲しいと思う。

 ここまで出かけて行く「流離譚」ファンもいないだろうが、時々「流離譚」を検索して、小生の土佐の山北、四坊、小高坂の写真を見てくれる人も現れるようなので、写真と道筋を残しておく次第である。小説の記述と違って、現在の柳橋は落ち着いた懐かしいような水辺に変わっています。柳橋はJR七日町駅から越後街道を西に徒歩10分位。柳橋から北へ越後街道を行くと、キリシタン塚があり、さらに北へ向かうと中野竹子殉節碑が立っている。


 ところで中野竹子のことであるが、覚之助と同じ、8月25日の戦闘で亡くなっていることが分かった。生まれも育ちも江戸の会津藩邸であるが、戊辰戦争当時は会津へ戻っていて、この日は鶴ヶ城へ入城すべく、娘子隊のひとりとして衝鋒隊に加わり、薙刀を振るっていた。竹子の胸を敵軍の銃弾が貫き、竹子は妹優子に介錯を求めたそうだ。享年22歳。生き延びた優子が、後年、その時の様子を手記に残している。

 もうひとつ発見したものがある。中野竹子が亡くなったあたりの古写真を見つけたことだ。それは白虎隊伝承資料館の展示の中にある。手前に疎林と井戸があって、後方に畑や藁束を積み上げたものが見えて、こっちの写真は荒涼とした感じが漂っている。覚之助の躯が横たわった戦場もこんな風景であったろうか。

 

覚之助戦死の現場3

2006年09月18日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
鶴ヶ城包囲戦で、長州、大垣が越後街道沿いの、この七日町あたりの防御を担当していた。
会津勢が反攻を企て、長州は劣勢となったため、土佐勢の覚之助らが加勢しようとした。
覚之助は胸壁に登り、長州勢に何事かの合図を送ろうとしたのではないかと云われている。
その時、流れ弾が飛来し、彼の頭部に命中し、遥かな他郷で、彼は落命した。
古戦場変じて、ピンクのラブホテルになるの図なり。

覚之助戦死の現場1

2006年09月18日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
1年ぶりに流離譚の新しい現場。会津に来たら、是非安岡覚之助の戦死した場所を探し出したいと思っていた。
土佐藩郷士の安岡覚之助は、土佐勤王党の弾圧により2年間入牢した、出獄後、戊辰戦争で、板垣退助の指揮下に加わり、会津まで転戦を続けた。そして流れ弾に当たって戦死したのがここである。享年35歳。
会津若松の七日町。越後街道の、湯川に架かる柳橋あたり。

放屁抄

2005年08月29日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 お下家住宅は、国指定重要文化財となり、今年四月から一般公開されていたようだ。
 東京へ戻ってきてから、神田の古書店で、安岡章太郎の「放屁抄」を探し出して入手した。きれいな初版本で千円。
 「放屁抄」は、「流離譚」が書き始められる直前の短編集である。幕末の山北村をめぐる人々の言い伝えが既に語られているが、間違いが多くあり、その後「流離譚」の調査で正されている。

「放屁抄」 安岡章太郎 岩波書店 昭和54年

50mm/F2, Tri X

流離譚15

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
文助墓

 道太郎の墓の近くを探すが、文助の墓が見つからない。雨はさらに強くなったが、諦めて帰る気にはなれなかった。右下斜面へ下る道筋を探しあぐねているうちに、濡れた草に足元を滑べらせ、意に反し転び落ちるようにして、その薄暗い区画に下り立った。
 横並びに数基、小さな墓があり、左端の墓に安岡文助の名が読み取れた。胸の高鳴るのを感じた。ついに見つけたのである。
と同時に胸を突かれた。維新後の窮乏ぶりを示すがごとく、その墓はとりわけ小さく簡素なものであったからだ。

 地主郷士として、文助は几帳面な日記を残した。息子たちの活躍の時期は、むしろ憚られることが多く、記載が欠となる。
 文助は、二人の息子を横死させ、維新後間もなく妻にも先立たれている。その後は、山北のお西家を処分し、高知で活動する道太郎を頼って、自分もこの小高坂へ移り住んだものであろう。
墓の前に蹲踞し、しばし合掌。

LUMIX FX8
 木立に囲まれた墓所はかなり薄暗く、ライカの方は、F2、I/15秒でも露出アンダーであった。雨が降る中、片手に傘、片手にデジカメで撮影した。こういう時は、手ぶれ補正の利くコンパクト・デジカメがホントにありがたい。