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per l/a psicoanalisi

エスポジトに関するノート(途中)

2015-08-12 17:00:32 | Note
——Roberto ESPOSITO : "TERZA PERSONA. Politica della vita e filosofia dell'impersonale"


◇序論

7《こうして、人格の観念は、分析哲学の伝統と大陸の伝統とを関連づける一方で、世俗の概念とカトリックの概念をも結び合わせているのである。》

8「…そうした人格そのものが有する、存在論的に絶対的な優位に関しては、疑問視されることもなければ、根本から問い直されることもなかったのではないだろうか。」

23〈……ペルソナの生政治的な肉体化と、肉体の精神主義的なペルソナ化とは、一見したところそう見えるのとは裏腹に、同じ理論的な圏域にくみこまれることになるのである。〉

31《なぜなら主体性 soggettività は、つねに服従 assoggettamento と主体化 soggettivazione という二重にして同時のプロセスのもとにあるからである。それは、権力が介入しても、けっしてすべてを制服することはできないどころか、つねに新たな抵抗の形が生み出されている領域である。いまだ不確かであるとはいえ、肯定的な生政治の輪郭が浮かび上がってくるのは、このような側面からである。この生政治は、近代の知/権力の装置にたいして、ネガで(否定的に)切り取られるものではなくて、その装置を横切り配置転換させるような、緊張の方向のうえに据えられる。》


◇第1章 二重の生(人間科学機械)

69《人間存在は、ある一定の言語を自覚的に話すどころか、主観的=主体的同一性に断絶を穿つようなかたちで、無意識のうちに言語から「話しかけられている」。人間は主体であるどころか、人間のあらゆる自覚的な活動において人間に先行し人間を規定する、言語という客観的なしがらみに生まれつき従属されている。》


◇第2章 ペルソナ、ヒト、モノ

108「法が人類と個人を統合することもできなければ、個人が法の装置のなかに本来の人間存在を認めることもできないのだ。」

113“ひと‐ペルソナは、キリスト教的な語彙の起源以来、三位一体を含意しているカテゴリーであるが、それとともに、理性をもった意志の担い手としての権利の主体である。”

123“結局のところ、法‐権利がそこ起源以来もっている独自の役割とは、包摂と排除の連続的な閾に従いながら、一様とは言えないひとつの連続体の内部にカテゴリーの区切りをあたえるという点に認められるものである。”

125“したがって、ここで重要なのは、そこから帰結するペルソナ化、ないし非ペルソナ化の効果だけではなく、ひと‐ペルソナとモノとのあいだに存在しる無限の中間段階であり、それはけっして完結することなく、たえず反転可能な移行をかたちづくっているのである。”


127“……その証拠に、ひと‐ペルソナという動的装置のなかでは、モノの世界から生へとたどり着いた人間は、つねに新たにモノの世界に突き落とされることがありえたのである。”


144〈もしくは、ペルソナの古い王朝は自分自身の政体に、その政体を覆しかねない生政治的装置をもかかえこんでいる、と。〉

146《……ペルソナの言語は、身体を超えた核を人間の内部に同定し、それを意志や理性といった用語で定義づけようとしたために、必然的に身体は——動物的であれ、植物的であれ、ある次元において、モノの領域と直接の接点をもつことになったのである。》


149「モノは、ペルソナの生の有限な切片にたいして先立っていたのか、それとも事後的にくるものなのか。存在はモノの状態から生じ、モノの状態へと還る、と言いうるのか。それとも、ペルソナとしての存在に先行したり、後に続いたりするものはけっして単純なモノではなく、むしろ、モノからペルソナ、ペルソナからモノへの道程の途中に位置した、いまだ‐ペルソナ‐でないもの non-ancora-persona や、もはや‐ペルソナ‐ではない non-più-persona ものではないのだろうか。」

152「この新しいあいまいな領域において、ローマ古代の“分割 divisio”は、それ自体にたいする反証とそれ自体から帰結する結論とを同時に見いだす、とも言えるだろう。もしペルソナのアイデンティティがモノの陰画のなかで、非‐モノとしての存在によって得られるとすれば、モノはペルソナが自分自身から区別し遠ざけようとするすべてが絶え間なく膨張する空間となるべく定められているのである。」

154「分類上の純粋さによって採用された二つのカテゴリー——一方には単なる“ゾーエー zoé”、他方に最大限の価値を詰め込まれた“ビオス bíos”——のあいだには当然、数珠つなぎになった中間段階があり、観察する視座に応じて上昇したり下降したりする人間性の閾を行ったり来たりしている。」

158「人格化 personalizzazione も非人格化 depersonalizzaione も、結局のところ、同じ一つの過程から枝分かれした流れであり、その生成に関しては古代にさかのぼるが、その影響力に関してはなおも減退からは程遠いものなのである。」


159《権利の概念は、それ自身の凡庸な性格のために、当然ながらペルソナの概念を背後にともなっている。というのも、権利はペルソナの問題にかかわるからである。権利の概念はこの次元に属しているのだ。権利という語にペルソナという語を付け加え、ペルソナの権利を含んでいるものを真の現実化と呼ばれるものへと繋ぎ合わせれば、いっそう重篤な悪を犯すことになるだろう。》S. VEIL, La personne et le sacré

160「ペルソナの独占的な装置と深く関連付けながらヴェイユがとらえているのは、権利がもともともっている排他主義的な性格、つまり同時に私的 privato でもあり占有的でもある性格である。」

161「聖なるものとは、人格であるどころか、一人の人間存在にあって、非人格的なものである。人間の内部にある非人格的なものはすべて聖なるものであり、それのみが聖なるものである」S. VEIL, La personne et le sacré

161《完全なるものは非人格的である。われわれの内なる人格とは、われわれの内にある誤謬と罪との部分である。神秘主義者たちのすべての努力は、みずからの魂のなかに「私は」という部分はもはや残っていないという境地に達することを、ただひたすらめざしてきた。しかし魂のなかで「われわれは」という言葉を発する部分は、さらに計り知れないほど危険である。》S. VEIL, La personne et le sacré


◇第3章 三人称

168「したがって、エゴがいかにこの他性の自律性を尊重し、その超越性を守ろうとしても、エゴはそれに覇権的な効果を及ばさざるをえない。というのもこの他性は、論理的にはエゴと同じ定義に従うものだからだからである。」

187このトラウマ的な出来事、
187三人称とは、それ自体としては、

189〈他者〉とは、

190あらゆる系譜は

195彼性はその二者間の弁証法を

199他者を前にした

205実際、「非人称的な」項が、
205中性的なものに関して

206それはいかなる
207「ある 」[il y a]
210こうした非人称化のプロセスは、

216そこでは、匿名的なつぶやき

219外は固定した限界ではなく、

226鏡の向こう側から、

229要するに、まさに
331よく知られるように、

240?ここから出発して
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