小説『雪花』全章

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小説『雪花』第五章-3節

2017-07-06 05:03:38 | Weblog
     三
 穏やかな一週間が過ぎた。凡花は見る見るうちに、元気な姿を見せてくれた。
 月曜日の朝、目を覚ました凡雪は、遠い記憶に呼び起こされたように感じた。不意に、身体が鉛のように重くなり、奇妙な感覚を覚えた。
 ベッドから起きた凡雪は、すぐ母の位牌前に行った。すると、神殿に入ったように、身体の重みが、すーっと消え、軽くなった。
 だが、ひんやりとした隙間風に擦(さす)られて、凡雪はぶるっと、身震いした。
 直後に凡花の「お早う!」という明るい声が聴こえた。一瞬にして部屋の静寂を破り、天井から温かい空気が、ふわっと降りてきた。
「今日から学校に行くね。もう、たっぷり休んだよ」と凡花は爽やか、愛嬌(あいきょう)のある笑顔を見せた。凡雪は、胸に何かを仄々燃やし始めたように、全身が温かくなるのを感じた。
 その後、先に家を出た凡雪は自転車で、曇った厳吾(イエンウ-)弄(ロン)の先へ視線を向けて走り始めた。
 街には、冬景色と似たような、弱々しい光が降り注いでいる。
 厳吾弄を出て陽(ヤン)明街(ミンジエ)に入ると、そぐわない機械の声が聴こえてきた。身体が鉛でも溶かしたように少し怠く感じた凡雪は、両手で自転車をぐいっと握り押して進んだ。
 二十分後に大衆文化宮に着いた凡雪は自転車から降り、何の気なしにガラス壁を眺めた。
 右側に貼られた『紅高梁』の宣伝ポスターが、凡雪の視界一杯に広がった。赤々とした背景で、風に盛大に揺れる高梁が黄色の濃淡で表現され、美しくも鮮やかであった。
 全身の肌から体温が吸収されたように感動した凡雪は、反射的に、瞼を閉じた。瞼の裏には、あの頃の、陳の姿が蘇っていた。 
 凡雪は、空白に落ち込んでいくように感じて、立ち尽くした。心の遠い何処(ところ)で、ぽつんと言葉が浮かんだ。 
「陳は既に、違う誰かを愛しているんだろう」
 空から小雨が音なく降り始めた。雨滴に気づいた凡雪は我に返り、ガラス壁から離れた。
 凡雪は、ゆっくり宮に入った。宮の中は、風の音も人の音も、何もないほど静かだった。
 前へ進んでいった凡雪は、蘇ってこようとする気持ちを抑えながら、呟いた。
「陳とは、もう、何も関係ないわ」
 凡雪は顔を上げた。風に揺すられて、深緑の葉の間に木漏れ陽が見えた。
 凡雪は、図書室に着き、中に入った。すると、室員の劉小芬が、静かに前に寄って来た。
「さっき、陳が来たわよ。凡さんの机に、何かを置いたみたい」
 劉の目には、うっすらと浮かんだ暗い影が見えた。
 頭も心も激しく揺さぶられた凡雪は黙って机に向った。机の上に一枚の葉書(はがき)が置かれた。
 ゆっくりと手を伸ばして、葉書を取った凡雪は、一瞬、視界が塞(ふさ)がれた気がした。
『江南水郷・陳(チン)晓(ショウ)民(ミン)水彩画作品展』の招待案内状だった。下に、展示される場所と、期間も書かれていた。不意に音が消えた。あらゆる動きが停止したように思えた。
 凡雪は知らず、懐かしい記憶が遡っていた。凡雪の瞼の裏には、広い額の下に情熱的な瞳が輝きを放っていた往時の陳の姿が蘇(よみがえ)っていた。
 胸の底から虚しさが込み上げてきた。凡雪は力なく顔を上げ、天井を呆然と見詰めた。
 段々と天井に、凛冽な線で表現した水彩の風景画が見えてきたような錯覚を覚えた。画には、自然の命を謳歌している様子が定着されているようにも感じた。
 窓の外から、小鳥の鳴(な)き声が聴こえた。まるで病(やまい)の種を小さな命に潜(ひそ)ませて生きているような、哀しげな声を繰り返していた。凡雪は小鳥の声で、木洩(も)れ陽の中にいる夢を見たように、心が空(うつ)ろになっていくのを感じた。
 虚しさが寒さに変わって全身に広がった。凡雪は胸が軋(きし)むような激しい咳をした。
 咳を繰り返していくうちに、身体を捉えていた寒さが少しずつ静まり、消えていった。
 凡雪は、窓ガラスを開けて、構わずに息を吸った。
 すると、脳裏に、かつての、何処か冷たくて無表情な陳の顔が浮かんできた。
 外の雨が、再び降り出した。ボツボツと雨音が、はっきりと聴こえてきた凡雪は、招待葉書を、抽(ひき)斗(だし)に入れて、机から離れた。 
 お昼に食堂で食事を済ませた凡雪は、図書室に戻った途端に、突然、後ろから「凡さん、電話、電話!」という耳障りな高い声に呼び止められた。
 足を止めた凡雪が、首を振り返して見ると、守衛室の当番男性だった。
「仁(ルェン)、という名前の男性からの電話だよ」と当番守衛は、凡雪を見つめ、囁くような小さい声で伝えた。胸の底に揺らめきを感じた凡雪は「えっ?」と声を漏らした。
 守衛室に駆け付けた凡雪は、受話器を取ってから、仁に気づかれぬよう深呼吸をした。
 すると、耳の底に「雪(シゥエ)さんですか? 仁です」という聞き覚えのある透明な言葉が流れてきた。凡雪は驚きよりも先に、思考が停止した気がした。でも、余韻が頭の奥まで流れ込んでいくと、思考が瞬時に戻ってきて、心まで軽(かろ)やかになった。
 まるで遠い彼方から明るい未来を届けてくれたような不思議な新鮮さが、身に広がった。
 凡雪は、目を瞑ったまま、もう一度、深く息を吸い、ゆっくりと目を開けた。小さい声で「はい。雪です」と回答した。
 途端に、流暢な中国語が凡雪の耳の底に、きっちりと響いた。
「喫驚(びっくり)したでしょう? 突然に電話して、ごめん! 実は、さっき、雪さんの妹の花(ホア)と会ったんですよ」
 凡雪は、長い夢から覚めたように感じた。脳裏に、すぐ凡花の悪戯っぽい笑い顔が浮かんだ。心の地平にも、仁、という男性が立っている気がした。その時、雨に濡れた葉の匂いが、すうっと頭に染み渡り、固まった体を融かしてくれたような爽快感を覚えた。 
 凡雪が、そっと嘆息を漏らすのに合わせて、耳元に再び仁の言葉が流れた。
「今晩、一緒に食事でも」
 今度の声が、窓外を吹き抜ける風よりも速く感じた凡雪は、慌てて背筋を伸ばして、視線を窓外の人民路へ逸らした。鈍い光の路面に雨滴が拵(こしら)えた無数の水輪が見えては、すぐに端から見る見ると消えていく光景が視界に映った。
 凡雪は、光景へ視線を向けたまま、「今晩は、ちょっと」と回答した。
「はい。分かりました」と素早く返す仁の声が聴こえた。
 受話器を静かに戻した凡雪は、当番男性にお礼を返して、守衛室を出た。
 図書室に向った凡雪は、足音を忍(しの)ばせて歩き始めた。
 ゆっくりと前へ進むと、少し向うの空に、飛び回っている小鳥が見えた。渾身の力を振り絞(しぼ)って、ぶつかり合って遊んでいた。
 凡雪は眺めながら、自分の心の底で、もう一つ、静かな声が聴こえたように思った。
「新しい未来は、自分と繋がっているだろう」
 図書室に戻った凡雪は、劉と言葉を交わさずに、職場に入った。
 外国の文献の表紙や、背表紙が外れそうになった本を糊(のり)付けしたり、形を整えたり、が仕事の凡雪は、職務に集中した。
 時々、静かに小雨が降り続く空から、小鳥の興奮した鳴き声が凡雪の耳に入ると、身体が奇妙に熱くなり、胸の底に小さな揺らめきを感じていた。
 いつの間にか、凡雪は、自分の身体から薄皮が一枚すーっと剥(は)がれていくように思い、新たな自分の姿の想像に耽った。蛹(さなぎ)から抜け出た蝴(ちょう)蝶(ちょう)のように、雨粒に濡れて艶やかな羽を大きく広げ、海の向こうの世界に飛んで渡っていた。
 時間は静かに流れていき、凡雪は風の靡く声を聞きながら、仕事に力を込めていた。

 つづく