戯人舎

『夢あるいは現』日記

「夢あるいは現」日記12

2009-03-30 | 日記
 テレビで大間のマグロ1本釣り漁師のドキュメンタリーを見た。これで7本目だ。7本の内のほとんどを見ている。おなじみの漁師さんが中心なので、まるで親戚の伯父さんのような気がして来る。心臓に持病を抱え、妻を亡くした老漁師は亡き妻の形見のスカーフで頬かむりをして厳寒の海に出て行く。離婚して男手1つで二人の子供を育てながら、今年はまだ1本のマグロも釣り上げていない「悲運」の漁師が、朝、学校へ行く子供の弁当を用意してから漁に出る。BGMに北島三郎の「北の漁場」が流れる。ジンと来る。沖へ出て老漁師がヨタヨタしながらマグロと格闘する時はハラハラ、どきどきするし、近くでマグロが跳ね、周りの船に次々とアタリがあるのに、アタリがない、アタリがあっても釣り上げる途中で糸を切られてしまう「悲運」の漁師には、悔しくも情けない気持ちにもなる。かたやキャスティングに名人漁師を配している。1年の半分しか漁をしない。それでも大間の漁獲量が激減する中、百キロ超の大物をつり上げるし、いわゆるマグロ御殿なる家も建てる。見ていると名人と言われるくらいで、必要な物を予め近くに用意してあるし、動きにもまったく無駄がないと言うか余裕すら感じさせるほどだ。
 ここから、いろいろな見方が出来よう。これはどんな仕事にも当てはまることだし、大きく括って「人生」そのものを見ているとも言えよう。だから7本目だと言うのに、やはり見てしまう。良い作品はいろいろな解釈が可能だという良い例だ。


「夢あるいは現」日記11

2009-03-25 | 日記
 松竹座のOSK春の踊りを観に行った。3階席に座った。歌舞伎でもそうだけれど、この辺りの席は面白い。見巧者が多い。その見巧者の中に、さらに面白い人が居た。最後は舞台よりもそちらが面白くなってしまうくらいだった。案外、OSKのお客さんの間では、よく知られた有名人かもしれない。今回はその話を書こう。
 トップの影アナの挨拶が終わって、第1部が始まった。客電が落ちる。と、僕の列の左側(下手)の観客をかき分けて、その老人はやって来た。それで肝心の導入部を見逃した。(聞き逃した)その人が僕の隣の隣に座る。さあ、もう舞台に集中しよう。ところが女性の歌声じゃない男性の歌声が聞こえて来る。もちろん誰が歌っているのかすぐにわかった。何せ隣の隣だから。見ると、歌っているだけではなくて、手でタクトを振っている。それから新しい出演者が出て来るたびに拍手をする。かけ声をかける。もう観るどころではない。もっぱら興味は、この人が中心になる。走れメロスを下敷きにしたミュージカルだけれど、隣の隣が面白い。前の人や、もちろん僕の隣の人は、迷惑だよと言う視線を送るけれど、隣の隣は、恐るべき集中力の持ち主だ。歌やタクトや拍手やかけ声に忙しい。ついに1時間のミュージカルは瞬く間に終わった。終わると隣の隣は誰よりも早くロビーへ出る。
 30分の休憩が終わる。第2部レビューの始まりだ。案の定、僕の隣の人は居ない!と言うことは!客電が落ちる。歌とダンスによる世界一周の旅だ。隣の(居ないのだが)隣の人が歌い出す。タクトを振る。拍手する。かけ声をかける。僕はもうレビューも諦めて隣の隣の人に集中する事にした。でもよく観察していると、タクトは、ちゃんと合っているし、出演者の歌声が上ずり出すと、手でキイを押さえるような仕草をしている。ついには、隣の隣の僕に、上手を指したり、下手を指したりして、出を教えてくれる。真ん中を指差した時には、何だろうと、観ていたら、花道やスッポンからだったり、客席の階段だったりだ。仕舞には、こんなに熱心なファンがいる事に感動すら覚えた。佳き日なり。


「夢あるいは現」日記10

2009-03-14 | 日記
 関目に早咲きの桜がある。たった一本なのに、毎年、寒さをものともせずに咲く。近くの公園の桜は、まだ蕾も固く、冬の中で惰眠を貪っているのに、こいつの早さは半端ではない。もう、これくらいだろうと見当をつけて見に行っても、すでに散ってしまっていたことが何度もある。自分の空き日とこいつの開花が、ドンピシャだった時は涙が出そうになるほどだ。今年は、まさにそんな日になった。満開の、薄紅色の花弁が、これでもかと花をつけている。桜の花の匂いをご存知だろうか?ほのかに薫、梅の香りのように日本的な穏やかなにおいではない。本当に匂い立つ桜は、もっと濃密なのだ。満開の桜の下には死体が埋もれていると表現したのは坂口安吾だが、そのことが実感出来るような匂いだ。こいつに比べると桜の名所の桜達は洗練されて美しいが、もう濃密な匂いを失ってしまっている。関目のたった一本の桜よ、洗練された美しさなどはいらないから、いつまでも、そこに、すっくと立ち続けてくれ。一年にたった一度しか会わない恋人のように。


「夢あるいは現」日記9

2009-03-03 | 日記
 アカデミー賞が発表になった。外国語映画賞に「おくりびと」が選ばれた。短編アニメと同時受賞になった。元気のなかった日本にとって久しぶりの明るいニュースになった。どちらも地味な作品であるが、それを取り上げられたのが喜ばしい。受賞の挨拶も、変に迎合した英語のニュアンスだったりしないで、堂々としたジャパニーズ英語で好感がもてた。お上のおどおどした媚びを売ったような外交と違って嬉しかった。
 なのにだ、なのに「おくりびと」の上映館で行列が出来たとか、ロケに使われた店が、観光スポットになったとか、そんなニュースも連日マスコミを賑わい出す。それに、いちいち目くじらを立てる事もないのだが、へそ曲がりな演出者の鼻を蠢かせる。グルメ雑誌などで紹介されているレストランやお店には行かない。旅番組で取り上げられている観光スポットや温泉には行かない。仕事でたまたま行った都市でも案内書などは一切見ないで、いつもの散歩と同じアンテナで、あっちこっち歩き回るだけ。それで結構面白い場所やお店を見つけている。それが自分の地図になる。映画や書籍も賞を取ったからではなしに、自分のアンテナで探したり、偶然出会ったりの方が楽しいはずなんだけど。


「夢あるいは現」日記8

2009-03-01 | 日記
 良いものを作れば売れる。これが道理である。その道理が崩れて来ている。
 迂回して書く事を止そう。それこそ危機的状況だからだ。病気もあるだろう。老齢化もあるだろう。でも元のそのまた元は、ちゃんとやればやるほど、良いものを作れば作るほど、美味しい味を守ろうとすればするほど、経済的には大変で、それに政治的な無策が加わって、店を畳まなければならなくなる。これに尽きる。
 京都の出町商店街の近くに千代倉と言う店があった。名物はいなり寿司だ。演出者は、好みのうどんか蕎麦にいなり寿司を何個と言う風に注文する。時々、無性に食べたくなる。下鴨神社へお参りを兼ねてだが、本当は、罰が当たるかも知れないけれど、千代倉のいなり寿司を食べるついでに下鴨神社へお参りが、案外本音である。そんな千代倉が店じまいをしていた。冒頭で、いきなり熱くならざるを得ないほどが解っていただけようか。