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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く9 その2 「鹿島神宮に詣ります!!」

2014年09月23日 | 大洗巡礼記

 「塚原卜伝生誕之地」からS字カーブ状の坂道を登ってゆくと、鹿島神宮への参道筋に出ました。長い歴史を経てきた界隈ですが、景観の再整備事業が行われたようで、道も街並みも小奇麗な雰囲気にまとめられていました。天気は快晴、真夏の太陽がジリジリと迫ってまいりました。


 参道を少し進むと、左手に龍神社という小社がありました。津東西社ともいい、鹿島神宮の境外末社の一つです。こうした境外末社は他にも幾つかあるようですが、もともとはその地域の在地神であったルーツを持つところがほとんどです。これに対して、境内にある摂末社のほうは、鹿島神と何らかの関係を持った他地域の有力神であるケースが多いようです。


 真新しい大鳥居です。今年の6月に竣工したばかりで、境内にあった樹齢600年と500年、250年の杉が計4本使われています。高さは約10.2メートル、笠木幅が約14.6メートル、神宮の表口に相応しい風格をみせています。前代の鳥居は御影石製でしたが、三年前の東日本大震災で倒壊してしまいました。それに代わって復興されたのが、現在の大鳥居です。
 なお、大鳥居の亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した前代鳥居の石が用いられているそうです。


 大鳥居の脇に立つ「鹿島神宮」の社号標もなかなか立派なものです。昭和43年の建立ですが、こちらは東日本大震災にも耐えて揺るがなかったと聞きました。


 大鳥居をくぐって右手にある、境内案内図です。どこの神社でもそうですが、この種の案内板は建物や施設を大きめに表現し、境内全域を狭く描くことが多いです。実際に歩いてみたら、境内はもっと広くて距離があった、というケースはざらにあります。ここ鹿島神宮の場合も、拝殿本殿地域と奥宮地域とをくっつけて描いてあります。実際にはその二倍ぐらいの距離感がありました。


 拝殿本殿地区の正門にあたる「楼門」です。江戸期の寛永十一年(1634)に水戸藩の徳川頼房が寄進奉納したもので、正面に掲げられる編額は、東郷平八郎の直筆です。こうした門建築が対の位置にもあったのか、計画されていたのかは分かりませんが、奥宮への参道入り口にあたる場所には同規模の門の基壇と礎石が残されています。


 門の両脇に坐して護りに徹する随神像の凛々しい武装姿です。楼門と同時期の造立とみられます。


 鹿島神宮の中心域にあたる、拝殿前の区画です。右手に拝殿、左手に社務所があり、まっすぐ進むと、門の基壇と礎石を経て、奥宮への参道に入ります。


 拝殿前に進んで柏手をうち拝礼し、それから拝殿の脇に移動して奥の本殿の建物を見ました。玉垣と塀に囲まれているので、社殿の上半分しか見えませんでしたが、江戸期徳川氏系神社建築の様相は十分に見てとれました。


 なかなかに絢爛な意匠です。この本殿は徳川秀忠によって元和五年(1619)に寄進奉納されたもので、江戸幕府草創期特有のエネルギッシュな高揚感を反映して、彩色と彫刻の双方による煌びやかさの演出に力が込められています。こうした建築様式の延長上に、日光東照宮の建築群が位置するわけですが、この本殿にはまだ安土桃山期の手法が継承されているので、形式的には過渡期にあたると言えましょう。
 いずれにせよ、この時期の徳川氏系の正統的な神社建築は少なく、貴重な遺構として国重要文化財に指定されています。


 拝殿に向かい合う位置よりやや東に寄ったところにある「仮殿」です。本殿の修理や造替の際に神体を仮に移してお祀りするための社殿です。多くの神社では、工事の期間中にのみ「仮殿」を建てますが、ここ鹿島神宮では常置の施設になっているようです。


 奥宮への参道です。さきに見た境内案内図では短く描かれていましたが、実際にはかなりの距離があります。それよりも両側に並びそびえる神木老木の列を中心とする鬱蒼とした社叢の森厳さが、暑さだけでなく心の迷いをも吹き飛ばして静かな安らぎに導いてくれます。歩いているうちに何か気持ちが清々しくなってくるので、距離の長さがむしろ楽しいものに思えました。


 参道のほぼ中間あたりの左手には、鹿舎がありますが、その手前に「さざれ石」と呼ばれる石を安置した場所があります。


 鹿舎の奥には、かつての神宮寺だった鹿島山金蓮院の跡地があります。発掘調査などがなされていないので遺跡の概要は定かではありませんが、明治期の神仏分離令以前までは伽藍が構えられて一切経の経蔵も整備されていました。当時の鹿島神宮寺は、関東有数の経典の宝庫でもあり、関東時代の親鸞が「教行信証」を著すためにここの一切経を参照し研究したことはよく知られています。

 標石の傍らには、親鸞との関わりなどについての説明板もあります。親鸞をはじめとする僧侶というのは、いまでいえば大学教授に近い身分であり、学術的なスタンスで仏教の様々な事柄を研究する姿勢も当然ながらありました。修行の大半が経典の解読と研究にあてられたというケースはざらにありましたので、経典の図書館に相当する一切経の経蔵の存在は重要でした。どこにでもある施設では無いので、ここ鹿島山金蓮院にあった一切経の経蔵は、関東地方における総合図書館のような役割を担っていたとみられます。そのような重要施設を内包していたあたりにも、鹿島神宮の由緒の深さと信仰の重要性がうかがえます。


 奥宮への参道はさらに続きました。思ったより距離があるなあ、と思って境内地の広大さに改めて感じ入りました。神話時代から続くと言う歴史の古さは、単なる物語ではないのでしょう。


 奥宮地域の手前、参道の右手には熱田社の小祠が鎮座しています。愛知県の熱田神宮を勧請したもので、境内にはこうした他地域有力神の勧請例が幾つかみられます。古代鹿島神の祭祀に関わった中臣氏の版図および交流関係が反映されたのでしょうか。 (続く)

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