気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ねんどろいどぷち ガールズ&パンツァーが届きました

2014年09月30日 | ガールズ&パンツァー
 以前の記事にて紹介した、グッドスマイルカンパニーさんの「ねんどろいどぷち ガールズ&パンツァー」が一昨日の28日に届きました。予定通り、9月中に発売されましたね。


 思ったよりも大きな外箱です。合計12体のねんどろいどぷちが入ってるわけですから、これぐらいのサイズになるのか、と思いました。


 斜め上から見たら、こんな感じ。西住みほが大きくデザインされている面が、箱の上蓋にあたるわけですね。


 で、上蓋を上に向けて置き直してみました。


 上蓋を開けてみると、POPのような感じで西住みほが立ちあがる形になります。うまいデザインですね。中には12個の箱が入っていますが、ねんどろいどぷちは全部で10種+シークレット1種ということなので、あとの1個はいずれかのダブリなのだろうと推定しました。上蓋の隅にある注意書きには「このボックスで全10種+シークレット1種がそろわない場合があります。」とあって、一抹の不安を抱かせます。ダブリどころか、同じのが三体も揃う可能性だってあるわけです・・・。


 それぞれの箱の隅に、西住まほをデザインした半円形のツマミがついており、これを引っ張れば楽に箱を取り出すことが出来ます。頼りになるお姉ちゃん、ですね。


 最初の箱を開くと、出て来たのは秋山優花里。ヒヤッホォォォウ!最高だぜぇぇぇぇ!!


 本体の他に円形台座と支持フレームがついて袋に入っていました。


 続いて二個目の箱を開くと、アンチョビが出てきました。やっぱりこれがシークレット1種だったんですね・・・。


 アンチョビは、ツインテールの左右の髪も別パーツとして梱包されていました。最初に見た瞬間、何の部品だろうと首を傾げてしまいましたよ・・・。


 このアンチョビが、ペパロニに見えてしまったのは、私だけでしょうか・・・?ちょこっと改造するだけでペパロニが出来上がるんじゃないでしょうかね・・・。


 残り10個をチェックしたところ、全10種とシークレット1種が揃っていましたので、ホッとしました。ダブっていたのは、ダージリンでした。これからウチにはダー様が二人もいるのか・・・。ダブってほしかったのはお姉ちゃんだったんですけどね・・・。


 改めて外箱を、フィグマの西住みほの箱と並べてみました。やっぱり大きいですね。私の部屋は狭くて収納スペースも限られているので、どこへ収容しようかと迷っています。
 とりあえず、全10種とシークレット1種の計11体を陳列して飾っておきたいので、それに相応しいサイズのディスプレイケースを探してみます。

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「気分はガルパン」の検索キーワードについて

2014年09月29日 | ガールズ&パンツァー
 拙ブログ「気分はガルパン」は、文字通りのガルパンファンの日記というか、活動の記録です。ガルパン戦車も作っているので制作レポートもありますし、聖地の大洗へは何度も行っていますので、訪問レポートも増えています。だから、こうした内容や情報に興味のある方が来てくださっているのだろう、と察しております。
 それで、拙ブログにアクセスしてこられる読者の方が、どのような検索キーワードによって拙ブログに導かれているのか、どのような方が拙ブログに訪れて下さっておられるのか、などを、時々ブログの編集画面で見て分析することもあります。検索キーワードの一覧を見るだけでも、毎回興味深い結果が出ています。面白いので、最近の約10日ほどの検索キーワードがどのようであったかを紹介し、感想をさらっと述べたいと思います。


 2014年9月14日の検索キーワード一覧です。上位20件までが表示されていますが、多くは大洗行きの情報を求めてのキーワードのように見受けられます。以前から、大洗で出会ったガルパン巡礼の方に、「あなたのブログ読んでますよ」とか、「星野さんのブログで大洗の情報を仕入れてきました」などと言われる事が何度かありましたので、キーワードの中身からもそれがうかがえるというものです。
 しかし、中には妙なものや笑えるもの、解釈に苦しむものもあります。6件目の「薬莢 捨てるとこ」は笑えますね。丸山紗希のファンの方からでしょうか。ガルパン戦車のプラモデルに関するキーワードも幾つかありますので、ガルパンモデラーの方も何人か来ておられるようですね。ざっと見渡してみても、拙ブログの訪問者層というものがなんとなく分かりますね。
 ところで、14件目の「白身魚 大洗 9月」というのは何でしょうかね。おそらく、大洗の秋の味覚である「シラスの白波鍋」のことを知ろうとしたのでは、と推測されますが・・・。


 9月15日の検索キーワード一覧です。この日も大洗関係の情報を探すためのキーワードが目立っていました。2件が大洗での手荷物預かりに関する検索であるのには考えさせられますね。駅にもアウトレットにも商店街にもコインロッカーすら無いという、観光地としては有り得ない状況が大洗の現実なのですが、観光客としてはやっぱり手荷物の多さが問題の一つになっているわけです。
 問い合わせれば分かる事を、わざわざ検索しているという点からも、多くの方が「海水浴場で知られる大洗だから手荷物預かり所やコインロッカーぐらい有るだろう」という先入観を抱いていることがうかがえます。
 あと、ガルパン戦車の車体色や穴の位置に関しての検索も3件ありますので、拙ブログがガルパン戦車プラモデルの制作レポートブログの一種として知られていることも伺えます。興味深かったのは、9件目の「涸沼川釣り大洗駅裏」で、これは大洗駅から西へ行って涸沼川に出るあたりの公園付近が釣り場としても知られているからでしょう。


 9月16日の検索キーワード一覧です。一番多かった検索キーワードが「MIYATA 戦車」というのが面白いですね。6回も検索されているので、ミヤタ印の戦車キットが本当にあるのかと驚いて探し回った私みたいのが、他にもおられるんでしょうか。
 大半は大洗関係の情報を探すためのキーワードです。大洗へ行く前の情報収集先として、拙ブログが挙げられている様子が分かりますね。


 9月17日の検索キーワード一覧です。大半は拙ブログの記事内容に繋がるキーワードですが、10件目の「豊岡 ウォーゲーム 兵庫県」というのは何なんでしょうか。よく分かりません。このキーワードでどうやって拙ブログに導かれたんだろう、と不思議に思いました。
 あと、缶バッジに関するキーワードが2件ありますね。拙ブログは大洗行きのレポートで必ず缶バッジの紹介を入れていますので、大洗ガルパン缶バッジの情報源としても機能している、ということでしょうか。


 9月18日の検索キーワード一覧です。一番多かった検索キーワードが「第33号海防艦」ってどういうことなんでしょうね。自分が制作した海防艦のキットの紹介は一回やりましたけれども、「第33号海防艦」というのは作っていないのですよ・・・。作ろうと思っていたけど、未だに作っていません。これは確か、敵の米潜水艦を僚艦との連携作戦で撃沈した功績を持っていた海防艦のことだったと記憶しています。だが昭和20年に敵機の攻撃で沈められているので、正式な記録もあんまり無かったと聞いています。
 9件目と15件目は、同じ髭釜のカバさんチームの下宿先のモデルの古民家を探してのものですね。ガルパン巡礼の人気スポットになっていることがうかがえます。20件目の「桃助 えりか」も面白いですね。桃助は石福さんの飼い犬ですが、えりかは逸見エリカのことでしょうね。


 9月19日の検索キーワード一覧です。吉田屋の梅カフェに関するキーワードが3件並んでいますが、同一人物が検索ワードを少しずつ変えてアクセスしたのかもしれません。それを見て思ったのですが、確かに大洗の吉田屋梅カフェ「WAOON」に関する情報は、ケーキを食べて来ました、というような報告ばかりで、カフェ自体の様子やメニューの全てが分かるというようなものは、吉田屋さんの公式サイトにすら無いんですね。
 最も注目されているであろう、「さおりんのプレート」についての最新情報がとにかく少ないのです。こういうところで情報が出ていないものですから、拙ブログのような単なる日記帳にもわざわざアクセスして検索してくる方が居られるわけですね。


 9月20日の検索キーワード一覧です。大洗情報、ガルパンプラモデル情報、ガルパンアニメ情報の三群に大別されますが、これがおそらく拙ブログの読者層の一般的な傾向でしょうね。16件目と18件目は軍艦プラモデルのキーワードです。


 9月21日の検索キーワード一覧です。依然として大洗に関する情報が多く求められているようです。5件目の「那珂川聖地」とはなんだろうと考えたのですが、11件目の「那珂川 聖地 橋」を見て海門橋のことかなと思いました。劇中には登場していないので、厳密には聖地には含まれませんが、橋の両側の道路脇にガルパンキャラのポスターが設置されているので、その情報を探しているのかもしれませんね。


 9月22日の検索キーワード一覧です。大洗に関する情報検索が大半を占めますが、ガルパン戦車プラモデルの八九式中戦車甲型についての検索が前日から出ているので、それを作っている方が居られるようです。
 8件目の「山バッジ」というのは何でしょうかね。缶バッジの間違いかもしれません。20件目の「販促品」というのは缶バッジのことと思われます。大洗にて実際にノベルティとしての使用が奨励されている品は、缶バッジだけですからね。


 9月23日の検索キーワード一覧です。モデルアートの「帝国海軍艦艇総ざらい」シリーズに関するキーワードが3件もあります。これは9月19日に「軽巡洋艦総ざらい」が発売されたにもかかわらず、私がその紹介記事を載せていなかったので検索してアクセスしたものかと推察されます。
 15件目は、ちょっとびっくりしました。蝶野亜美って、サンダース校の出身だったの、と驚いてこちらも色々調べたのですが、公式設定資料類には、蝶野亜美の出身校に関する記載は見当たりませんでした。
 19件目も考えさせられますね。大洗のもう一軒のみつだんご屋として知られる白戸屋さんですが、毎月大洗に行っているのに営業していた試しが無く、店自体が長いこと休んでいるような雰囲気なのです。イベント時に臨時に営業する、という話を聞いたことがありますが、あんこう祭のような大きなイベントに限られるらしいです。


 ラストは、9月24日の検索キーワード一覧です。大洗に関する情報検索が大半を占めますが、水浜電車に関する検索が2件あります。私が9月21日に関連記事を書いたからでしょうか。水浜電車の廃線跡に関するネット上の記事は幾つかあるのですが、私自身は今年の5月に大洗の宿「さかなや隠居」に置いてある水浜電車関連の本を読んで廃線跡のことを知りました。その後、「江口又進堂」のマダムにも色々教えていただいております。10月の訪洗時には、いちどその廃線跡をたどってみたいと考えています。
 ところで、8件目の「日立カーマーキング」って何なんでしょうか。全然意味が分かりませんでした。

 いやー、検索キーワードって、本当に面白いものですねーー。

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自作ガルパン缶バッジの作り方

2014年09月28日 | ガールズ&パンツァー
 2014年7月の訪洗時より、大洗にてお世話になったお店への感謝の気持ちを込めて、自作のガルパン缶バッジを大洗女子学園のチームごとのセットで作り、パネル設置店を中心に寄贈させていただいています。その際に「他のチームのセットも欲しい」と要望されたため、注文のあったお店には、8月の訪洗時に追加で寄贈しました。
 特にガルパン缶バッジの収集に熱心な二ヶ所のお店では、いずれも店主さんに「大洗女子学園の全チームが欲しい」と頼まれていますが、80個を超える量をいっぺんに作るのは大変なので、大洗行きのたびに少しずつお渡ししてゆく、ということで了解をいただきました。以後はその形で少しずつ追加寄贈をさせていただくことになります。

 これらの自作缶バッジを、どうやって作っているのかと聞かれる機会が増えてきたので、今回さらっと簡単に紹介します。以前にも紹介記事を書きましたが、使用した缶バッジマシンなどの機器を紹介していなかったので、それも含めて段取りを順に述べてゆきます。


 まず、台紙を作ります。専用のソフトは使わず、エクセルで図面を描く時の要領で直径32ミリの円を描き、それを直径40ミリの円で囲んで二重の円を描きます。32ミリ円は缶バッジの表面部分のみ、40ミリ円は巻きしろを含めた台紙全体になります。これを複数コピーして並べると、テンプレート台紙が出来上がります。
 続いて、あらかじめ描いておいた缶バッジのデザインや図柄を、ドラッグして32ミリ円の中におさめます。32ミリ円いっぱいに入れるのではなく、周縁部に約2ミリほどの余裕を残して入れます。この2ミリの部分は、缶バッジの周囲の側面部分になります。
 上画像は、以前に試作した、大洗女子学園チームの戦車と、各チームや対戦校のマークです。いずれもエクセルで作ってプリントアウトしたものです。


 缶バッジは丸いので、台紙を円形に切る必要があります。ハサミで切ることも出来ますが、綺麗に丸く切れません。そこで上画像のスタンドカッターと呼ばれる器具を使用しています。これは模型サークルの知人に安価で譲ってもらったもので、アメリカ製です。


 台紙を細長く切ります。これをスタンドカッターにさしこんで丸くカットするわけです。


 台紙をスタンドカッターに差し込むと、上画像のように40ミリ円までがスッポリ入る状態になります。カッターの直径が42ミリあるからです。台紙を差し込んだ際に、円が真ん中にくるように位置を合わせます。
 ここで位置がずれたりすると、デザインやロゴなどがずれて仕上がる、いわゆるエラーバッジになります。それも大洗ガルパン缶バッジにおいては希少品として位置づけられ、かえって価値が上がっているようです。でも自作缶バッジで同じエラーをすると、希少品どころか、単なる失敗作でしかありません。


 ハンドルを手前に倒してカッターをスライドさせ、台紙をカットします。


 カットされた台紙です。御覧のように、40ミリ円の周囲に1ミリ加えた状態でカットされますので、台紙の直径は42ミリとなります。これで32ミリサイズの缶バッジの台紙は完成です。


 どんどんカットして、台紙を作りました。今回作った分は、9月および10月の訪洗時に大洗の各店舗に寄贈させていただく予定です。


 続いて、缶バッジのパーツを用意します。これは缶バッジの上面にあたるパーツで、業界用語では「シェル」と呼ばれます。私が購入しているところでは一個4円で販売されていますが、まとめ買いすれば若干安くなります。


 これが「シェル」です。これは直径32ミリのものです。


 次に、缶バッジの裏面にあたるパーツを用意します。フックピン型、安全ピン型、マグネット型などいろいろありますが、大洗発のガルパン公式缶バッジは、ダブルフックピン型と呼ばれるタイプです。それに合わせて私もダブルフックピン型を使用しています。そのパーツは、業界用語では「ピンバック」と呼ばれます。私が購入しているところでは一個11円で販売されていますが、まとめ買いすれば若干安くなります。


 これが「ピンバック」の外側です。「シェル」とあわせて1個ずつ買うと15円になりますが、私は両方の500個セットパックで買いましたので、1個あたり11.7円でした。大洗町の商工会でも似たような感じでパーツを仕入れていると聞きましたが、数はもっと沢山入れているはずなので、1個あたり10円かそれ以下になっているのではと推測されます。


 「ピンバック」の内側です。缶バッジマシンにてプレスする際には、この内側のほうを上にしてセットします。


 続いて、缶バッジの表面を保護するフィルムを用意します。


 これがフィルムです。直径は42ミリで、スタンドカッターでカットされた台紙の直径と同じになります。


 私が使用している缶バッジマシンです。32ミリ缶バッジ専用ですので、他の大きさの缶バッジは作れません。以前の紹介記事で述べたように、この缶バッジマシンとスタンドカッターのセットを知人に一万円で譲ってもらいましたが、これらは新品を購入すれば約4万から5万円ぐらいになるそうです。知人の話では、このセットは岐阜県のメーカー「バッジマン」で購入したもので、現在は「セーブバリュージュニアセット32mm」として販売されているようです。該当記事はこちら。「バッジマン」の公式サイトはこちら

 ちなみに、大洗町商工会にて使用されている缶バッジマシンも、坂本事務局長さんのインタビュー記事などで見る限り、同じ機種であるようです。つまりは32ミリ缶バッジ専用です。大洗発の公式缶バッジが32ミリサイズのみであるのは、そのためでしょう。
 大洗のガルパン公式バッジにて、サンダース校のケイのバッジが出ない理由は、「飯岡屋水産」で見せてもらった試作品が40ミリサイズであるからです。これで許可を得たとしても、大洗町商工会ではこのサイズを作れないのです。新たに40ミリ缶バッジ専用マシンを調達する必要がありますが、そこまでやらないでしょうね。


 缶バッジマシンには、回転式のテーブルがあり、その両端に円筒形の台がついています。左の台を「ピックアップ」、右の台を「クリンプ台」といいます。


 テーブルを本体に対して90度の位置に回します。


 左側の「ピックアップ」の穴に、「シェル」の上面を上にして入れます。


 次に、缶バッジの台紙を「ピックアップ」の穴に入れ、「シェル」の上に乗せます。


 続いてフィルムを「ピックアップ」の穴に入れ、台紙の上に乗せます。


 「ピックアップ」の穴に入れた台紙の向きを確認します。テーブルを本体に対して90度の位置に置いた時に、台紙の向きが真っ直ぐになっていれば、プレスした後に図柄がズレたり、歪んだりしません。


 テーブルを回して「ピックアップ」をプレス位置にもっていきます。上にある「アッパー」という円盤の下にきちんと入るように、テーブルを止まるまで回します。


 マシンの赤いハンドルを手前に引いて下ろし、「アッパー」を「ピックアップ」の上に被せてプレスします。写真では左手でハンドルをつかんでいますが、これは右手でカメラを扱っているためであり、本来は右手でハンドルを扱います。小さなパーツとはいえ、金属製のものをプレスするわけですから、ハンドルに力を加えてガチャンと強く倒さないといけません。


 ハンドルを引き上げると、「アッパー」も上に戻ります。プレスされたパーツは「アッパー」の内部にくっついた状態になり、「ピックアップ」は空になります。


 この状態で、今度は「クリンプ台」のほうに「ピンバック」を、内側を上にして入れます。


 テーブルを回転させ、「ピンバック」をセットした「クリンプ台」を「アッパー」の下へもっていきます。


 再びハンドルを倒してプレスします。この時に「アッパー」内にくっついていた「シェル」と「クリンプ台」の「ピンバック」が合わさり、台紙の巻きしろ部分がフィルムと共に巻かれて「ピンバック」の内側に取り込まれます。


 ハンドルを引き上げ、「クリンプ台」をずらすと、出来上がった缶バッジが穴の中におさまって出てきます。


 これで、レオポンさんチームのマークの缶バッジが完成しました。あとは、以前の紹介記事で述べたように、台紙と共にOPP袋に入れるだけとなります。

 まあ、こんな感じで作っていますが、同じマシンを使っているのであれば、大洗町商工会でのバッジ制作も、ほぼ同じ手順でなされているとみて良いでしょう。ただ、複数の店舗に100個単位からおさめたり、イベント向けに数百個を作ったりするそうなので、一日あたりの制作数もかなりのものと思われます。それで、商工会には缶バッジ制作専門の担当職員が居られて活躍されている、と聞きました。一日に数百個を作る事も少なくないそうです。
 それを聞いて、ものすごく大変だろうなあ、と思いました。なにしろ缶バッジマシンは金属製で重たく、プレスするにもそれなりの力が必要なので、10個の缶バッジを作るだけでも腕が痛くなってきます。私も、一日に作る缶バッジは30個を超えたことがありません。ガチャガチャとプレスを続けていると、肩の筋肉が何かこう、疲れてしびれて痛みも出てくるんですね。
 坂本事務局長さんが「腕のマッサージが必要だ」と仰られたのも、実際に缶バッジを作ってみて、本当によく理解出来ました。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く9 その5 「ガルパンラッピング列車に乗ります!!」

2014年09月27日 | 大洗巡礼記

 鹿島神宮駅発のガルパンラッピング列車の発車時刻は12時39分でした。これに乗れば大洗には13時41分に着きます。発車の10分前には昇降口のドアが開きましたので、乗り込んで車内を見物することにしました。


 1号車の車内にも色々なラッピングが施してあります。武部沙織です。


 西住みほと秋山優花里が戦車の上から「大洗に行こう!」と。その通り、これから大洗に向かうのです。


 窓をはさんで武部沙織と秋山優花里が。


 これも武部沙織。人気があるキャラクターなので、ラッピングデザインの数も多いようです。


 Ⅳ号戦車D型です。1号車の車内に貼ってある戦車デザインは、これ一枚しか見当たりませんでした。他にもあると聞きましたが・・・。見落としたかな・・・?


 水着姿のあんこうチームが、大洗の夏をイメージさせてくれます。茨城県を代表する海水浴場を擁する大洗町ならばでの図ですが、夏以外の季節には貼り換えるのでしょうか・・・?


 水着姿の対戦校キャラクター達です。右のダージリンは、そのポーズのままで立体化されてフィギュアが発売されていますね。


 吊り下げ広告も、ガルパン一色にまとめられています。ガルパングッズの宣伝広告は、Bトレインショーティーのそれしか見当たりませんでしたが、鹿島臨海鉄道では他にも色々販売しているはずなので、そういった様々なグッズや商品の広告を出して貰った方がいいと思います。大洗駅の売店へ直接見に行かないと、どんなグッズを売っているのかが分からないことが多いからです。


 この図の五十鈴華、カッコイイですね。劇中では見られないシーンをこうやって色々画像化してくれるのは楽しいですね。後ろで武部沙織が西住みほに何事かを囁いていますが、その内容を吹き出しに入れてくれればなお楽しかったですね。冷泉麻子、足が痺れましたか。


 この図では秋山優花里がセンターに大きく入っています。何を話しているのか、他の四人の反応がなにか微妙な感じになっています。たぶん戦車マニアの薀蓄を披露しているのでしょうか。


 考え込む冷泉麻子の図です。麻子って、どういうわけか、こういう感じのポーズが割と似合いますね。秀才だが、ちょっと変わった奇妙な子、という位置づけがなされているからでしょう。


 2号車のラッピングデザインにも採用されている図です。目立っているのは武部沙織と秋山優花里ですが、五十鈴華や冷泉麻子の地味だが確かな存在感のほうがなぜか大きく感じられてまいります。実際に戦車道の試合で活躍しているのは、砲手の五十鈴華や操縦手の冷泉麻子のほうですからね・・・。


 王大河です。もともとはアニメ雑誌のガルパン特集記事のために描き下ろされたキャラクターでしたが、いつの間にかTVシリーズにも登場しましたね。たったワンシーンだけなのに、ファンの間では大きな存在感を持たれているようです。


 この図をみて思ったのは、どうして翔鶴型の学園艦の艦橋が赤城型のそれなのか、ということでした。この疑問に関する公式設定資料での言及には、いまだにお目にかかれていません。たぶん作画の都合じゃないか、と思います。翔鶴型の艦橋は大型で複雑な形状をしていますが、赤城型のそれはシンプルでコンパクトですから、絵も描き易いでしょうね。


 この図におきましては、とにかく「マーナー」を「マナー」に訂正していただきたい、と切に希望いたします。わざと間違えて笑いを誘っているのかもしれませんが。


 猫たちと遊ぶ武部沙織です。この図から、大洗の和泉屋米穀店を連想してしまうのは、私だけでしょうか・・・。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く9 その4 「ガルパンラッピング列車です!!」

2014年09月26日 | 大洗巡礼記

 御手洗池から引き返して参道を戻り、本殿地区の近くまで来ました。上写真で柵が写っているあたりに、門の基壇と礎石がありますので、向こうに見える楼門と同規模の門が建っていた時期があったのではないかと推察されますが、神社の案内資料類には、その点についての記述が全くありません。門は建てられないままに終わったのかもしれず、存在したとしても短命に終わってしまったのかもしれません。


 拝殿の向かいにある宝物館に入り、展示されている狛犬や神宝類を見学しました。この種の施設には珍しく、写真撮影の許可もいただきましたが、神宝類をあれこれ撮影するのも畏れ多いので、狛犬と神剣の二種だけを撮影するにとどめておきました。


 狛犬は数対があり、中世から近世にかけて造立されて神域の各社殿に安置されていたとされています。痛みが少なく彩色も残っていることから、社殿の内部に安置されて神の空間を左右から護持していたものと推察されます。現存する各社殿建築の年代よりも古いものが殆どなので、以前の社殿建築の付属品として扱われたようです。社殿を造り替える場合は狛犬も新造するのが普通なので、古い狛犬はだいたいは外に出されて宝庫などにしまわれる事が多いと聞きます。こちらに展示される数対の狛犬も、そうした歴史を経てきたのでしょう。

 狛犬の大半は木造で、寄木の技法で造られています。部材を外して解体すると、内部に造立時の願文や造立年次が記されている場合があり、それによって狛犬の制作年代が判明します。その場合は、その狛犬を安置したであろう社殿の建立時期もおおよそ絞り込むことが出来ますが、神社の記録に、それに相当する建物の記載があれば、狛犬の原所在も明らかになります。


 これが神剣です。現存する神剣としては最古最大の遺品とされ、技法から刀身は天平時代末期に遡る可能性が指摘されます。本殿内に安置されて崇められた神刀「フツノミタマノツルギ」がこれであるとされ、祭神の神刀の実例としても稀な存在です。古代の「直刀」の典型的な遺品であり、国宝に指定されています。
 これを納める鞘は、金具や装飾衣装の状態からみて平安期に新調され最低一度は修理を経ているように思われます。葡萄唐草の旋転形のモチーフを軸とする装飾金具は、展示解説では奈良時代のものとされていますが、正倉院御物に伝わる刀剣の意匠よりも優美繊細に造られており、金工技術が頂点に達する藤原時代の前期頃の造形とみる可能性も否定出来ません。

 本来、神剣は鞘から抜いた状態で刃を煌めかせて安置されるのが正しい祀り方であったそうなので、鞘はもともとは無かったか、後から追加されたかのどちらかであるケースが多いようです。鹿島神宮の神階は、平安期の承和三年(836)に正二位勲一等、承和六年(839)に従一位勲一等に叙されていますが、正一位に昇った時期は定かではありません。
 が、奈良の春日神が嘉祥三年(850)に正一位に昇格していることから、そのルーツである鹿島神の昇階もほぼ同時期であったと見てよいと思われます。神剣の鞘などの神宝類を整備するのは、たいてい神階が最高位に達した時期以降に朝廷からの援助を受けての場合が多いので、いまに残る立派な鞘は、要するに平安期九世紀以降の制作である可能性が指摘出来ることになります。

 九世紀といえば、金工技術の面では密教美術の導入による新たな表現や造形が開花しつつあった頃に相当します。美術世界が豪華絢爛の極みに達した藤原時代の前期まで約50年をはかるのみです。その頃に鞘が立派な装いをともなって新調され、位階を極めた鹿島神の神剣に添えられて華を加えたのであろう、というのが私なりの想像であり、仮説です。

 とにかく、初めて見る立派な古代の大型直刀であります。素晴らしい文化財であり、これを見たさに鹿島詣をする人々が江戸期より絶えなかったと聞きます。なので、この神剣を拝見出来ただけでも、鹿島神宮に参った甲斐があったというものです。


 貴重な神剣を拝見出来た事に感謝し、ふたたび拝殿前に進んで本殿に拝礼しました。


 宝物館を出て、楼門をくぐり、大鳥居へと引き返しました。


 大鳥居の門前参道の街並みの中に私設の資料館があり、塚原卜伝に関するコーナーもあると聞いたので、早速見学させていただきました。塚原卜伝の画像も展示されていました。塚原卜伝の生家の吉川家の子孫に伝わっているもので、原本は卜伝自身が描いた自画像であったといいます。NHKで堺雅人が演じたのとは程遠い、粗野ながらも朴訥で愛嬌も持ち合わせた小柄な人物像が史実に近いようです。
 古来、剣術に秀でた人には、体格的に劣る人や小柄な方が多かった、と聞いたことがありますが、塚原卜伝もその例にもれないようです。


 展示パネルの一つに、塚原卜伝が養子に行った塚原氏の城館「塚原城」の調査資料がありました。在地武士の城館遺跡として発掘調査も実施され、遺構の概要も把握されています。左の測量図でみると、台地の先端を堀と土塁で仕切って区画し、三つの郭に分けて生活空間および防御用スペースとした形の城館であったことが分かります。若き日の塚原卜伝が過ごし、やがて旅立って行った屋敷の跡です。

 この塚原城跡に隣接して卜伝の墓所もありますので、出来れば訪ねてみたかったのですが、資料館の方に聞くと、鹿島神宮駅から歩いて一時間ぐらいかかりますよ、ということでした。バスがあるにはあるが、鹿島市のコミュニティバスなので本数も少ないですよ、という話でした。時間的余裕も無いので、今回は諦めることにしました。


 近くの蕎麦屋に立ち寄って昼食をとり、道を引き返して鹿島神宮駅へ向かいました。既に水戸行きの列車がホームに待機しているのが見えましたが、よく見るとガルパンラッピング列車でした。これはラッキーだ、と足早に駅へと駆け込みました。


 今回のラッピング車輌は、1号車の方でした。6月の訪洗時のラストで2号車に乗りましたから、今回の乗車によってやっとガルパンラッピング車輌の両方を体験出来たということになります。


 幸いなことに、発車時刻まで約15分もの余裕がありました。隅から隅までじっくり見て楽しむことにしました。


 アヒルさんチームです。


 カメさんチームです。


 あんこうチームです。


 カバさんチームです。


 ウサギさんチームです。


 昇降口ドアには、あの有名な図柄が。私が初めてガルパンなるアニメを雑誌で知った時の図がこれでしたね。


 全体を見渡してみると、大洗女子学園戦車道チーム成立初期の五チームが並んでいる形です。反対側には、その五チームの搭乗戦車が並びますので、1号車のデザインはガルパンストーリーの前半期をイメージしていることになります。
 とにかく、鹿島神宮の歴史的空間から、一気にガルパンモードに転じてしまいました。やっぱり私はバカだなあ・・・。 (続く)
コメント (1)
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モデルアート臨時増刊号 「帝国海軍軽巡洋艦総ざらい」

2014年09月25日 | ガルパン模型制作記

 去る9月19日に発売となった、モデルアート臨時増刊号の「艦船模型データベース番外編」の第四冊目、「帝国海軍軽巡洋艦総ざらい」です。公式サイトでの案内情報はこちら。私は一週間遅れて近くの書店にて購入してまいりました。
 これでこのシリーズは航空母艦、駆逐艦、重巡洋艦、軽巡洋艦が揃いまして、次号は戦艦になるということです。あとは潜水艦やその他の艦艇を出してくるのでしょうか。

 私の艦艇模型においても、軽巡洋艦クラスは結構作りました。22隻のうち19隻が完成しています。まだ作っていないのは球磨型の「大井」と「北上」、阿賀野型の「酒匂」の3隻です。「北上」と「大井」はピットロードから重雷装艦時代のキットが、フジミからは「北上」の回天搭載母艦時代のキットが発売されていますが、もとの軽巡洋艦だった時期の姿にて作ってみたい気もします。
 また、「酒匂」はまだキットが発売されていないので、作るとなればタミヤの「矢矧」のキットをベースにして小改造を加えることになります。そういえば「能代」もキットが無かったので、タミヤの「阿賀野」をベースに作りましたね・・・。

 19隻のなかで、気に入っているのは「大淀」です。アオシマとフジミからキットが発売されていますが、私が作ったのは、フジミがウォーターライン組合から脱退してシーウェイモデルシリーズの名で販売していた時期のキットです。現在のフジミの特シリーズのキットはそのリニューアル版ですが、エッチングパーツの追加が主なので、キット自体はあまり変わっていないようです。制作時はピットロードの装備セットを使って武装は全て交換し、細部も色々追加して対空兵装は昭和19年10月時点の状態にしています。
 その「大淀」の写真は、以前の記事に載せています。同じ記事中に「多摩」と「五十鈴」の写真もあります。

 私は駆逐艦を好んで沢山作ってきたので、艦隊編成のパターンはだいたい水雷戦隊がメインになります。その旗艦は軽巡洋艦であることが一般的でした。だから、駆逐艦を作れば作るほど、それに合わせて軽巡洋艦をも作らなければならなかったわけでした。そうやって、栄光の第二水雷戦隊をほぼ実現させては、喜んでいた時期がありましたね・・・。
 今回の本を読んでいると、まだ作っていない3隻もいずれは作ろう、という気持ちになりました。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く9 その3 「奥宮と神域です!!」

2014年09月24日 | 大洗巡礼記

 鹿島神宮の奥宮に着きました。その社殿はもとの本殿であった建物で、慶長十年(1605)に徳川家康によって寄進建立されたものです。これを徳川秀忠が現在の本殿に替えた際に奥宮に引き移しています。家康期の建築遺構は、徳川氏系建築のなかでも数が少ないので、貴重な建築としてこれも国重要文化財に指定されています。


 この建物は、関ヶ原合戦の五年後に竣工しているため、形式的にはまだ安土桃山期の京都ふうの建築技法が主流を占めています。当時の関東は、江戸も含めて未開発、発展途上の状態でしたから、文化や技術などは上方から導入するケースが殆どであったようです。いまの建物の細部にも、京都や奈良の同時期建築によくみられる要素が多く認められます。


 蛙股の部分を望遠モードで捉えてみました。細部の透かし彫りの細やかさ、滑らかな彫り口や仕上げはまさしく京都大工の手法です。植物の造形にしても、葉や茎は実物に似せて可能な限り薄く、細く造ってあります。こういうのは反面脆くて壊れやすく、なかなかオリジナルの形が残りにくいものですが、こちらの遺構においては割合によく保たれています。大洗磯前神社の建物の細部の彫刻は、江戸期の抽象的意匠を盛り込んでいるので、植物でも太目に表現されています。


 奥宮の社殿を斜め後ろから見ました。天井裏の小屋組を高く造ってあるので屋根が高く反り上がっています。これは古代以来の神社建築の特色の一つであり、慶長期においても古代の手法を尊重して継承していたことがうかがえます。京都の神社建築に共通した雰囲気が感じられるのも、そのためでしょう。


 妻飾りの雲文の表現も雅やかさに満ちて見事なものです。これを江戸期においては金属板の透かし彫りなどで表す例が多いですが、本来はこのように全てを彫刻にて飾る意識が重要でありました。金属板になってしまうと彫刻のもつ立体感が無くなりますので、全体的に安っぽくなってしまいます。そういった形式化に陥っていない時期の造形が、時代を代表する美の形にも繋がるのだろうと感じています。


 奥宮の脇から参道を少し進むと、大きな石造レリーフのある辻に出ます。石造レリーフは武甕槌大神と大ナマズを彫り表しています。この地、鹿島郡には地震を起こす大ナマズが横たわっていたが、武甕槌命が要石を釘として貫き止めたという説話が伝わります。そのお蔭で当地域においては大地震による被害が少ない、と信じられています。武甕槌命が大ナマズを留めるための釘として使った要石は、参道の奥の結界内に祀られています。


 要石を祀る結界の横には、松尾芭蕉の句碑があります。「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」という句が刻まれています。芭蕉は、貞享四年(1687)に「鹿島詣」の旅をしてこの地に至っており、境内の奥宮の前にも「此の松の実生えせし代や神の秋」の句を刻んだ碑がたてられています。芭蕉の禅の師匠であった仏頂禅師が鹿島に住んでおり、師を訪ねて中秋の名月をめでながら旧交を温めようとしたのが、芭蕉の「鹿島詣」の目的であったとされています。


 要石を祀る結界の鳥居と玉垣です。古い神社においては、境内地の奥に原始的祭祀の名残りである磐座がみられることが多いですが、鹿島神宮の要石も、おそらくは磐座の一種であったのでしょう。ただ、地表には僅かに一部が露出しているだけ、石本体の大部分は地下に果てしなく広がっていると言い伝えられます。
 かつて徳川光圀がその大きさを確かめようと試み、七日七夜にわたって周囲を掘らせたものの、石が巨大に過ぎて堀り切れなかったということです。磐座の多くが、巨大な石の一部が露出していると言い伝えられていますから、鹿島神宮の要石もそれに属するケースと理解されます。あまりにも巨大な石であるがために、大ナマズをもしっかりと押さえつけている、と古来より信じられていたようです。


 要石の小さな丸い露頭です。賽銭の一円玉と比べれば、露出部分が小さいことが分かります。地下には七日七夜掘っても全容が明らかにならなかったという巨大な岩塊が横たわっているわけです。現代の掘削技術をもってしても把握し難い大きさなのでしょうか。


 要石の前に立つ灯籠です。火袋部分が無くなっていますが、木造であったのかもしれません。笠が中台とみられる部品の上に直接乗っており、中台の下には受花にあたるとみられる台座があります。現状でも大きいので、火袋の大きさを加算すれば、かなり背高の灯籠であっただろうと推察されます。神社の案内資料では「安永五年の石塔」となっていますが、厳密には石塔ではなくて灯籠です。


 この「安永五年の石塔」の寄進者は鹿島宮の大禰宜であった中臣朝臣真親です。古代豪族の一として大和朝廷時代からの歴史にも登場する中臣氏は、一般的には大化の改新クーデターの立役者であった中臣鎌足の活躍によって知られますが、本来は常陸国鹿島宮の神官を務めた豪族であったようです。その一統が大和国にも進出し、やがて物部氏と組んで朝廷の一派に成長し、のちに藤原氏となって古代日本の政権の中枢に位置するという流れで理解されます。

 私は奈良に長く住んでいて、古代史や考古学を勉強していたので、古代の豪族の歴史や分布も大体知っています。飛鳥の蘇我氏、山辺の物部氏、葛城の巨勢氏、添上の春日氏などの名族が由緒も本貫地もはっきりしていて遺物や遺跡も豊富であるのに対し、中臣氏というのはよく分からなかったという思い出があります。中臣氏ゆかりの地、というのが奈良県内にはさっぱり見当たらなかったので、不思議に思っていた時期もありました。
 ある時、春日大社の歴史を調べた際に、そのルーツが鹿島神であって、その神官の中臣氏が春日大社の創建に大きな役割を果たしたらしいという事柄を知り、ああ中臣氏というのはやっぱり大和の豪族じゃなかったんだ、常陸国からやってきた外来氏族の一人だったんだ、と納得がいきました。中臣氏が創建した春日大社なのであれば、中臣氏の子孫の藤原氏がこれを氏神として崇拝するのは当然の流れとして理解出来ます。
 さらに、大和の中世戦国期において、春日大社に流鏑馬を奉納する武士団の有力な一派に片岡氏というのがあります。その先祖は常陸鹿島神の眷属であり、鹿島神が神鹿に乗って鹿島灘を発して大和国にはるばるやってきた時に従ってきた随人の一人であったと系図資料などに書かれますが、その片岡氏も本姓は中臣氏であったという説が出されています。
 鹿島郡には片岡という在所もあり、鹿島神宮に関係した在地勢力としての片岡氏も活動していましたから、大和の武士団の片岡氏も、その分流の末裔として捉えていいように思います。

 このように、中臣氏の歴史というのは、鹿島を本拠として捉え直すと、割合によく見えてきます。今回の鹿島神宮参拝にて、そのことを再確認出来ただけでも有意義なことでした。古代から連綿として朝廷に君臨した藤原氏のルーツが、ここ鹿島神宮であるのですから、古代史に親しんだ私にとっても、興味の尽きない感動的な歴史空間でありました。


 要石から奥宮に引き返して、参道とは反対側の谷間へ降りてゆくと、御手洗池と呼ばれる園池があります。方形の池に造られて中央に鳥居が立てられ、神域の清浄水の場として禊などの神事が行われます。


 鳥居の奥には清水の湧き出る石組みの施設があり、水神の祠のような位置にて祀られています。その湧水が池に注いでゆるやかに生み出す流れに乗って、黒い鯉が悠然と泳いでいるのが印象的でした。
 黒い鯉は「烏鯉(からすごい)」、「黒鯉(くろごい)」などと呼ばれ、大体は食用の真鯉として知られますが、神池の黒鯉は神への贄として奉納される神聖な存在として扱われるそうです。


 清水の湧き出る石組みの施設に近寄ってみました。ここでは参拝客が水稲やペットボトルなどに水を汲んで持ち帰ることも出来ます。御手洗池は境内地の奥の谷地の先端にあたるので、神域の地下水が全て集まって湧き出る場になっているわけです。千年来の鬱蒼とした社叢と大地からの恵みの水、と言っても過言ではなく、似たような湧水の例を奈良県に探せば、三輪明神狭井社の神井戸などが挙げられます。


 湧水施設の脇にも句碑が立っています。松尾芭蕉のそれではありませんが、鹿島の森に心を託す俳諧の精神はおそらく共通した位置にとどまっていたことでしょう。「涼しさや神代のままの水の色」と詠んだのを刻んであります。詠み手の松露庵雪菜は、江戸期の俳人の一人として知られます。


 続いて印象に残ったのが、池の上に横に伸びて張り出す老神木の姿でした。鳥居に接触しないように支え木などを施してありますが、そういう支持材がなくても自力で生き生きと伸びてゆきそうな、溢れんばかりの生命感が放たれています。垂直に近い崖面から横に伸びると言う、本来は有り得ない生長の形を遂げているだけに、神の依代の神秘として崇められてきたことと思われます。


 その横には、更に大きな老木を切り倒した跡が切株となって残されていました。傍らの案内板によれば、樹齢は約600年、今年新たに竣工した大鳥居の材として用いられたことが分かります。真新しい白木の大鳥居は、御手洗池のほとりの神木を使ったわけですが、それだけに神々しいパワーにも恵まれて、鳥居には相応しいものであったでしょう。


 道を引き返して、再び鹿舎の横を通りました。かつては鹿島の神鹿と崇められ、奈良春日大社の鹿たちの先祖ともなった鹿たちの末裔が、暑い日差しにも微動だにせず、通り過ぎる私を一瞥したのみでした。人間に近寄ってきてお辞儀もきちんとする人懐こい奈良の鹿とは全く逆の、無愛想さでした。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く9 その2 「鹿島神宮に詣ります!!」

2014年09月23日 | 大洗巡礼記

 「塚原卜伝生誕之地」からS字カーブ状の坂道を登ってゆくと、鹿島神宮への参道筋に出ました。長い歴史を経てきた界隈ですが、景観の再整備事業が行われたようで、道も街並みも小奇麗な雰囲気にまとめられていました。天気は快晴、真夏の太陽がジリジリと迫ってまいりました。


 参道を少し進むと、左手に龍神社という小社がありました。津東西社ともいい、鹿島神宮の境外末社の一つです。こうした境外末社は他にも幾つかあるようですが、もともとはその地域の在地神であったルーツを持つところがほとんどです。これに対して、境内にある摂末社のほうは、鹿島神と何らかの関係を持った他地域の有力神であるケースが多いようです。


 真新しい大鳥居です。今年の6月に竣工したばかりで、境内にあった樹齢600年と500年、250年の杉が計4本使われています。高さは約10.2メートル、笠木幅が約14.6メートル、神宮の表口に相応しい風格をみせています。前代の鳥居は御影石製でしたが、三年前の東日本大震災で倒壊してしまいました。それに代わって復興されたのが、現在の大鳥居です。
 なお、大鳥居の亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した前代鳥居の石が用いられているそうです。


 大鳥居の脇に立つ「鹿島神宮」の社号標もなかなか立派なものです。昭和43年の建立ですが、こちらは東日本大震災にも耐えて揺るがなかったと聞きました。


 大鳥居をくぐって右手にある、境内案内図です。どこの神社でもそうですが、この種の案内板は建物や施設を大きめに表現し、境内全域を狭く描くことが多いです。実際に歩いてみたら、境内はもっと広くて距離があった、というケースはざらにあります。ここ鹿島神宮の場合も、拝殿本殿地域と奥宮地域とをくっつけて描いてあります。実際にはその二倍ぐらいの距離感がありました。


 拝殿本殿地区の正門にあたる「楼門」です。江戸期の寛永十一年(1634)に水戸藩の徳川頼房が寄進奉納したもので、正面に掲げられる編額は、東郷平八郎の直筆です。こうした門建築が対の位置にもあったのか、計画されていたのかは分かりませんが、奥宮への参道入り口にあたる場所には同規模の門の基壇と礎石が残されています。


 門の両脇に坐して護りに徹する随神像の凛々しい武装姿です。楼門と同時期の造立とみられます。


 鹿島神宮の中心域にあたる、拝殿前の区画です。右手に拝殿、左手に社務所があり、まっすぐ進むと、門の基壇と礎石を経て、奥宮への参道に入ります。


 拝殿前に進んで柏手をうち拝礼し、それから拝殿の脇に移動して奥の本殿の建物を見ました。玉垣と塀に囲まれているので、社殿の上半分しか見えませんでしたが、江戸期徳川氏系神社建築の様相は十分に見てとれました。


 なかなかに絢爛な意匠です。この本殿は徳川秀忠によって元和五年(1619)に寄進奉納されたもので、江戸幕府草創期特有のエネルギッシュな高揚感を反映して、彩色と彫刻の双方による煌びやかさの演出に力が込められています。こうした建築様式の延長上に、日光東照宮の建築群が位置するわけですが、この本殿にはまだ安土桃山期の手法が継承されているので、形式的には過渡期にあたると言えましょう。
 いずれにせよ、この時期の徳川氏系の正統的な神社建築は少なく、貴重な遺構として国重要文化財に指定されています。


 拝殿に向かい合う位置よりやや東に寄ったところにある「仮殿」です。本殿の修理や造替の際に神体を仮に移してお祀りするための社殿です。多くの神社では、工事の期間中にのみ「仮殿」を建てますが、ここ鹿島神宮では常置の施設になっているようです。


 奥宮への参道です。さきに見た境内案内図では短く描かれていましたが、実際にはかなりの距離があります。それよりも両側に並びそびえる神木老木の列を中心とする鬱蒼とした社叢の森厳さが、暑さだけでなく心の迷いをも吹き飛ばして静かな安らぎに導いてくれます。歩いているうちに何か気持ちが清々しくなってくるので、距離の長さがむしろ楽しいものに思えました。


 参道のほぼ中間あたりの左手には、鹿舎がありますが、その手前に「さざれ石」と呼ばれる石を安置した場所があります。


 鹿舎の奥には、かつての神宮寺だった鹿島山金蓮院の跡地があります。発掘調査などがなされていないので遺跡の概要は定かではありませんが、明治期の神仏分離令以前までは伽藍が構えられて一切経の経蔵も整備されていました。当時の鹿島神宮寺は、関東有数の経典の宝庫でもあり、関東時代の親鸞が「教行信証」を著すためにここの一切経を参照し研究したことはよく知られています。

 標石の傍らには、親鸞との関わりなどについての説明板もあります。親鸞をはじめとする僧侶というのは、いまでいえば大学教授に近い身分であり、学術的なスタンスで仏教の様々な事柄を研究する姿勢も当然ながらありました。修行の大半が経典の解読と研究にあてられたというケースはざらにありましたので、経典の図書館に相当する一切経の経蔵の存在は重要でした。どこにでもある施設では無いので、ここ鹿島山金蓮院にあった一切経の経蔵は、関東地方における総合図書館のような役割を担っていたとみられます。そのような重要施設を内包していたあたりにも、鹿島神宮の由緒の深さと信仰の重要性がうかがえます。


 奥宮への参道はさらに続きました。思ったより距離があるなあ、と思って境内地の広大さに改めて感じ入りました。神話時代から続くと言う歴史の古さは、単なる物語ではないのでしょう。


 奥宮地域の手前、参道の右手には熱田社の小祠が鎮座しています。愛知県の熱田神宮を勧請したもので、境内にはこうした他地域有力神の勧請例が幾つかみられます。古代鹿島神の祭祀に関わった中臣氏の版図および交流関係が反映されたのでしょうか。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く9 その1 「鹿島臨海鉄道です!!」

2014年09月22日 | 大洗巡礼記
 2014年8月19日、水戸の友人U氏に誘われて東京に行き、東京国立博物館、根津美術館などを回り、ついでに中野のナムコビルのキャラポップストアへ寄ったり、五反田の人気食事処で食べたりしました。
 最初は、この東京見物だけで終わりにするつもりだったのですが、事前の調整連絡にて、私の有給休暇が22日までの4日間であることを知ったU氏が、「このままウチに遊びに来なよ、美和も喜ぶし」ともちかけてきたのでした。美和、というのはU氏の奥さんの名前で、U氏と同じく、京都造形芸術大学にて共に学んだ同期生の一人です。大洗の南隣の鉾田のご出身で、以前に大洗の蕎麦屋として人気ナンバーワンの「武山」を紹介してもらったことがあります。

「うーん、どうしようかな。その休暇中に呉とか広とかへ行こうかな、と思ってるんやけどな・・・」
「なに呉?広? ・・・ほほう、どっちも帝国海軍ゆかりの地じゃないか。星野もそろそろ本来の帝国海軍マニアに戻りつつあるのか」
「戻りつつあるんじゃない、ずっと心にはいつも旭日旗がたなびいておるよ・・・」
「これは失礼、そうだったな、昔から「駆逐艦の男」と呼ばれてるんだったな。艦隊これくしょんにも興味はあるのか?」
「いや・・・、そっちはちょっと・・・」
「だろうな、軍艦を擬人化して美少女にしてしまう飛躍ぶりには、俺だって違和感を覚えるぞ・・・。まあそんなことはどうでもいい、東京まで来るんなら、休暇を生かしてウチまで来たらいい。大洗へは毎月行ってるんだろ?だから、君はそうするべきだ。な?」
「・・・勝手に決めないでくれんか・・・」
「いや、俺の勝手で言ってるんじゃない。君がいつも行く、行きたい、とか言いながら全然行ってない所があるじゃないか。そこへ行くためにも大洗行きは必須だな」
「全然行ってない所、ってどこやねん。大洗はだいたい回ってるよ」
「なんだ、もう忘れたのかね。鹿島神宮への参拝は絶対やると言ってたのに」
「えっ、鹿島神宮・・・」

 思わず額を右手でたたいてしまいました。そうだった、鹿島神宮への参詣をまだやってなかったんだ、とようやく気付きました。呉や広の地名がいっぺんに霞んでゆきました。


 かくして8月も大洗行きを、鹿島神宮参拝をメインとして楽しむことになりました。19日は水戸市内原のU氏の自宅に泊めていただき、翌朝は出勤するU氏の車でJR水戸駅まで送って貰いました。そのまま鹿島臨海鉄道のホームへと移動し、8時21分発の鹿島神宮行きの列車に乗りました。


 今回も切符を撮影しました。切符ははじめて見る縦長のタイプでした。一方の終点である鹿島神宮までの全線を乗るのは今回が初めてだったので、いつもとは違う新鮮なワクワク感がありました。大洗へ行く形だけでは、鹿島臨海鉄道の全線を体験出来ないのですね・・・。
 しかし、1570円って高いなあ、と思いました。所要時間が約一時間なので、それぐらいの運賃になるのかな、と考え直しました。


 車内にある広告の一つは、常澄駅付近の田んぼアートの案内でした。前月に見かけた「みとちゃん」のやつだな、と気付きました。これは6月の田植え直後からの姿を見ているので、今回はどこまで成長しているかな、と窓の外を眺めました。


 なかなか立派に形が決まっています。まさしく「田んぼアート」ですね。これをやろうという発想と行動力、そして稲苗をここまで育ててきた努力に敬意を表します。見る者を楽しませようという、おもてなしの気持ちが溢れていますね。
 こういう取り組みが、見物客を呼んで一つの人気スポットを生み出してゆくわけですが、これの積み重ねが地域起こし、町起こしの原動力にも繋がるのではないかと思います。


 窓に広がる農地の青い稲穂の海を眺めました。今年の夏は蒸し暑いとか酷暑だとかいう感じがあんまりしなくて、涼しい日が続きました。冷夏ということになるのでしょうが、稲の育ち具合にも何らかの影響があるのかもしれません。


 大洗町域に近づいたので、反対側の窓を見ると、ちょうど堀川の船溜りの向こうにマリンタワーが見えました。堀川の船溜りの形状は、一見すると運河の痕跡のようにも見えてしまいますが、こちらは当初から涸沼川域の船溜りとして掘削され整備されていたことが、明治期の古地図や資料からもうかがえます。
 昔はもっと奥まで堀が入り込んでいたのですが、徐々に埋め立てられて、現在は約三分の一ぐらいの長さになっているそうです。


 大洗駅を発車して間もなく、右手の窓に、以前に訪ねた「ウツギ崎砦跡」の丘が見えました。神社周辺の荒廃ぶりは相変わらずのようですが、その上の丘も木がさらに伐採されていて、丘上の平坦地の形が分かるようになっていました。その平坦地が「ウツギ崎砦跡」の曲輪跡の一つであろうと思われます。
 いずれは境内地を中心にして丘全体を綺麗に整備するのでしょうか。そうなれば、戦国期の城砦遺跡にも今よりは楽に行けるようになるのかもしれません。大洗町の中心街に接する中世戦国期の城砦遺跡としては唯一の貴重な存在であるだけに、その周知や保存がもっと図られるべきだろうと思います。


 大洗の次の停車駅は涸沼駅でした。何気なくホームの景色を見ていて、屋根の下にウサギさんチームの六人のパネルが並んでいるのを見つけました。びっくりすると同時に、そうだ「ガルパン駅なかかくれんば」は大洗駅だけじゃなくて鹿島臨海鉄道の五ヵ所の駅で実施しているんだった、と思い出しました。
 ですが、停車時間が30秒にも満たないので、ホームに降りて写真を、というわけにはいきませんでした。全ての駅のキャラクターパネルを見つけるだけでも大変そうなので、撮影するのは無理かもしれないな、と感じました。

 その予想通り、次の鹿島旭駅ではカメさんチームの小山柚子しか視認出来ず、その次の徳宿駅では、発車後になってから反対側のホームの屋根下にカバさんチームの四人のパネルが並んでいるのをやっと見つけたにとどまりました。


 新鉾田駅では、アヒルさんチームの近藤妙子のパネルだけをなんとか撮影出来ました。あとの三人のパネルが見当たらないので、ホームの反対側についているのではないか、と考えました。降りて確認する暇も無かったのは、言うまでもありませんでした。帰りの列車で大洗へ戻る時にもう一度探すことにしよう、と決めました。


 「ガルパン駅なかかくれんば」は、大洗から新鉾田までの五ヵ所の駅に、大洗女子学園チーム初期の五チームつまりあんこう、ウサギ、カメ、カバ、アヒルの各チームのキャラクターパネルを配置するという企画です。なので、新鉾田を過ぎれば、あとはのんびりと車窓の景色を眺めるだけです。
 そのうちに北浦の細長い水面が伸びてきて、幅広の川のように望まれました。


 北浦湖畔、大洋と過ぎて、次に鹿島灘駅に停まりました。鹿島灘というと海のそれを連想しますが、同名の駅も存在するのですね。


 終点の鹿島神宮駅に着きました。これはJR東日本の駅なので、設備の規模や雰囲気が全然違います。鹿島臨海鉄道は、鹿島サッカースタジアム駅から鹿島神宮駅までの区間においてJR鹿島線に乗り入れる形で運行しています。


 水戸から乗ってきた列車は、大洗駅で後ろの一両を切り離し、あとは一両のみで走ってきました。水戸で乗ったのとは反対側の昇降口から下車しましたが、その後で初めて、車体に常総大学の案内ロゴがラッピングされているのを知りました。ラッピング車に乗るんなら、ガルパンラッピング車輌のほうに乗ってみたいですね・・・。


 鹿島神宮駅です。施設の規模は大きいですが、構内に売店や店舗などが見当たらず、ガランとした雰囲気がただよっていました。


 駅の周囲にはロータリーもあって広々とした空間が確保されています。東京駅八重洲口から20分ぐらいおきに運行される高速バス「かしま号」もここの停留所が終点となっています。東京から大洗へ行くコースの一つとして、「かしま号」と鹿島臨海鉄道を乗り継ぐコースがありますが、所要時間が約三時間ぐらいなので、上野経由で常磐線の特急を利用した方が早く大洗に行けます。


 駅から鹿島神宮参道へ通じる坂道の途中には、「剣聖塚原卜伝生誕之地」なる区画があり、大きな立て看板が目立っています。戦国期の剣術家または兵法家として著名な塚原卜伝は、ここの出身です。鹿島神宮の神官で、常陸大掾氏の一族に連なる鹿島氏の四家老の一人である卜部氏の子として常陸国鹿島に生まれました。父の卜部覚賢は、同時期史料では吉川覚賢とも書かれており、在地領主としての色彩も帯びていたようです。その屋敷跡がこのあたりにあったということです。


 立て看板の立つ一角は公園となっていて、中央には塚原卜伝の銅像が立っています。この歴史人物のことは、ずっと昔に戸部新十郎さんの「日本剣豪譚 戦国編」(光文社文庫)で読んで大体のイメージを掴んでいましたが、どことなく茫洋とした雰囲気があり、強烈かつリアルなイメージのある上泉信綱や柳生宗厳に比べると、あんまり人物像がはっきりしない、というのが私の正直な感想でした。
 ですが、こうして生誕の地に立ってみますと、不思議なもので、この歴史人物が身近に生きて剣の技を模索した経緯までもが生々しく感じられてきました。歴史を学ぶ上で、もっとも大切なのは現場へ行くことですが、その通りだな、と改めて思いました。 (続く)

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大洗の水浜電車の廃線跡

2014年09月21日 | 大洗巡礼記

 上画像は、2014年9月の訪洗時に、「江口又進堂」の歴女マダムこと江口文子さんから頂いた「大洗食べどころ」マップです。9月17日の午前中に缶バッジの調査で立ち寄った折に、かつて大洗を走っていた水浜電車のことに話題が及びました。
「今度、10月の13日にね、その廃線跡を歩くという催しがあるんだけど、参加しない?」
「いやあ、そのタイミングにはちょっと出られませんので・・・」
「そう、残念だねえ」
「でも、その廃線跡には興味がありますんで、10月の上旬あたりにひとつたどってみようと考えてます・・・」
「そう、じゃあ、地図を描いておくね」


 ということで、江口さんが「大洗食べどころ」マップに赤鉛筆で水浜電車のルートと停留所の位置を描き入れて下さいました。
「大洗町内では、まず涸沼橋の西側のところの橋桁跡から見て、ずーっとエコスの所まで行って、ここで曲がって迂回して大貫の停留所。ここから北にまがって役場の裏に行って曲松の停留所。そこから丘に向かって登って行って、東光台の方で右に折れて停留所。そのまま神社の裏手に進んで大洗の停留所。13日のウォークではここまで行く予定なんだ」
「終点の祝町までは、ゴルフ場の中を通らないといけませんね。今は廃線跡の遺構は残ってるんですか?」
「残ってるっていう話だよ。まだ見て無いけどね。ウォークで祝町まで行くのは、距離的にちょっと大変だからね、今回は大洗停留所跡までだね」

 江口さんの話によれば、各所に杭などの遺物が残されているそうです。次の訪洗時には、それらも含めた廃線跡ルートの探索を楽しんでみたいと思います。これまでにも一部の軌道跡を歩いたりしていますが、全線を踏破してみたら、また違った感慨があることでしょう。

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カメさんチームの38(t)戦車の謎

2014年09月20日 | ガールズ&パンツァー

 カメさんチームの38(t)戦車のキットを私なりに制作する場合、全国大会出場時の仕様と車体色にて仕上げる予定です。それで、夏から資料やキャプチャー画像などを集め、キットの組み立てガイドをチェックして改造ポイントなどをノートに書き出すなどして、少しずつ準備を進めています。
 その過程で、改めて浮き彫りになってきたのが、38(t)戦車の劇中仕様の外側と車内で妙な矛盾がみられる、という点です。これについては模型制作の段階でも詳しく触れる予定ですので、ここでは簡潔に指摘するにとどめておきます。

 上掲のワンシーンを御覧下さい。練習試合時の姿で、車体前面のディティールが非常に良く分かります。キット制作の参考図としても最適です。これを見ますと、車体前面上部装甲が右側で一段引っ込んだ形状であり、実際の38(t)戦車のB型などの前期型の特徴が見てとれます。プラッツのキットは後期型なので、この形状が再現されておらず、パーツを切って貼り換えるという改造が必要となります。


 私の制作では、プラッツの公式キットを使わず、ドラゴンのG型のキットを用いてインテリアも完全に再現することで、カメさんチームのポジションや動きなどを追体験してみたいと考えています。
 それで、車内やインテリアの様子がよく分かるシーンが色々と欲しいのですが、あんまり数が無いので、ちょっと資料不足の感が否めません。アンツィオ戦OVAの方にも関連シーンが幾つか出てきたので、かなり状況が掴めるようにはなっています。

 上掲のワンシーンも、アンツィオ戦OVAの方の一コマですが、よく見ると、外部前面上部装甲が右側で引っ込んでいる形状が車内には反映されていないのです。むしろ後期型の車内形状になっています。9月17日の記事で、劇中仕様の外側と室内とに矛盾が見られるところがあり、と書いたのも、その点を指します。


 念のため、反対側のアングルからのシーンを添えてみました。この図でも引っ込んだ形状が見られず、むしろ前面装甲が一枚板のようになっている状態が看取出来ます。どう見ても、外部右側の一段引っ込んだ形状が、車内の形には表れていないように感じます。

 実際の38(t)戦車においては、前期型ではやはり車内形状にも段差がつきますので、劇中仕様ではそれが無くなっているとしか考えようがありません。謎であるわけですが、インテリアをガルパン仕様に仕上げる場合は、その辺りにも注意しないといけないな、と思います。


 さらに、未だによく分からないのが、河嶋桃の位置なんですね。上掲の劇中シーンを見ると、角谷杏生徒会長の席の後ろに河嶋桃の席があるようなのですが、座席そのものの描写は無く、他にも座席が出るシーンは見当たらず、ドラゴンのキットにも該当するパーツが無いのです。これも謎の一つですね・・・。私の推測では、河嶋桃は、ただしゃがんでいるだけ、となりますが。
 また、砲塔内での河嶋桃の動きもよく分かりません。立っているのか、専用シートに座っているのか、そのあたりも明確な描写シーンが見当たらないのです。ドラゴンのキットには砲塔付属シートが見られるので、それに座って射撃を行い、見事に外している、ということになりますか・・・。
コメント (2)
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安くなったガルパングッズ

2014年09月19日 | ガールズ&パンツァー

 上画像は、2014年9月の訪洗時の17日に、JR水戸駅北口に隣接するマイムビルにある「らしんばん」水戸店にて購入してきたガルパングッズの数々です。いずれも新品未開封のまま中古市場に回ってきたようで、「らしんばん」のガルパンコーナーに並んでいました。意外なほどに安かった品が多かったので、5点を買ってまいりました。

 左上は「アニくじ」C賞の品「生徒会あんこう鍋セット」で、ネットオークションなどでは2000円前後で取引されているようですが、今回の購入額は400円でした。左下は「一番くじ」F賞の品のひとつ「なのきゅんキャラ西住まほ&ティーガーⅠ」で、これもネットオークションなどで2000円前後で取引されているようですが、今回の購入額は300円でした。私自身が「一番くじ」に挑戦した頃に全く得られなかった品でしたので、感動して買いました。
 中央の大きな「フルカラーショルダーバッグ」は、ブロッコリーより4200円で販売されていたものですが、今回の購入額は900円でした。下にある「武部沙織大洗駅キーホルダー」は、現在も大洗駅の売店で550円で売っていますが、今回の中古品は100円でした。右の白い箱は、カルバンマグカップの「レオポンさんチーム」で、プラッツより1500円で販売されていますが、今回の購入額は400円でした。
 合計で2100円であったわけですが、あまりの安さに感動し、また驚きました。ネットオークションなどでみる取引価格は全般的に高いので、私自身は「らしんばん」などの中古アニメグッズ販売店などを回ってみることも試みていますが、近頃は、ガルパングッズも中古品とはいえ、安くなっているものですね・・・。

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初秋の大洗ガルパン缶バッジ

2014年09月18日 | ガールズ&パンツァー

 上画像は、2014年9月16~17日の大洗行きにて得た、大洗ガルパン缶バッジの全部です。35個あります。八朔祭のバッジがけっこう出回っていて、あちこちでいただくことが出来ました。暦はすでに初秋、田畝の稲は黄金色に転じて早くも刈取りを終えた所も多く、朝夕は少し肌寒いほどになりました。早朝に自転車で商店街を走っている時などは、長袖の上着が欠かせませんでした。

 今回の訪洗においては、大学にてアニメ関係の研究をしている知人から頼まれて、大洗の各店舗における缶バッジの保有数や種類や動向などを調査してまいりました。時間的な制約によって、とりあえず18ヶ所の店舗を対象にして調べましたが、一番数が多かったのが「丸五水産」さんの233個でした。それまでは「いそや」さんが一番多いのではないかと思っていたのですが、今回の調査結果によれば「いそや」さんは204個で第四位でした。ちょっと意外な気がしました。
 調査結果の詳細については、今回の訪洗レポートを綴る際にあらためて紹介させていただきます。

 なお、調査の際に幾つかの自作缶バッジをお世話になったお店に寄贈させていただきました。今回寄贈させていただいたお店は、「ウスヤ精肉店」さん、「金丸釣具」さん、「カワマタ」さん、「鳥孝」さん、「ヴィンテージクラブむらい」さんの5ヶ所でした。

 なお、9月17日は、ダージリンの誕生日ということで、「肴屋本店」前駐車場にてイベントが開催されたようですが、私はそういった行事に関心があまりありませんので、立ち寄りませんでした。

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カメさんチームの38(t)戦車の車体色

2014年09月17日 | ガールズ&パンツァー

 だいぶ涼しくなってきて、模型作りには適したシーズンに入りつつあります。私のガルパン戦車キット制作も、既に6輌を作り終えていますが、大洗女子学園チームに限っても、まだ7輌が未着手のままです。
 そのなかで、これから作ろうかと思っているのが、カメさんチームの38(t)戦車です。ヘッツアーの方も魅力的ですが、まずは時系列順にいこうと考えて、38(t)戦車から作ってゆくことに決めました。

 ですが、この38(t)戦車は、ガルパン戦車キットの中では難易度が高い事で知られます。プラッツの公式キットはドラゴン製品をベースにしているものの、劇中の仕様とは全く違っていて、多くの改造が必要となります。私はいままでにも6輌のキットでいろんな改造や修正を繰り返してきましたので、改造が多いという点はあまり気にしていません。
 むしろ、ベースとなっているドラゴンのキットを知人に譲っていただいたうえで、インテリアも再現しながら作る、という難しい方向へわざわざ進もうとしているぐらいです。そのあたりの事情にについては、以前の記事に述べました。

 ですが、劇中の仕様を細かく把握出来るシーンがあまり無いという点に、すこし不安を覚えています。あんこうチームのⅣ号戦車などは車中シーンが豊富でアングルも多彩でしたから、内部の様子がよく分かります。38(t)戦車に関しては、インテリアの制作に必要な参考シーンが極めて少ないので、そのへんをどうやって解決してゆこうかと思案しています。おまけに、劇中仕様の外側と室内とに矛盾が見られるところがあり、課題も少なくありません。

 その前に、車体色が問題となります。プラッツの公式キットの指定色はジャーマングレーですが、それはむしろカバさんチームのⅢ号突撃砲F型の車体色であって、私自身の制作でもそのように仕上げています。
 上画像にて比較してみると、38(t)戦車は、Ⅲ号突撃砲F型のジャーマングレーよりもやや青味がかかったカラーを示しているように思えます。隣のⅣ号戦車のいわゆる「大洗グレーⅠ」よりも濃い色であることも分かります。
 こういうのは何色と呼ぶんでしょうか。クレオスのMr.カラーの色で言えば、ドイツ戦車用の「ダークグレー」か、ドイツ空軍機用の「ブラックグリーン」に近いような気がするのは、私だけでしょうか・・・。

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アンツィオ高校のパスタ

2014年09月16日 | ガールズ&パンツァー

 アンツィオ戦OVA「これが本当のアンツィオ戦です!!」は、梅田ブルク、ミント神戸、シネプレックス水戸の三館でそれぞれの音響を味わいつつ楽しく鑑賞しました。面白いアニメは、何度見ても良いものですね。
 その「これが本当のアンツィオ戦です!!」にて、印象的なシーン、感動的なシーンは多々ありましたが、個人的に「これはいいなあ」と強く魅せられたのが上画像のシーンです。モブキャラの三人がいいのではなく、三人が作っているパスタがものすごく美味しそうで、こういうのを食べたいなあ、と思ったのです。

 私はパスタが大好物です。基本はペペロンチーニ、これに海鮮の具やブロッコリースプラウトを混ぜたものを特に好み、大体は自分で作って楽しんでいます。奈良に住んでいた頃に、パスタ作りの名人と言われた方と個人的な交流があったため、折にふれてパスタのゆで方、具の拵え方、味の調え方などを伝授していただきました。材料に本場のイタリア製の品を選ぶケースも多く、ガーリックと共に入れるベーコンも、自分で燻製用キットを使って作っています。とにかく美味しいパスタを食べたい、自分でもある程度は作れるようになりたい、という気持ちがあります。
 そんなわけで、上画像の美味しそうなパスタの図に、反応しないわけにはいかなかったのでした。バカですね・・・。

 さる9月3日のアニメグッズショッピングの際にも、同道したA氏に「昼飯、どこで何を食おうか」と問われて「アンツィオ校のパスタを食べませんか」と返したのですが、「アホかお前は」と切り捨てられてしまったのです・・・。
「そういうものは、大洗へ行けばノリと勢いでどこかが再現しとるんと違うのか」とも言われましたが、あいにくそういう料理には、まだ大洗ではお目にかかれていませんね。ペバロニの鉄板ナポリタンの方は、メニュー化しているお店がありましたけどね。
コメント (2)
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