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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く9 その3 「奥宮と神域です!!」

2014年09月24日 | 大洗巡礼記

 鹿島神宮の奥宮に着きました。その社殿はもとの本殿であった建物で、慶長十年(1605)に徳川家康によって寄進建立されたものです。これを徳川秀忠が現在の本殿に替えた際に奥宮に引き移しています。家康期の建築遺構は、徳川氏系建築のなかでも数が少ないので、貴重な建築としてこれも国重要文化財に指定されています。


 この建物は、関ヶ原合戦の五年後に竣工しているため、形式的にはまだ安土桃山期の京都ふうの建築技法が主流を占めています。当時の関東は、江戸も含めて未開発、発展途上の状態でしたから、文化や技術などは上方から導入するケースが殆どであったようです。いまの建物の細部にも、京都や奈良の同時期建築によくみられる要素が多く認められます。


 蛙股の部分を望遠モードで捉えてみました。細部の透かし彫りの細やかさ、滑らかな彫り口や仕上げはまさしく京都大工の手法です。植物の造形にしても、葉や茎は実物に似せて可能な限り薄く、細く造ってあります。こういうのは反面脆くて壊れやすく、なかなかオリジナルの形が残りにくいものですが、こちらの遺構においては割合によく保たれています。大洗磯前神社の建物の細部の彫刻は、江戸期の抽象的意匠を盛り込んでいるので、植物でも太目に表現されています。


 奥宮の社殿を斜め後ろから見ました。天井裏の小屋組を高く造ってあるので屋根が高く反り上がっています。これは古代以来の神社建築の特色の一つであり、慶長期においても古代の手法を尊重して継承していたことがうかがえます。京都の神社建築に共通した雰囲気が感じられるのも、そのためでしょう。


 妻飾りの雲文の表現も雅やかさに満ちて見事なものです。これを江戸期においては金属板の透かし彫りなどで表す例が多いですが、本来はこのように全てを彫刻にて飾る意識が重要でありました。金属板になってしまうと彫刻のもつ立体感が無くなりますので、全体的に安っぽくなってしまいます。そういった形式化に陥っていない時期の造形が、時代を代表する美の形にも繋がるのだろうと感じています。


 奥宮の脇から参道を少し進むと、大きな石造レリーフのある辻に出ます。石造レリーフは武甕槌大神と大ナマズを彫り表しています。この地、鹿島郡には地震を起こす大ナマズが横たわっていたが、武甕槌命が要石を釘として貫き止めたという説話が伝わります。そのお蔭で当地域においては大地震による被害が少ない、と信じられています。武甕槌命が大ナマズを留めるための釘として使った要石は、参道の奥の結界内に祀られています。


 要石を祀る結界の横には、松尾芭蕉の句碑があります。「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」という句が刻まれています。芭蕉は、貞享四年(1687)に「鹿島詣」の旅をしてこの地に至っており、境内の奥宮の前にも「此の松の実生えせし代や神の秋」の句を刻んだ碑がたてられています。芭蕉の禅の師匠であった仏頂禅師が鹿島に住んでおり、師を訪ねて中秋の名月をめでながら旧交を温めようとしたのが、芭蕉の「鹿島詣」の目的であったとされています。


 要石を祀る結界の鳥居と玉垣です。古い神社においては、境内地の奥に原始的祭祀の名残りである磐座がみられることが多いですが、鹿島神宮の要石も、おそらくは磐座の一種であったのでしょう。ただ、地表には僅かに一部が露出しているだけ、石本体の大部分は地下に果てしなく広がっていると言い伝えられます。
 かつて徳川光圀がその大きさを確かめようと試み、七日七夜にわたって周囲を掘らせたものの、石が巨大に過ぎて堀り切れなかったということです。磐座の多くが、巨大な石の一部が露出していると言い伝えられていますから、鹿島神宮の要石もそれに属するケースと理解されます。あまりにも巨大な石であるがために、大ナマズをもしっかりと押さえつけている、と古来より信じられていたようです。


 要石の小さな丸い露頭です。賽銭の一円玉と比べれば、露出部分が小さいことが分かります。地下には七日七夜掘っても全容が明らかにならなかったという巨大な岩塊が横たわっているわけです。現代の掘削技術をもってしても把握し難い大きさなのでしょうか。


 要石の前に立つ灯籠です。火袋部分が無くなっていますが、木造であったのかもしれません。笠が中台とみられる部品の上に直接乗っており、中台の下には受花にあたるとみられる台座があります。現状でも大きいので、火袋の大きさを加算すれば、かなり背高の灯籠であっただろうと推察されます。神社の案内資料では「安永五年の石塔」となっていますが、厳密には石塔ではなくて灯籠です。


 この「安永五年の石塔」の寄進者は鹿島宮の大禰宜であった中臣朝臣真親です。古代豪族の一として大和朝廷時代からの歴史にも登場する中臣氏は、一般的には大化の改新クーデターの立役者であった中臣鎌足の活躍によって知られますが、本来は常陸国鹿島宮の神官を務めた豪族であったようです。その一統が大和国にも進出し、やがて物部氏と組んで朝廷の一派に成長し、のちに藤原氏となって古代日本の政権の中枢に位置するという流れで理解されます。

 私は奈良に長く住んでいて、古代史や考古学を勉強していたので、古代の豪族の歴史や分布も大体知っています。飛鳥の蘇我氏、山辺の物部氏、葛城の巨勢氏、添上の春日氏などの名族が由緒も本貫地もはっきりしていて遺物や遺跡も豊富であるのに対し、中臣氏というのはよく分からなかったという思い出があります。中臣氏ゆかりの地、というのが奈良県内にはさっぱり見当たらなかったので、不思議に思っていた時期もありました。
 ある時、春日大社の歴史を調べた際に、そのルーツが鹿島神であって、その神官の中臣氏が春日大社の創建に大きな役割を果たしたらしいという事柄を知り、ああ中臣氏というのはやっぱり大和の豪族じゃなかったんだ、常陸国からやってきた外来氏族の一人だったんだ、と納得がいきました。中臣氏が創建した春日大社なのであれば、中臣氏の子孫の藤原氏がこれを氏神として崇拝するのは当然の流れとして理解出来ます。
 さらに、大和の中世戦国期において、春日大社に流鏑馬を奉納する武士団の有力な一派に片岡氏というのがあります。その先祖は常陸鹿島神の眷属であり、鹿島神が神鹿に乗って鹿島灘を発して大和国にはるばるやってきた時に従ってきた随人の一人であったと系図資料などに書かれますが、その片岡氏も本姓は中臣氏であったという説が出されています。
 鹿島郡には片岡という在所もあり、鹿島神宮に関係した在地勢力としての片岡氏も活動していましたから、大和の武士団の片岡氏も、その分流の末裔として捉えていいように思います。

 このように、中臣氏の歴史というのは、鹿島を本拠として捉え直すと、割合によく見えてきます。今回の鹿島神宮参拝にて、そのことを再確認出来ただけでも有意義なことでした。古代から連綿として朝廷に君臨した藤原氏のルーツが、ここ鹿島神宮であるのですから、古代史に親しんだ私にとっても、興味の尽きない感動的な歴史空間でありました。


 要石から奥宮に引き返して、参道とは反対側の谷間へ降りてゆくと、御手洗池と呼ばれる園池があります。方形の池に造られて中央に鳥居が立てられ、神域の清浄水の場として禊などの神事が行われます。


 鳥居の奥には清水の湧き出る石組みの施設があり、水神の祠のような位置にて祀られています。その湧水が池に注いでゆるやかに生み出す流れに乗って、黒い鯉が悠然と泳いでいるのが印象的でした。
 黒い鯉は「烏鯉(からすごい)」、「黒鯉(くろごい)」などと呼ばれ、大体は食用の真鯉として知られますが、神池の黒鯉は神への贄として奉納される神聖な存在として扱われるそうです。


 清水の湧き出る石組みの施設に近寄ってみました。ここでは参拝客が水稲やペットボトルなどに水を汲んで持ち帰ることも出来ます。御手洗池は境内地の奥の谷地の先端にあたるので、神域の地下水が全て集まって湧き出る場になっているわけです。千年来の鬱蒼とした社叢と大地からの恵みの水、と言っても過言ではなく、似たような湧水の例を奈良県に探せば、三輪明神狭井社の神井戸などが挙げられます。


 湧水施設の脇にも句碑が立っています。松尾芭蕉のそれではありませんが、鹿島の森に心を託す俳諧の精神はおそらく共通した位置にとどまっていたことでしょう。「涼しさや神代のままの水の色」と詠んだのを刻んであります。詠み手の松露庵雪菜は、江戸期の俳人の一人として知られます。


 続いて印象に残ったのが、池の上に横に伸びて張り出す老神木の姿でした。鳥居に接触しないように支え木などを施してありますが、そういう支持材がなくても自力で生き生きと伸びてゆきそうな、溢れんばかりの生命感が放たれています。垂直に近い崖面から横に伸びると言う、本来は有り得ない生長の形を遂げているだけに、神の依代の神秘として崇められてきたことと思われます。


 その横には、更に大きな老木を切り倒した跡が切株となって残されていました。傍らの案内板によれば、樹齢は約600年、今年新たに竣工した大鳥居の材として用いられたことが分かります。真新しい白木の大鳥居は、御手洗池のほとりの神木を使ったわけですが、それだけに神々しいパワーにも恵まれて、鳥居には相応しいものであったでしょう。


 道を引き返して、再び鹿舎の横を通りました。かつては鹿島の神鹿と崇められ、奈良春日大社の鹿たちの先祖ともなった鹿たちの末裔が、暑い日差しにも微動だにせず、通り過ぎる私を一瞥したのみでした。人間に近寄ってきてお辞儀もきちんとする人懐こい奈良の鹿とは全く逆の、無愛想さでした。 (続く)

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