作品258(夕焼け日記より)
これは一体何という姿だ、夢か現実か、神の化身か。
音もなく静かに、微塵も揺るがず、ずんと構えたこの構え。
一分の隙もなく八方を睨み、大地を見守る富士山。
目の前に迫り来る得も知れぬものに圧倒され、立ちすくんだ。
頂上から六合目ぐらいまですっぽりと雪に被われている。
それが太陽の光に反射し、所々険しい肌跡を見せる。
怒涛のような迫力は、この輝きの明暗が織りなす所以であろう。
なだらかな傾斜は見事な曲線を描きながら下降し、遠く樹海へと広がる。
目頭が熱くなり、身体の置き場所を見失うほどの風格、さすがである。
ひらひらと波を立てる湖面、岸辺の鴨の群、どこまでも澄んだ青い空。
思い切り霊気を吸い込み、心の扉が奥深く開いたひと時である。
それにしても今日のこの晴天、めったに見られぬ裏富士の光景だと言う。
ここは河口湖から車で三十分、御坂峠の天下茶屋である。
太宰は「富士には月見草がよく似合う」と書いた。
この富士の愛しいまでの凄みをどう書き表わすか、
長い時間をかけて苦心の末、ようやくひらめいたのではなかろうか。
偶然にも今日は満月の前日であった。
ホテルの部屋は窓辺いっぱいのところにベッドがある。
大きなガラス窓の向こうに富士山の全裸の姿が大写しで見える。
ベッドに横になり、疲れた身体を休ませながらずっと富士を見ていた。
一粒、二粒の雲と共に山頂の右側が黄色に染まってくる。
夕焼け、油断も隙もならぬ、一瞬でその姿はがらりと変わる。
やがてあたりは暗くなり、しばらく時を待つ。
少しずつ雪に被われた部分が月の光に映し出されてきた。
暗闇の中でその姿はまさしく淡い白色の富士の形であった。
息を呑み、吐く息はふるえ、心は幻想の世界へと飛んでいく。
まるでお伽の国。
恐らく極楽浄土の絵巻にも思いを馳せ得ぬものに出会った。
それをベッドに寝転んで体感できるなんて思いもよらなかった。
先はそう永くはないと思い、覚悟を決めて遠出したのがよかった。
秀峰閣湖月。
あの世への最高級の土産となった。
あと二、三ねんでいい、何とか頑張れないかと思う。