作品281(夕焼け日記より)
ゴールズワージーの「林檎の木」は名作である。
若かりし頃涙ポロポロ流して何度も読んだ。
ついには英語の原文で読み、家庭教師の教材にも使った。
このボケ男の、生涯最初で最後の試みであった。
清らな恋の物語である。
僅かな期間、燃え上がった恋の炎の何という切なき美しさ。
まるで満月の中を寄り添う影が映し出されているようである。
彼らの出会いは、彼が足を挫いて民家に立ち寄った偶然から始まる。
まるで神が導くが如く二人は深い愛の淵に入っていく。
その繊細な描写は他の類を見ない。
彼は上流社会、彼女は農民。
しかし私は身分の垣根を越えた恋愛を信じて読んだ。
幻想的とも思われる純愛物語。
青春時代、私はこのような恋愛を夢見ていた。
そうであるがゆえに、
結局彼に捨てられる運命に嘆き苦しむ彼女の悲恋を思いやるのであった。
銀婚式の日、彼は妻と共にその思い出の地を訪ねる。
そこで初めて彼女の凄絶な死を知り、愛の深さを思い知らされる。
その結末に涙が吹き出たのである。
勿論私にそのような恋愛の経験のあろうはずもない。
今頃になって「林檎の木」を思い出すなんて不恰好ではある。
私どもの出会いは「見合い」である。
間もなく五十年を迎える。
地味ではあるがお互いに頼りあいながらここまで来た。
感謝の気持ちの中にそれに勝るとも劣らぬものが生まれた。
今更恥ずかしいが、今がそのときかも知れない。