シャボン玉の詩

前へ前へと進んできたつもりでしたが、
今では過去の思い出に浸る時間も大切にしなければ、
と思っています。

(3)霧の彼方(2003小品集より)

2017-12-28 09:30:31 | Weblog
佳子は玄関を開けるなりブランデーのほのかな匂いを感じ取り、そのまま彼の寝室に向かう。
「お酒を飲んだのですね。また心臓の具合が悪くなったの」
雅夫は微かに頷く。
[今度のは酷い症状だったんですね……あれっ、まああなた、吐いたのですね]
佳子は手際よく彼の頭を持ち上げて枕を取り換え、洗面用具を持ってきて、それから丁寧に雅夫の頬や口の辺りを拭く。
とてもそれでは間に合わないので洗面所へ何度も走り、水とタオルを取り換え、
首から胸や腕にかけて吐いた残り物をつぶさに観察しながら拭き取っていく。
「一寸この所飲みすぎじゃない。身体のことも考えて、偶にはお仕事休めないの」
佳子は雅夫の額を軽くポンと打つ。

―――ニトロの副作用かな。いや、二日酔いと副作用が同時的に作用したのであろう。
そんなことを思いながら雅夫は漸く正気を取り戻す。吐いたせいか随分気分が良くなっている。
「済まないな、僕はいつも面倒をかけている」
「それはいいのですよ。ところで先程私が言ったこと、聞こえましたか」
「分っているよ、でもねえ、仕事休むなんてことはとてもあり得ないね。
そんなことしたら収入がなくなって日干しになっちゃう」
「あなたが居なくちゃ仕事が滞るの?会社が大ごとになるの?多分そんなことないと思うんだけれど、
あなたは責任感が強すぎはしないかとそれが心配で…」
「僕からその根性を取り除いたら僕は僕でなくなる。そのほうが余程大変だよ」
「でもね、心臓まで壊して、そこまでやらなくてもと思うのですが…」
「だから病院にも行っている。でも、原因がつかめないじゃどうにもならないさ。
先生もそう言っている。とに角どんな薬をやってもダメだからさ。
お酒が一番効くと分かった以上これをやるしかないんだ。
実は僕も心配している。
いつまでもこんな方法でやっていたらいつか必ず救急車を呼ぶような事態が起こるかもしれない。
然し考えようによってはその時こそが絶好のチャンスかもしれないぞ。
症状が明確に現れて病名も分り、適切な治療が始まる。そこでやっと苦しみから解放される」
「また始まりましたね。あなた流の思い込み、私はそうは思いませんけれど」
「いや、長年この心臓には苦労を重ねてきたんだ、他に方法は無いさ。
その内きっとチャンスは巡って来る。今は懸命に耐えるしかないのだよ」
「呆れた人、そんなやりかたで格闘するなんて」
「そうなんだよ、僕を此処まで苦しめる相手は只者にあらず、相手にとって不足なしだ」

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