岳遊のひとり言

日々の暮らしに農作業や好きな山登りのことなどを伝えていきたいです。

おくりびと今昔

2009-02-27 20:51:24 | 日々の暮らし
今日、一昨日亡くなられた村の友人のお母さんの葬儀に出席した。

患って3,4日の死で突然と言えばそうだが、85歳の年齢を考えれば自然なのかと変に納得したりする。


今巷では映画「おくりびと」が内外で話題になっていて、僕も公開と同時に観に行ったものだ。

そこで描かれているものは今では普通に見られる日本のしきたりの様なものだった。

僕も20代のころ叔父さんの葬儀で初めて納棺夫の鮮やかなそれでいて厳かな手つきに魅了された一人である。

僕らの同年代位か少し上のスラッとした今で言うイケメンの納棺夫のその動作の一つ一つに職業としての技を感じ固唾を呑んで眺めていた記憶がある。

それまでは割りと年配の方がおやりになり、化粧などは施さなかったし動作も如何にも物体に衣服を着せるといったものだったから驚きであり美しいとさへ感じた。

変わったと言えば今日も葬儀にお参りし周りの方々とも話していたことだが、ここ6~7年で亡くなった方への家族の想いが変わってきたなぁと思うところがある。

それは遺影だ。 正面に置かれた遺影の大きさが芸能人か著名人のように大きくなったのはもちろんだが、普段着の姿が殆んどになったことだ。

これまでは僕らの田舎では生前に紋付を着て撮っておいたか、そうでもなければ普段着の写真の首から下に写真屋さんがわざわざ紋付を施し飾ったものだ。

それは9年前に亡くなった家の爺ちゃんもそうだった。 死んだ人に恥ずかしい思いをさせられないのと、世間体を気にした残された家族の想いが大きかったからに他ならない。

したがって仏壇のある部屋の長押に掛かった写真は曾爺ちゃんから現代までみんな同じ顔が並ぶ。

ところが今は皆さん亡くなってもズーット一緒に居続けたいという想いが強く、今でもそこにいるような決して飾らない普段着の姿の写真を好んで使われる様になった。

そう言えば今日の友人のお母さんは花柄のブラウス姿で実に笑顔が可愛く輝いていて、今にもお声が聞けるような想いがした。

これまでのどちらかと言うと無表情で堅苦しい写真よりはこちらの方が兎角暗く悲しみに走りがちな死を長い短いに拘らず人生を全うした故人の明の部分も照らし出して、お参りした僕らも救われるような気持ちになる。

そう考えると日々残しておきたい写真を考えカメラの前に立つようにしなくちゃならないなぁ・・

まぁ、それだって死んだ後のことは分からないもの、気に入った写真で〆くくってもらえるかどうかは生きてる時の残された家族への貢献度かな(笑。

硫黄岳山頂に立つ

2009-02-25 22:21:52 | 山登り

東に大きな傘雲が西には濁った雨雲が窺えたが時間的に余裕はあり何よりも必死でついて来る二人に安堵(笑。

       

       
山は緩やかになり山頂に辿り着く。 大きな頂は風は幾分これまでよりは弱く、
二人の喜びも頂点に。

       

       

       
頂上に立てた喜びに充分に浸り近づいてくる黒雲をにらみ頂上を後に下山に掛かる。

       
先ほどまでの浮かれた心を仕舞いこむように、下りは登り以上に慎重さを要することを確認させ丁寧に丁寧に下る。  

ここでも強風に脚が流れようとするのを火口側へ行かないよう内へ内へと導く。

       
風で吹き立たされゴツゴツした山肌に河原での歩行訓練が生かされているようなシッカリしたアイゼンワークで正直感心した(笑。

耐え忍んでようやく樹林帯へ下り、鉱泉へ向かう頃にはようやく二人とも開放感に喜びが湧いてくる。

       
下りて来られた安堵感から木々の芽吹きに気づき二人の会話も弾む。

       
今夜の宿泊場所である夏沢鉱泉に到着。  お疲れ様でした。

       

       
山小屋だろうと思っていたが、旅館の様な感じだ。 トイレも水洗で二人ともビックリしてた。 沸かし湯だがお風呂もあり大満足の二人。
       
夕食はご覧のように鍋で、これを三人では多すぎた。 因みに鍋には猪肉が入っていて伊豆で食べたものより断然に美味しかった。

  
二人はワインで、僕はコーラで乾杯! 無事に下山できたならこその笑顔に僕も満足、コーラで酔いが回る( 


2月の八ヶ岳

2009-02-24 21:56:23 | 山登り
今回また山へ行ってた。 行き先は八ヶ岳の硫黄岳で連れは先日アイゼンの歩行訓練を行なった二人。

       

       
前の晩に家を出た僕らは登山口まで入りテントを張った。  初めての冬場のテントで寒くて寝付けなかった二人は、そうとは知らず鼾をかいてた僕をこんなところでも寝れるのかと感心もし半ばあきれ返ったそうだ(苦笑。

       
翌朝テントを撤収し いざ出発。 少なくとも今日一日は天気がもちそうだ。

       

       

       
夏沢峠に到着、目指す硫黄岳の稜線を仰ぎ見る。 雲の流れが速い。

       
樹林帯の間は比較的穏やかだった風も抜けると突風に変わった。 いよいよ特訓の効果を見せる場だ。アイゼンを利かして烈風の中に身を晒す。

       

       
風は登るにつれすざましく台風のようだ。 砂礫が飛び顔に当たり痛い。
冬の富士山は何回か登ったことがあるが、あれに負けない突風がくる。

       

       
あまりにもの風に二人の足がでない。 何度もだそうと上げ掛けた体制でふらつき思わず岩場にしがみつく場面も

それでも体勢を低くさせ頂上が近いことを教え気持ちを持続させる。 登れる確信はあり、コースを外さないよう気を張り不安感だけは与えないよう努める。
          
       

気持ちを切り替えて

2009-02-21 09:48:29 | 日々の暮らし
昨日特産西瓜の勉強会が開かれた。

毎年播種前のこの時期に行い昨年の総合的判断に基づき肥料などの検討や種子の配分などを行なっている。

そんな中、組合長が町との会合で途中で退席したなかで執行部より僕に質問が出た。

何時も貴方の出来具合が皆さんと違っているが、何か特別な肥料を使っておられるのではないか。 もしそうであれば皆さんにも教えてもらえないだろうかと言ったものだった。

これまでも再三一部組合員の方より質問されその都度答えてきたことなので改めてこういった場でと僕も話すことにした。

僕が行なう肥料設計は特別なものではなく組合が推奨する肥料設計の内の一つであるが、3~4名くらいの人しか実施していないものだ。

ただ、僕が思うに肥料が全てだと思ってはいなく、土壌に合わせた肥料であり栽培技術であったりするのだと思っている。
そんな訳で総合的に判断すれば肥料を統一しても意味がないと思っている。

これまでも折に触れて述べてきたが、僕の住む村の田は完全に畑には向いてない。

水捌けが悪く石ころも多い田んぼにこれまでどれだけ泣かされてきたことか。

町内に各地に栽培されているが、其々に圃場の土質や深さが違う。

僕の場合は何時も畝作りが遅れ、苗を定植しても育ちが悪く植え替えを余儀なくされることもある。

それでもそれを逆手にとってこの頃の異常な暑さの中でも肥料を吸い大きく育つ場合もあるのだ。

以上の事柄を説明し肥料が特別なものではなく自分の圃場に向いた答えしか言えないことを申し上げたのだが・・・

今回も理解してもらえなかったようだ(苦笑。

その後の肥料設計検討会で僕や数名の方が使っている肥料の一部を紛らわしい?という意味不明の判断で使用を取り止めようと提案があった。

同じく使用してる一人から「私も今まで使ってきてるのにそんな無茶な」と意見が出て、その内の一つだけはこれまで通り使用ということで決定した。

僕はただ呆れた。 あまりにもの理不尽さに呆れ悲しくなった。

僕と同じ肥料設計の組合長が同席していてくれれば事態もかわったであろうと思うが・・・ 

ただ春が近づきあと一月もすれば播種の準備が控えてる。 決定したことに何時までも女々しく(こんな差別用語しか思い当たらなく申し訳ない)言ってられない。 

組合員の殆んどは僕の親の様な年代、舅さまの言われる事と聞きこれまでを無かったものと思いこれから先を考えることにした。

それより「貴方のは皆と違う」と言われたことは見方を変えれば勲章だと思い、これを励みに新たな取り組みで恥ずかしくないものを作るよう今年も頑張っていく思いを新たにした。 

自分にだけは負けたくない。 そういう思いで今年一年をやり通したい。

その為にも(?笑 明日から山へ行ってきます  帰ったら多分モヤモヤもスッキリとしてると思います(笑。

カイニョ

2009-02-19 23:51:55 | 日々の暮らし
ここ数日の天気は激変だった。 春が来たよなと思っていたら翌日には真冬に逆戻りといったこれまでにないものだった。
        

           
雪自体はさほど降らず、これまでの暖気で地温が上がっていたため融けるのも早かった。

ただ、突然訪れた寒気はこれまでぬるま湯的生活を送っていたのに身体がついていけずに寒さに震えた。


           
そんな中最近では枝葉の処理や家が暗くなるなどから少なくなった「カイニョ」と呼ばれる屋敷林は家に対して風を和らげ寒さから守ってくれる優れものだ。

夏になれば陽射しを遮り涼風を運んでくれるカイニョは冬には冷たい吹雪を凌いでくれる。

        

        
中でもこの矢竹は密植で冬の木枯らしや吹雪なんかを壁のように楯となって防いでくれる。

        
竹そのものは細くわりと弱いが竹特有のシナリで重い湿雪に耐えている。

大きな木の一本一本には敵わないが、こうやって身を寄せて耐えてる姿はどこか共感するものがある。

減反調整

2009-02-16 23:57:08 | 日々の暮らし

今週末の山行きに供えてアイゼンをつけての歩行練習を行なった。

          
場所は黒部川の河川敷と堤防を使って。 一人は全くの初心者でもう一方は本格的なアイゼンをもう10年ほど履いてなくこれも初心者の様なもの。

河原やグリ石を敷き詰めた堤防などは格好の練習場所だ。ぎこちなさが抜けるまでシッカリ歩いてもらった。 後は現地で林道を歩く間に感じを掴んでもらえればいいと思う。


さて話しは変わるが、僕の家にも農協を通じて今年度の水稲生産実施計画書(確認野帳)なるものが届いた。

今年はどの田んぼを休ませるのか、或は栽培する他の作物を書き入れるようになっている。

僕らの地域ではその減反(休耕)しなさいという割り当て率が一戸当たり保有農地の3割近い数字だ。

割り当てられた面積分はお米以外の奨励品種(大豆や大麦、所によっては小麦であったり菜種やその他の産物)を栽培しなさいというもの。

そうすれば10a当たり幾らかの助成金をだしますよ、従わなければ出しません。 というもので

仕方なくこれまで土地的に向き不向き関係なく機械の投資もしながら各地で取り組んできた。

せっせと作って収穫したものにプラス助成金を合わせてもお米を作っていたころの収益分には程遠く、気候に左右されやすい畑物は場合によっては殆んど収益がでてこない年もあったりした。

減反政策は平成になると米の消費の減少と共に一層の強化が図られ年々その割り当てが増えてきた経緯がある。

その一方で減反転作することによって受けていた助成金の額も段々と少なくなり、慣れないものを作って採算が合わないのじゃ止めてしまえと耕作放棄する人が増え、全国各地の山間部などの区画整理されていないものや小さい面積の田畑で顕著にそれが見られるようになった。

この減反調整を見直そうという動きがいま政府のなかで持ち上がってきた。

詳細はまだよく見えてこないが、生産意欲を損なう減反政策をやめ自給率向上にもつなげようと言うものだ。

かと言って昔のように主食米だけに偏ってもらっては困ると言うわけで、これまでの麦大豆はもちろん飼料米やエタノール用の米の作付けをも目論んでいるわけで、そうなると誰が利益の出難い主食米以外の作物をつくるのやらこれまで以上に増える米の生産で起きる値崩れを誰が補ってくれるのだと言った不安が見えてくる。

もちろん生産した全量を自己販売してる一部の力ある農家の中には利益を伸ばすチャンスとばかりもろ手を挙げて賛成する声もでてる。

ただこれまで国の政策に素直に従い農協を頼りとしてきた殆んどの兼業農家や小規模農家には何処へどう向かおうと言われるままで成す術もなく、ある一定の面積を要した担い手農家にだけ集中した助成制度への不満と共に不安が残るのだ。

昨今需給率の低下と共に輸入米との価格差を問題にコストの削減にスポットが当てられ農業政策も先ずそこからメスを入れようとしている。

小さな農家の生産意欲を奪い離農を進め大規模農家に集約しようと言う構想だ。

日本のこれまでの農業を支えてきたのは殆んどが兼業農家と言われる人たちだ。 

求められてる農業の姿は理解できてもこれまで減反や転作などの国の政策は小さな農家にも等しく割り当てておきながら行き詰ってから支援対策を担い手や大規模農家にだけに眼を向けている
在り方にはやりきれない気持ちを抱く。


バレンタインの様に甘くはないか(苦笑。

2009-02-14 22:32:02 | 日々の暮らし

先日行なった検査の結果の詳細と切開術後の経過を見るため再度病院へ行ってきた。

結果は期待外れのもので正直気落ちした。

まず後発白内障の方は診察室に入るや否や先生(女医さん)から「思ったより回復しなかったですね」とバッサリと切り捨てられた(苦笑。 

これにはこの後も時間を掛けて徐々に回復するものと聞いてたし思ってもいただけにガクッっときてしまった。

次いで黄班変性症の方だが網膜の出血らしき滲みの様なものが見受けられるが、その後の広がりがなくただ疑わしいだけで今後の観察に頼るしかなく暫らくは様子を見ましょうと言う検査直後に伺った答えとなんら変わらないものだった。

実は内心「黄班変性」だと診断されたとしても治療を始めるものと思っていたのだ。 現に治療を続け回復したと言う話しを他で聞いて知ったので幾分の期待もあったのだが。

様子を見ましょうと言われ、肩透かしをくったような、またそうしてる間に進行したらどうなるんだと言う不安感がこの時あったのだと思う。


暫らくはポッカリと心に穴が空いた様な気持ちだった。 まるで野菜を選別するかのような先生のテキパキとした判断に圧倒され感心もした。

患者一人一人の心の内を窺っていたのではとても24時間闘えず仕方のないことだと気持ちを切り替える。

そんななか昨日今日とバレンタインデーのお菓子が届いた。

    
好きなあんころモチにチョコレートとコーヒだ。 遠くにいて其処の物ならではのものを戴く有り難さ。 感謝して家族揃って戴いた。

因みに今年はハート型のチョコをバアチャンより戴いた。 お返しはお風呂券がいいのかなぁ(笑。

さて来週の山行きも近づいてきて昨夜は勉強会を開いた。本格的な冬山の経験がない2名を連れての登山になるが、その分濃い中身となるようにしたいもので、明日は二人にアイゼンを履いて歩行の練習を行なう予定だ。


後発白内障

2009-02-12 20:47:29 | 日々の暮らし

今日はとても穏やかな日となった。 薄雲から射す陽射しは4月の様な暖かさだ。

         
だが今日の山並みは霞がかかったようにスッキリしない。 まるで白内障に掛かったようだ。

先日は書かなかったが、歪みで眼科に行ったおり左の視力の低下を伝え検査を受けたところ後発白内障だと言われた。

「後発白内障」 一昨年に行なった白内障の手術で残しておいた水晶体の袋が濁ってくる為見えにくくなる症状とのこと。

言われれば丁度今朝の山並みのように霞が掛かったように物が見えるのだ。

幸い事例も多くレーザーで濁った膜を除去すれば視力が回復するとの事で今日右目の検査と並行して行うことにしたのだ。

僕は白内障に掛かった時 「暫らく放っておいたからと言って決して失明はしないから」 との先生の言葉を自分風に解釈し、畑が終わってから手術を受けようと5ヶ月も先延ばしにしたため、病院に入ったときは白い壁を背にして立った医者や看護婦さんが見えないというまでに進行した模範的な患者だった(苦笑。

     
以来眼はとっても大切なものと認識し気遣ってきたつもりであったが、今回物が歪んで見える現象が現れ内心ショックであった。

さて病院では左右に瞳孔を開く点眼に左目には麻酔の点眼にもろもろの薬で待ってる間にウトウトと。 僕はどうも薬に弱い。

先にレーザによる左目の切開術を受けた。 カチッ カチッと照射の度に頭の後方でも カチッ カチッ と反応してた。 時間にすれば数分だったと思う。 意外にあっけなく終わった。

終わって再度化膿止めの点眼を受け、最初は散った感じで霞が残ったように見えるが、数日で回復するでしょうと言われた。

引き続き「蛍光眼底造影検査」が行なわれた。 黄班変性症の疑いが認められたために行なわれたもので点滴注射を受け、そこに「フルオレセイン」という蛍光色素を注入しながら網膜や脈絡膜の状態を観察するのだ。

だがこれがきつかった。 何がキツイって検査で瞳孔に強い光りを受けることに些か耐えられなかった。

これまでも白内障の手術の後で定期的に検査を受けていて強い光りを当てての検査を受けてきてるのだが、今回だけはきつかった。 「薬が無くなったら出来ませんので頑張ってやりましょう」 「5秒ほど何とかならないですか」など先生の焦りが伝わっては来るのだが、一点を凝視し続けるのが今回は困難だった。

そんな中で出た結論だが、僅かな一点の曇が見受けられるがそれ以上のものでもないので今後様子を見て行きましょうというものだった。

終わって何時になく疲れた。 何故だか分からない。 結果に対しての緊張感があったのだろうかよく分からないが、ただただ疲れた。

病院の外は真っ暗で、迎えに来た家族の車に乗り込み家路に着いた。
結果が曖昧なことに多少不満もあるが、ハッキリとした症状が現れたわけではなかったことに感謝しなければならないのかな。


今時の若い子はなんて言いたくないが

2009-02-10 21:49:26 | 日々の暮らし
姉の家へ漬物を届けに行った際に小川橋から見た左から駒ヶ岳に僧ヶ岳
              

ラジオをつけて姑バアチャンと桟俵を編んでると時たま聞かせたくないような(笑 話題が取り上げられることがある。

そんな訳で?(笑、日本放送や文化放送に地元の放送やNHKと聴きたい番組を選んで選局してる。

ところが今日、端境期に入れた地元の放送で、あるリスナーからの相談事が披露された。

それはアラフォーと呼ばれる年代の女性からのものだった。

「50歳になった夫が元気がありすぎて困っているとの事。 つまり仕事や家事などで疲れが残っている時や精神的にそぐわない場合もあるにも拘らず求めてくる夫には閉口していて何か妙案はないものか」 と言った内容だった。

番組担当の二人のアナウンサーは共に未婚の若い女性。 相談事の内容に顔を赤らめ困っている様子が窺えるような紹介の仕方だった。

自らの意見を述べるわけにもいかずリスナーから意見を求めることにした。

この時未婚の女性ならずとも僕も困った(笑。 まさにその時桟俵を編んでる最中で手を離すことも出来ず番組を替える術もない。

向かいに腰掛やはり同じように編んでるバアチャンをチラッと覗き見、今この時に立って音量を下げたり選局を替えたりすれば余計に可笑しいと、聞かぬ見ぬふりでやり過すことにした(照。

この後放送を聴いたというリスナーから届いた色んなアドバイスが紹介されたが、ここで僕はショッキングな一言に触れる。

それは55歳の夫をもつ奥様からのアドバイスで「色んなコミュニケーションを図りながら気持ちを伝えて上手くやってますよ」という件を紹介した際、20歳前半のもう一人のアナが

えっ~55歳でもするんですかねぇ~」 と言ったのだ(愕〃。

昔僕らも子供の頃は60歳の人を見ると男であれ女であれエラク年寄りに見えたことを覚えている。

確かに当時近所の50歳過ぎだったであろうオジサン、オバサン達も立派なお父ちゃんお母ちゃんに見えてた。

だけど自分が歳を重ねるうちに「今は60、70でも皆働いているし、趣味も行動的で昔の人たちから見ると元気で若いよなぁ~」 なんて友人達と話したりしてたのだが・・

いや、この際問題は歳ではない、歳と何を切り離して考えるべきであって・・(照。 活力は年齢じゃないぞー なんてね(恥。

だが、あの20歳前半のアナから見れば55歳で欲望もなくなり60歳では生きた化石に見えるのかと・・ 今時の若い人たちは我々の年代を皆そんな風に見てるのかと思うと ・ ・ショックだなぁ~

いやいや待てよ、彼女はきっとロマンス映画なんか絶対に観ないアニメおたくなんじゃないのか。

きっとそうだと思う。所謂世間知らずの「おたく」女なんだ。 彼女よ君は僕らの年代に近づいたら今日言った言葉に絶対に反省すると思う。
覚悟しとけよー(涙。


ばりょうざん~みつぼ

2009-02-08 22:48:29 | 山登り
馬のたてがみと書いて「馬鬣山」と呼ぶ。 名づけ親は明治天皇だそうだ。

参勤交代の頃から宿場町として栄えた朝日町の泊に明治天皇が立ち寄られふと目に入った山の、背に連なる松の木が馬の鬣の様な山だのうと言ったとか。

       
今日はその馬鬣山を経て三峰へ僕ら村の登山隊「小杉K トレッキング倶楽部」のカンジキハイキングだ。

       
8時に公民館を出発。馬鬣山そして三峰への山並みを正面に登り口の横尾へと向かう。メンバーは男女各3名の6人、

横尾の公民館前の駐車場に車を止めて出発。 予想してた通り雪は全く無く輪かんを背に括りつけての登りとなった。

       

       
広く空けた馬鬣山の頂には容易く到着。 眼下には黒部川扇状地と日本海が広がる。

       

       
陽が上がる毎に天気も良くなり時間もたっぷりある。 会話を楽しみ木々の芽の膨らみを確認し時おり垣間見る下界に満足感を覚えゆっくりゆっくりと歩く。

       

       


       
三峰へ到着しここで初めて雪に出会う。 かんじき(輪かん)をこのために担いできたのだ(笑。

       
早速に輪かんをつけて尾根まで直登だ。 陽射しが気持ち良い。

ここ三峰は朝日町で唯一のスキー場だったところ。 他には黒部渓谷の玄関口は宇奈月温泉にスキー場があるくらいで僕ら子供の頃学校でここまでスキー実習にきた覚えがある。 それも歩いてきたのだから今思えば当時は学校も親もおおらかで良い時代だったのだと思う。

       

       
時おりズボッっと深みにはまるが全体に硬く締まった雪に初めての輪かんも軽快に進むNちゃん。

       

       
尾根に建つ小屋に到着。 山の窪みには笹川集落が見え、その向こうには日本海が波も静かに青く広がる。 お疲れ様。

       
小屋へ入り早速に昼食の準備。 お湯を沸かし味噌汁の準備に銘々のおかずを出し合いここでもゆっくりと時間を過ごす。

お腹も充分に満たしまだ時間に余裕はある。 帰りは笹川集落経由で下山と決め込む。

       

       
汗をかくこともなく静かな、そして心地よい山登りだった。 山里へ着いて芽吹いた蕗ノトウを摘んだ女性軍にもらい帰って天ぷらにして戴くというオマケまでついた。


帰りがけ近くの温泉に寄り皆して疲れを癒し次の山行を話し合った。 
一人での山行も多い僕だが、山仲間と共に行動する楽しさも捨てがたい。 行きたい山や好きな山を互いに語り合う時、ついつい時間が経つのも忘れてしまう。

山は自然で偉大だ。 その山を相手の登山、そこに集まった仲間同士には滅多に心争うことなどない。 それは山登りが人との競争ではなく自分との戦いでもあり語らいでもあるからなのだろうか。


誰かが帰りがけの車窓から北アルプスを眺めて、 富山に生まれてよかったとしみじみ言った。

家へ帰って用具の整理をしていたら西に大きく陽が沈みかけた。今日も雄大な山並みを拝むことができて幸せである。