善意が仇となることもあります。
よかれと思ってしたことも、それが原因で自分にだったり他人にであったり、困った状況になることがあります。
例えば先日あった話ですが、ツイッターから血液の提供者をさがしているので協力して欲しいとのツイート。
これを読んだ人が自分にできることをしてあげようとリツイートして多くの人に知らせてあげました。
それならと善意の協力者が現れたという話です。
一見いい話のようです。が、しかし実情はこういった状況です。
ある人が入院して医者から血液が必要だから該当する人を探して欲しいと頼まれたそうです。
自分は該当しないので困ってしまって誰か他にいないかといろいろな人に相談。
相談をうけたある人がツイッターで協力依頼しました。
けど、ここでちょっと考えなくてはいけないんです。
今回のケースでは、医者から血液が必要と言われたときにもっとちゃんと話を理解していなければいけなかったんです。
よっぽど特殊な事情でない限り、血液が足りないということは考えにくいということです。なぜ血液が必要なのか、おそらくその説明も受けているはずです。
大事なことが抜けていたんです。
ではどんな事情かというと例えば血液の異常のような病気の場合がそうでしょう。
そういった場合に血液が必要ということは、治療に必要だということにもなります。
そうなると、1回献血して血液を提供すればよいという話ではないこともあります。
1回こっきりの血液のストックがないなんてことはほとんどないでしょう。
医者ではないので詳しいことはわかりませんが、推測するに、副作用とか治療の効果とかあると思いますが、継続的にその該当する血液を提供した人の協力が必要となってくることになるかもしれません。
ところが、この善意の人はおそらく1回血液を提供すればよいと考えていたはずです。
それなのに、必要な血液に該当してしまえば、継続的に治療につきあわないといけなくなるのでしょうね。
そういう事情を知らないまま多くの人が病院へと足を運ぶ、そして聞いていなかった大切な状況を知って、協力を断念する。
病院としても、善意の人にその説明を幾度となくしなくてはいけません。
善意がある意味業務を妨害しているんです。
呼びかけた人も善意、血液の提供を申し出た人も善意、協力してくれた人が全員善意の行動です。
プラスとプラスがときにマイナスになることもあるんですね。
ただ、何が善意の行為かどうかの判断はほとんどの場合できないでしょうね。
むずかしいところですね。