風通庵-直言

ヨモヤマ話

百姓だけはもう二度としたくない

2008-10-24 12:03:02 | Weblog
 百姓だけはもう二度としたくないと、嘗て農業をやっていて、いまはもうやっていない人達の本音を聞くことがある。人達と、あえて複数にした。
 いまや秋の稲刈り時期で、「秋冷に朝、露に濡れた稲穂はしっとりと色つやを増し、重々しく頭を垂れていた。」と、さも情緒的に産経新聞(10、23、)夕刊は、明日香村の棚田の稲刈りを写真入りで掲載している。
 定年後は田舎で農業を、家も土地もあります。お安くします。何年間は無料でもよろしいと過疎地からの招きや、跡取り不在の農家からの誘いを聞く。しかし、農業なんてそんなに簡単にすぐ出来るものなのか。会社勤めに飽いて、都会暮らしに愛想を尽かして、それなら田舎で百姓でもとか、定年後は生活費の安い田舎で、農業でもしながらのんびりととか、思うのは勝手だが、都会で朝晩電車で通勤して、スーパーで買い物して、便利に生活していた人が、いまも田舎の夜は真っ暗闇、買い物一つするにも車が必要。スーパーと言っても都会のスーパーほどの品物はない。ちょっと病気をしても車で、1、2キロも行かないと医者の一つもない。田舎で生まれて田舎で育ったものはそれでいいんだが、いったん都会の生活を経験すると、その不便なこと筆舌に尽くせない。それを都会ボケと言う。
 農業なんて誰でも、いつからでも出来るものではない。畑を耕して、種をまいておけば、勝手に成長して実が実り収穫できるなんて思うと、とんでもない。仮にもう何年も荒れ地で放置している土地なら、いわゆる痩せ地で2,3年は作物は作れない。その間の土地の手入れが大変なこと。満足に作物が作れるまでには、10年くらいかかるのではないか。それもそこまでの根気があっての話だが。なにしろ、体力のいる仕事。体を酷使する仕事。それは百姓の人たちの顔つきや体つき、手つきを見れば明か。案外誰も気がつかないが、日々の作業に投ずる労力と、収穫と、収入の三つがアンバランスであること。それは自然によるところが大きい仕事であるためで、これはどうしようもない。サラリーマンのように毎月決まった収入は得られない。
 われわれの食べ物はすべて自然に出来たもので、化学反応による人工のものはない。ところが自然にできたものでも、農業の工業化とでも言うか、季節に関係なく人工的に季節を作り出して栽培する。したがって農業でも土地はいらない。土地に頼ると自然のままで、必要量が不足したり、不要な収穫があったり、と需給関係にアンバランスをきたす。だから工業製品の生産がそうであるように、農作物までが作り出された自然の中で、計画的に生産される時代である。したがって、農業をするにも土地はいらないから土地が余ってくる。これはこれからの時代の宿命かも知れない。都会生活に慣れた人たちが、田舎の生活を夢見ようものなら、いっぺんに悪夢になる。
 百姓に生まれ百姓で育ったものでも、一度そこから離れると「百姓だけはもう二度としたくない」と言うのが本音。
 

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