風通庵-直言

ヨモヤマ話

「ガ―ド下の靴磨き」------NHKラジオ深夜便で

2008-02-29 11:57:03 | Weblog
 NHKのラジオ深夜便、2月28日(松本一路アナウンサ―)、にっぽんの歌・こころの歌は昭和30年のはやり歌。今なぜか昭和30年代に郷愁を感じる風潮があり、映画「三丁目に夕日」が話題になっている。
 深夜のこの番組の放送で、宮城マリ子の歌った「ガ―ド下の靴磨き」が、特に同時代に青春時代の真ん中にあったブロガ―にとっては懐かしい一曲であった。と言っても、このブロガ―がガ―ド下で靴磨きをした訳でもないが、当時の時代をよく反映している、そんな曲だ。

 昭和30年と云うと、このブロガ―は学生時代の真っ最中で、安アパ―トの一室で自炊生活を送っていた。その時、隣の部屋に住む会社員のお兄のラジオから聞えてきたその時の「ガ―ド下の靴磨き」の歌がとても印象に残っている。誰が言う、あの歌が戦災孤児の歌とは知らなんだとは-----。事もあろうに、そんなご仁が子供を靴磨きなんぞさせて児童福祉法に違反ではないかとか、後講釈ながらそんなことも言いかねない今の時代ではあるが。

 赤い夕日がガ―ドを染めて、ビルの向こうに沈んだら-----と、当時やっと商店街にすずらん灯がつき、夕暮れとともにネオンが輝いたが、それが何とも夜の巷を象徴する風景であって、詩情とも倦怠感ともいえない感情か、あるいは一種の開放感もあったかも知れない。ドンドン戦後が遠坂って行く、そんな時代に取り残された戦災孤児の生きざま、といえば可哀想かも。同時に「花売り娘」も登場するが、誰も買ってはくれない。こんな風景は、あの時代に生きた人間でないと恐らくは理解できない。理解と言うよりか情念、宮城マリ子の倦怠感を振り絞るような歌いっぷりが、まさにあの時代である。
 お父さんは死んじゃった。お母さんは病気でと、哀れのどん底である。しかし、少年に同情する者はいなかった。そんな時代だ。小さなお札しか稼げなかった。そんな少年に、同情する者はいなかった。今の言葉で言えば、まさに「ク―ル」であった。
 小さなお札という歌詞は、当時は硬貨がなくて、1円、5円、10円と、すべて紙幣であった。そんな説明の要る今の時代だが、それだけでも時代背景が分かるであろう。
 折りしもNHKの「知るを楽」で、宮城マリ子さんを複数回取り上げていたが、いまは「ねむの木学園」の園長として、福祉に携わっている。やはり、この「ガ―ド下の靴磨き」の延長線上にあるのかも。

   ガ―ド下の靴磨き
 
               宮川哲夫 作詞
               利根一郎 作曲
               宮城マリ子 唄

一、紅い夕日が ガ―ドを染めて
  ビルの向うに 沈んだら
  街にゃネオンの 花が咲く
  俺ら貧しい 靴磨き
  ああ 夜になっても 帰れない

  (台詞)
  ネ 小父さん みがかせておくれよ
  ホラ まだ これっぽちさ
  てんで しけてんだ
  ェ お父さん? 死んじゃった------
  お母さん 病気なんだ------

二、墨に汚れた ポケットのぞきゃ
  今日も小さな お札だけ
  風の寒さや ひもじさにゃ
  馴れているから 泣かないが
  ああ 夢のない身が つらいのさ

三、誰も買っては くれない花を
  抱いてあの娘が 泣いてゆく
  可哀想だよ お月さん
  なんでこの世の 幸福は
  ああ、みんなそっぽを向くんだろ 

日本は日本、中国は中国です

2008-02-28 19:28:55 | Weblog
 中国製の冷凍ギョ―ザの毒物が、中国は日本で混入したと言う。それならそれでよろしい。日本で混入する筈がないと日本で思うのもそれでよろしい。中国相手の話はすべてそのようなことで、最初から結論のわかっていることばかりです。おそらく福田さんも、持って回ってような,とりとめのないことを云って、中国に対して云うこともろくすっぽ云えない、と言うより相手に位負けして,いいたくても云えない。頼りない総理大臣だから、当てにしないで、ただ中国製とあれば買わない,食べない、それを徹底すれば、頼りない総理大臣を当てにしなくてもいいんだ。
 中国は中国で、責任を日本に押し付ける。それは当初からの予想の通り。話しあうとか何とか云いながら、最後はウヤムヤ。だから、そんなこと当てにしなくてもいいんだ、買わない、食べない、それでいいんだ。一説によると、稼動停止した中国の製造会社では、日本に対し損害賠償するとか、福田さんならハイハイと、待ってましたとばかりに、中国の言うままに損害賠償するだろうが、それで福田さんの総理としての寿命はジ・エンド。支持率がどうのこうのというような時代ではない。
 日本は日本だ、中国は中国だ、体質の違う相手に何を云っても通じない。それでいいではないか。

 「毒物は包装紙を浸透する」-----21世紀の中国の知恵である。

 すべて世はこともなし、だ。

 

たかが‐‐‐‐‐、されどタレント知事

2008-02-26 10:55:05 | Weblog
 これ以上云うと、とんでないアヤマチを侵すと、おんなじ言葉で、大阪の橋下知事と中国の唐家せん国務委員が笑いながら握手してるのはええけど、要はその次や、これ以上の次に何があるか? 「上海万博に大阪は参加しない」と、早々に打ち上げた橋下知事の施政方針。それに引っかかってのアヤマチと思うけど、どうやろ? お互いにやるなァ。

 橋本知事に枕詞かなんかのようにタレント知事とか言うけど、同じタレントでも吉本の漫才崩れや安モンのタレントとは違うやろ。テレビ番組に出る回数が多いとか云うけど、われわれはワイワイガヤガヤ、キンキンキャンキャンのごちゃ混ぜのテレビ番組は見たことないから、大阪府知事に立候補するチョット前まで知らなんだ。なんや子供がギョウサンいてるとか,なんかのテレビ番組で見たような気がするくらいや。彼、一言に、タレントでええやろか? この点は宮崎の東国原知事もそうやけど、れっきとしたそれ相当の人物やで。東国原知事はそのために早稲田大学で地方自治を学んだし、橋下知事も弁護士として学識もあるし、しっかりした理論武装してるし、タレントはその上から蓋った衣か、大衆受けする、庶民に合わせたコ―トのようなもんやわ。しやから、上っ張りのコ-トで見るか、その下に隠された本体で見るか、その違いやな。衆議院・参議院なんかのように集団の場合は知名度だけでもええやろけど、地方の首長のように一人で行政の全般を荷うとしたら、そら知名度だけではどうにもならへん。

 橋下知事をタレントとしか見てへん子は、そんな子は、選挙になんか行つてへんのと違うか、そんな気がするでェ。橋下知事も知名度や、テレビの露出度だけで当選してないと思うけどな。特に大阪の場合、大阪人の特色として、いかめしい肩書きや公権力を翳したりしての高圧的な態度には反感をもつんやわ。その点は、橋下氏の身軽で、取っ付きやすく、爽快感があって、ハンサムでしかも愛嬌がある。彼自身折りある毎に年齢が38歳と、自ら吹聴してるけど、あれ、彼独特の一種の売り言葉やで。見るからに他人から頼りながられることを逆に捉えてのカモフラ―ジュ戦法、煙に巻く云うんかなァ。相手に隙を与えんようにの弁法やヮ。そない思うわ。
 衆議院でも参議院でもおんなじやけど、政治不信で、誰が出ても一緒。政見なんか聞いて聞かへん。言うてることとすることが違う。あんなことアホのすること、くらいにしか政治や政治家を見ていない時に、タレントとか言う名前の知れた人がでてくるように思うな。国民にしてみたら、そんな時、何かしてくれるんと違うかなとの、半分投げやりの、半分期待感とで投票するんや。しやから、政治の混迷期やで、マア言うたら。変化を求める言うんかなァ。
 しやから、一旦当選したら、しがらみがないから、思うようなことやりよる。第一、金に頓着がない、これがええわ。この点は東京の石原慎太郎もおんなじやろ。橋下氏も本業の方が収入がええのに、それを犠牲にしての知事やからなァ。業者から賄賂もろうたり、入札価格を教えて金もろたり、それがないわ。逆に言うと、業者には扱いにくい存在やろなァ。
 府立婦人会館・ド―ンセンタ―の廃止かなんか云うたら、さっそく女どもが署名集めて持っていきよったが、金がないところィ署名持って行って何するンや? 持って行くんなら金集めてもっていけ。大手前会館やったらいるけど、婦人会館なんか要らんわ、潰してしまえ。
 ただ、いつまでやるか、それが問題やでェ。せいぜい2期位で惜しまれながらやなァ、辞めたらええけど、府民から飽かれて支持率が20%以下になっても、いつの間にかしがらみが出来て、あれもまだやりたい、完成してない、これも計画半ばや、まだまだと居座るようになったらオシマイ。そうでのうても、マスコミははや当初の意気込みから後退とか。それで、意気込みの通りにやったら、今度は犠牲になる人の声を大々的に取り上げて、影で泣いているとか何とか云うて、突き上げる。なんとまあ難儀なもんやなァ。
 マアそんなところかなァ。

得意の日本語で----中国の唐家せん国務委員

2008-02-25 09:09:13 | Weblog
 来日中の中国国務委員の唐家せん氏の得意な日本語が話題になっている。大阪府の橋下知事との日本語でのユ-モア交じりの会談である。温家宝首相も日本語が巧みである。胡錦涛主席については知らないが、従来の閣僚クラスは全員日本語が出来たと思う。それは日本の統治下にあった当時に育ったか、日本に留学した経験があるかのどちらかである。
 韓国の新大統領李明博氏は東大に留学、また閣僚にも親日派が就任とかで、日本語は日本人並みと思われる。要するに、中国や韓国より日本が先進国であったがために日本へ留学したのである。前大統領の金大中氏も日本語が出来る。野党大統領候補としてわが国のホテルから拉致された当時は日本語で喋っていた。われわれと何ら変らない巧みな日本語であった。ノ・ムヒョン元大統領の反日政策に同調して日本語を敢て使わなくなったのかも知れない。通訳つきである。
 逆に考えて、日本の総理大臣はもとより閣僚クラスで、中国語や韓国語の喋れる人がいるかどうか。仄聞するに加藤紘一氏は外務省でチャイナスクールの一員であったと言うから中国語が出来るようだが。
 やはりそれほど日本語が重要であったわけで、国際社会とまで云わないまでもアジア諸国での生存には、日本留学か日本語を必要としたのである。それは、もはや、過去の話である。

 翻って、現在アメリカ・カリフォルニアのシリコンバレに進出し、在留している外国人は、中国人、韓国人、インド人、台湾人、その次に申し訳程度に日本人である、と言う。
 また、わが住まいの近くにある留学外国人の公営宿舎でも、2,30年前と比較にならないほど空室が多い,ようだ。したがって、外国の留学生の姿もめっきり少なくなって、殆ど見かけない。
 これほどまでに、日本の国際的な地位が低下していることになる。国外へ進出して行く者も、外国から留学してくる者も、どちらにもわが国は元気がない。小学1年から英語の授業をとかなんとか云々する前に、日本語を世界に広める努力をしては-----?
 世界地図の中から、日本列島が消えかかっているのが現状である。
 


森光子さん「放浪記」で1900回

2008-02-24 15:01:56 | Weblog
 森光子さんが主演する「放浪記」、東京・有楽町シアタ―クリエで上演中の2月23日、上演回数1900回を達成した。昭和36年の初演から一度も休まず単独で上演を続け、わが国における上演の最高記録を達成した。
 長期公演の記録としては、戦前戦後を通じて、新劇で文学座の杉村春子演ずる「女の一生」がある。
 帝劇での森繁久哉主演の「屋根の上のバイオリン弾き」も長期公演で話題を呼んだ。古くは、戦前、宮城千賀子の「狸御殿」があり、わが国最初のミュ―ジカルと言われて映画にもなったが、そんなこと最早知る人も少なかろう。長期公演としての記録は「放浪記」以下ががそうであるように、一人の演者が一つの作品の同一人物を演ずるのであるが、大衆演劇の世界では、案外知られないところで、こんな例があるかも知れない。

 森光子が話題になるもう一つの原因は、年齢で、87歳という高齢もものとはせず実在人物・林芙美子の生涯を演ずるところにある。一昔前なら他人の年齢を公開するなんて失礼の度を越していた。ましてや売れっ子の女優の年齢など。ところがいまや開けっ放し、聞きもしない年齢を自ら知らしめる、プライバシ―の侵害で訴訟にもなると云うのに、これだけは例外のようだ。タレントと称する人種にとっては年齢も商売道具の一つのようだ。

 やっぱり、「一味違いました」。

 話がとんでもない方向へ行ってしまったが、昭和30年前後かな、このブロガ―が大阪在住でまだ学生のころ。大阪中ノ島、まだ今のグランド・ホテルのなかったころ。同じ場所に、朝日アリ―ナというスケ―トリンクがあった。夏場になると,リンク上に床が張られてステ―ジが設けられ、毎日放送(新日本放送)や朝日放送の公開録音の会場になった。中ノ島の府立図書館や朝日会館へ行ったついでの時もあったが、その公開録音場でいつもよく顔を見る2,3人の芸人(まだ当時はタレントとは言わなかった)と言うか出演者がいた。急遽公開録音が延期になったり、出演者の都合で中止になったり、時間が変更したりと、折角の来場者に迷惑がかかると言う時に、ピンチヒッタ―とでも云うのか、いつもよく見かける2,3人の芸人の出番である。歌を歌ったり、コントを演じたり、また、ステ―ジの上でふざけたりと。後ほど分かったが、それがいまの森光子、赤木春江であった。いわば、余興屋であった。そこで、森さんの歌を聞いた記憶があるが、確かに素人はだしであると思う筈。歌手としても活躍していたとか。戦前はお姫様役で映画にも出演していたとか。まだ森さんが30歳の前半位の頃か。そんな頃のこと、今言われると本人も気恥ずかしいかもしれないが、その前後のころ、森光子は蝶々雄二の漫才学校のレギュラ―、森さん、でお笑い番組に出演していた。これが森光子の原点である。
 一人の人間、いや女としての直向な生き方、女優としての弛まざる精進、そして現在ある姿、やはり凡人ではない。

保護責任者遺棄事件で-----

2008-02-23 11:14:05 | Weblog
 前置き―。 大型艦船の接近に、成徳丸はいかに危険を感じ、舵を切ったか-----、事故原因解明の対照が、被害を受けた成徳丸に向けられる時期があるのか? 行方不明者が未だ発見されず、民主党の政局化の目論みもあって、見通し不良。


 大阪・堺市の総合病院で、入院していた全盲男性患者(63)を、同病院職員が公園に置き去りした事件で、発生一ヵ月後の二月中旬、西成警察署は事件を主導した職員を「保護責任者遺棄容疑」で書類送検した。
 事件そのものはいささか旧聞に属するが、事件発生当時から「全盲患者捨て去り事件」として、全盲患者を公園に捨て去った病院職員を「悪人」として、全盲患者を犠牲者「善人」としての、その前提でメディアは報じ、世間一般も認識していた。
 ところが、公園に置き去りにされ、捨て去られた全盲男子患者は、医療費百何十万円が未払いで、病院職員や同室患者との間でトラブルが堪えない、従って六人部屋を一人で独占、転院や障害者施設への紹介も拒否、かねて見舞いに来ていた内縁の妻からも引取りを断られた等、患者自体の日々の姿が明らかになるに連れて、メディアの報道も少なくなり、総じて話題にならなくなってきた。
 病院職員「悪人」、全盲患者「善人」の構図が徐々に崩れだした。
 こんな場合の病院職員を「保護責任者遺棄罪」,刑法218条との関係に、疑問が生ずる。自動車運転者が通行人をハネて放置した場合の責任者遺棄とは事情が相当違う。また、法適用の盲点か、欠陥か、それが法というものかは知らないが、要するに、全盲患者を病院職員が公園に捨て去ったという行為だけを罪の対照にしての法の適用である。その場合、全盲患者の行為はただ病院職員の罪の設定に対しての違法性の阻却事由、例えば五年以下の懲役が三年に減じられるとか、以外には事情が考慮されない。

 そうとしても、それで全盲患者はどうなるのか。本人は自分は可愛そうな立場の人間で当然の行為をしているまでで居座るを当然視しているか。他の人は常日頃の行為から捨てられて当然と考えるか。そこの判断は難しい。病院とて経営上医療費を払つてくれない患者がいつまでも居座られては困る。だから、最も適切で、最も望ましい解決方法は、公的な施設での収容である。ところが管轄の保健所は「行政が積極的に動けない」と、いわば一番の救済施設が先に言明した。また、厚労省の医療制度改革で、今後はかかる医療難民が増えるであろう。アメリカ型の市場原理が医療分野に持ち込まれたから----。そんな傾向を指摘している。
 単に、傾向を指摘しただけでは、かかる問題の根本的な解決にはならない。

 この事件、恐らく病院職員の執行猶予付きの保護責任者遺棄罪で一件落着するのではないか。全盲患者を公園よりもっと広い社会に取り残して---。だから、必要な人の救済よりも、側面の処罰でもって、ジ・エンドかも。


 

見えてきた中国製冷凍ギョ―ザ中毒事件の結論

2008-02-23 08:57:26 | Weblog
 中国製冷凍ギョ―ザによる中毒事件での警視庁と中国公安省の情報交換会議が、2日間の日程で行われた。
 警視庁の科学的な鑑定結果による有機リン系殺虫剤が、中国国内で混入した可能性が濃厚なことを説明したが、中国側は「まだそういうには早い。日本と中国のどちらでも混入した可能性がある。」と言った。(讀賣新聞2,23、)この中国側の発言について、見方によっては中国が一歩引いた発言で、従来型の中国に一点の非もない強行発言でないことを指摘するかもしれない。いや、この事件は中国側にとっても、相当タイミングが悪かったのも事実。しかし、なんとしても相手は中国で、仮に自国で混入が認められても、その責任の所在は日本に振り向けることは想像に難くない。公安省は日本の科学的な鑑定結果を持ち帰つて検討すると言っても、中国側の検討は,党の面目やら、間もなく始る北京五輪の影響、さらにその前に決っている胡錦涛国家主席の来日等の政治的な影響を考慮しての検討で、正しくギョ―ザその他冷凍食品の毒物混入の原因調査とはおおよそかけ離れたところでの検討である
 
 -------中国公安省は日本の警察庁の科学的鑑定結果を持ち帰っても、恐らくは相当長期間放置して、胡錦涛主席の日本訪問も無事終わって、北京五輪の寸前に至って、毒物混入の根本的原因はいまのところ確たる証拠が見当たらない。この程度でチョン。福田首相も、「今後の日中関係の重要性を考えてですね、いつまでもズルズル引きずっていていいものかどうか、中国側もこれを契機に食の安全に一層関心をもってもらえるんじゃないかと、そんなことも考えてですね、今後一層前向きに、緊密に取り組んでいく、そんなことで-----。」解決とするであろう。例によっての行きつ戻りつのとりとめのない話しっぷりで、これでまた支持率が落ちるであろう。-------
 
 おおよそこんな結論であること想像に難くない。仮にそれで一件落着でも、「買わない。売れない。輸入の自然停止」になるだろう。すでに、富山県(?)のCO・OPが中国製品の取り扱いを中止すると発表している。
 北京五輪期間中になにがしかの食中毒事件が起こる可能性なしとはしない。

 

中国食品から身を守ろう

2008-02-22 11:11:50 | Weblog
 イ-ジス艦に話題を奪われ、
 中国の唐家せん国務委員の来日もあって、
 また、中国製冷凍食品から検出された有機リン系殺虫剤の種類や検査結果の公表もあって、中国製品の毒物混入情況もほぼ明らかになった。

 中国の製造会社や生産者が過剰に農薬を使用した野菜が、意図的に加工食品に回されていた疑いがあり、厚労省は横浜、神戸の「輸入食品・検疫検査センタ―」では今後生鮮食品と合わせて加工食品も検査の対象にする。日本の検査の実態の裏を突かれていたとの判断である。
 来日中の中国唐家せん国務委員と福田首相との会談でも、食の安全で日中間で中長期的な協力の枠組み構築の必要性が語られた。
 
 元来、手品とかマジックなどの人の目を欺く芸当は中国人の得意芸で、チョットした隙間も見逃さない、顔で笑って人の気を逸らして、腹でやんわり、あッと,気がついたときには誤魔化されて、後の祭り、なんて中国人相手では日常茶飯事。当たりが柔らかいんだ。だから誤魔化されるんだ。この点朝鮮人は言葉に剣があってすぐ喧嘩になるから、損な人種だ。中国をよく知る人なら、今度のこの毒餃子事件からの一連の薬物混入について「さもありなん」と、思っていると、思う。
 日本人は「猿真似」と言われたように、類似品を作るのが得意であったようで、従って、戦後の復興でもアメリカの真似をすればすぐ出来ると揶揄されたが、日本人の「猿真似」に対して、支那人は「誤魔化し」。その本性が出てきたと思えば、腹も立たない。

 これだけ明確に、中国製品の毒物混入情況が、その種類、検出品の製造元、最高検出濃度、半数致死量、日本での流通、検出された食品、検出品の回収地との公表に対して、中国外務省の劉建超報道官は「憶測であり、完全な証拠に基づいていない」と述べているが、中国共産党に検査を任せて「政治の目で、政治の口で、日本側に原因があった」と言えば、憶測でなく、完全な証拠が示されたとでも云うのか、その程度のこと。

 だがしかし、中国製品も原材料も、いかに検査の完璧を期そうと、唐家せん国務委員が何を協力しようと、それはそれ、それぞれの立場でのお役目上の発言で、われわれ国民は、食べなければいいんだ。買わなければいいんだ。それが根本的な「食の安全管理」である。

 野党の民主党は、今後政局の照準を「イ―ジス艦」へと向かうであろう。話題の尽きない今日この頃である。いざ,イザ―。

アメリカの小学校ではー(その2)ー

2008-02-21 13:34:20 | Weblog
 わが国の小学校では100マス計算というのがあるが、それと似て非なるもので100に因んで Happy 100th Day (100日のお祝い)と言うのがあるようだ。例えば、入学後100日とかで、大体が計算を100ー70とか、30といくつで100になるかとか、それと合わせてお金、ドルの計算とか。
 正しい答えで That’s Right ! と、云ってもらうのが嬉しいらしい。
 割合楽しくやっているようだ。楽しくといえば、こんなことー。小学校の低学年の頃は、乳歯(milk tooth) が生え変わる時なので、歯が抜けると「Ⅰ Lost a Tooth ! 」のステッカーを胸に張ってくれる。それがまたとてもじゃないが嬉しいらしい。みんなの注目を集めてー。しかも、学校で歯が抜けると先生が「Juery box」と称する小さな宝石箱をくれるので、その中に抜けた歯を入れて持ち帰る。その箱が子供にとってはとても欲しい物らしい。それを貰うと友達の間でも自慢になるようだ。
 
 小学校はもとより、その前の Kindergarten の頃から、アメリカの教育制度がそうなのかも知れないが、毎朝、授業の始めに、全員が星条旗に向かって、右手を左胸に当て、「忠誠の誓い」をする。

 The pledge of allegisnce!
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America and to the Republic for which it Stands,one Nation under God Indivisible,with liberty and justice for ALL.

 こうして幼少の頃から、神の下に統一された自由と正義の国と国旗に忠誠を誓わせて、国家意識を高め護国の義務を教え込んでいるようだ。国としては当然のことか、それとも多民族国家に於ける国民の意思を統一する必要からか? 思えば、わが孫娘や孫息子がアメリカの国家意識を高められては帰国後大変困るが、しかし逆にアメリカ国籍のアメリカ人の子女が日本のいまの教育を受けて、アメリカに帰国したらどうだろうか。アメリカでなくてもどこの国でもよい。 
 例えば、わが国で、毎朝、学校で「日の丸」に向かって「君が代」を歌うのといわば同じことで、そのような時代―それこそ卒業式に教師が、教師がだ、君が代、日の丸に邪魔をして訴訟をする国で―がまた来るかどうか。それは別にして、この頃特に多いスポ―ツの国際試合のさいの国歌の斉唱・国旗に向かっての忠誠を捧げるの証で見るように、どこの国でもやっていることだ。どこの国でもやっていることで、自分の教え子の厳粛な卒業式に国歌の斉唱や国旗に反対して裁判をする国で教育を受けた外国人が、自国へ帰ってどのように振舞うか。国家なんて、と、足で蹴散らす、そんな意識もなしとしない。

アメリカの小学校では―?

2008-02-20 13:33:53 | Weblog
 アメリカの学校は、わが国の実態とは大違いで、どうやら親たちにとってはモンスタ―ティ―チャ―のようだ。モンスタ―ペアレンツに悩むわが国の教師たちが見ると羨ましいかも知れない。小学校では生徒の登下校に親たちが同伴する義務があるようだ。登下校だけでなく、子供の一人歩き、一人での留守番、一人での買い物などは禁じられていて、うっかりすると育児放棄として警察のご用になるようだ。まあ、いわばそれほどまでに治安が悪いといえばそれまでだが。
 学校でも、勉強のチョットした準備から昼食の世話まで親たちが手伝って、教師達には相当の協力をさせられるが、一旦授業になると親たちには一切口出しさせない強い権限を持っているようだ。考えてみれば、いや考えなくてもだ、それが本当ではないかな。

 わが孫娘と孫息子は、父親のアメリカ勤務でカリフォルニアのELementary School に通っているが、当初より英語が出来ない子供の通学を認めること自体が一種の驚きだが、そこは子供のこと、いつの間にか友達とも会話が出来るようになってまさにバイリンガルの生活である。もっとも、生まれたのはアメリカなのだが、だからと言う訳でもないが、Native同様に、クラスで意見の発表もするし、言葉のハンディはないようだ。特にアメリカの教育は、時々のテーマで各人がみんなの前で発表し、それを先生が採点する。そんなことが多いようだ。自分の考えを、相手に伝えることのトレ―ニングかもしれない。
 発音も、子供のことだから、自分が耳で聞いたままで喋るから、見事である。RとLの発音の違いなんて言わないし、th とか ch の発音がどうの、have+過去分詞なんてことも知らない。どうやら、アイウエオの50音をべ―スに英語を発音するからジャパニ―ズ・イングリッシュになるように思う。英語の発音には注意しましょう。
 さて、もう間もなく3月3日のお雛様の日、雛祭りだが、日本の学校ではそれが行事にはならないと思うが、アメリカの学校では各種行事が多彩で10月30日の Halloween(例の Trich or Treat)あたりから CHristmas、感謝祭(Thanks Giving),St’Ⅴalentin’s Day,Easter などすべて学校の行事に取り入れているようだ。

 クラスでのバレンタイン・パ-ティではケイキやフル―ツでパーティだそうだ。例のⅠ love you! もyouの範囲が,love の相手だけでなく、My hole heart のようです。もっとも、当人は小学生ですから―。
 これはお遊びかもしれませんが、「ツイン・デイ」(双子の日)には、友達二人が同じ模様の服を着て登校するし、「インサイド・アウト・デイ」には服を裏返しに着て登校する、チョット想像を絶するが。「パジャマ・デイ」では朝起きたままの姿で、パジャマのままで登校する、そんな日があるらしい。それ以外にもまだまだ聞いて驚き、ビックリする、われわれ日本人の常識からは奇妙に感じる行事もあるが、どうやらアメリカ流の自由の裏返しかも。あるいは学校全体で、学校の行事として、子供のままごと遊びに準じた「おふざけ」で、子供の心をくすぐるのかもしれない。こんな教育方法もあるんだなー、と、思うことしきり。 
 何しろアメリカの先生は子供を褒めて褒めて褒めたおすらしい。日本流に言えば「煽てる」んだが、それで子供は自信を持つので、自信を持たせるような教育らしい。だから子供が伸び伸びして、快楽的に感じる。ただし、親達は相当の犠牲的精神で臨まなければならないと云うから、日本の現状とは相当の開きがある。

 もう一つ追加すると、親たちの負担になる学校の行事に、案外父親の参加が多いのが目に付くが、総じて家庭犠牲の会社勤務はないようだから、この点も日本の一般的な会社員の勤務形態からは多いにかけ離れている。出張でも家族同伴もありのようだから、なおのこと。どうやら、本質的には国の成り立ち方からが違うようだ。

 イヤハヤお粗末の一席でした。