奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

「竹取物語」かぐや姫、あなたはなぜ、月から来たの?

2015-07-14 12:09:07 | 読書
 今回は、日本最古の物語と言われるかぐや姫が主人公の「竹取物語」のお話をします。

 私は「竹取物語」が子供の頃から大好きでした。
 その理由はまず第一に、女の子なら誰でも憧れるお姫様の物語だからです。
 当然、「白雪姫」「シンデレラ」「眠りの森の美女」も大好きで、絵本を何度、読み返したか知れません。
 どのお姫様も、初めは継母や血の繋がらない姉などに意地悪されるのですが、ある日、白馬に乗った王子様が颯爽と現れ、それらの人々をこてんぱんにやっつけ、めでたく結ばれるというストーリーに、幼い私はどれだけ胸をときめかせたことでしょう。
 だから、幼かった私は、いつかは自分にも白馬に乗った王子様が現れ、私の前に跪き、手にキスをしながら、「あなたこそ、私が探し求めていた人だ。お願いです。私の妻になって下さい。」と言いに来るのを、来る日も来る日も待ち続けていたものでした。  
 いいえ、今でも、そういう気持ち、心の奥にわずかながらあります。(苦笑)
 でも、さすがにこの歳になると、白馬に乗った王子様じゃなくても、どこか遠いところに連れてってくれるなら、旅人でもいいかなと、やや現実的にはなっていますが。
 
 私が、旅人が好きなのは、案外、そういうところにあるのかも知れませんね。
 ところが、かぐや姫の場合、求婚者は何人も現れますが、誰とも結ばれませんよね?
 と言うか、かぐや姫に結婚願望を持つ男性は、嘲笑の対象となるような魅力に乏しい人物として描かれています。
 そういえば、かぐや姫に限らず、日本の昔話に登場するお姫様は、鉢かづき姫や瓜子姫に見られるように、素敵な男性と結ばれて、ハッピーエンドで終わるお話は全くと言っていいほどありませんよね?
 その理由は、漢字の嫁は、女篇に家とあるように、日本での昔の結婚は家同士の結婚という考えが根強く、まったく見知らぬ人と恋愛しての結婚はあり得なかったという事なのでしょうか?
 それはともかく、私が、かぐや姫が好きなのは、単なるお姫様ではなく、竹から生まれ、わずか三ヶ月で大人になったり、月の世界に帰っていく、とっても不思議なストーリーに惹かれてでした。
 幼い私は、白馬に乗った王子様を待ち続けるお姫様にも憧れていましたが、UFOやネス湖のネッシーなど、不思議な出来事も大好きだったんです♪
 
 もしかしたら、「竹取物語」は本当にあった出来事で、かぐや姫は宇宙人で、UFOで竹林の中に不時着して、心ならずも地球での生活を余儀なくされ、仲間が迎えに来るまでを記録したのかも?


 ところが、作家の杉本苑子さんが、以前、NHKの「歴史発見」という番組で、「竹取物語」の作者を探りつつ、この不思議な物語が貴族社会の凄まじい権力闘争の果てに生まれたのだと推理なさっていたのです。
 なんでも、かぐや姫に求婚者する5人の貴族には、実際のモデルがいたらしいのです。
 
 大納言大伴御幸は、そのまま大納言大伴御幸

 右大臣阿倍みむらじは、右大臣阿倍御主人(みうし)

 中納言石上まろたりは、大納言石上麻呂

 石作皇子は、同じ一族の左大臣多治比嶋

 車持皇子は、母親の出生が車持氏の大納言藤原不比等

 これらの人物はみな奈良時代の「公卿補任」という閣僚名簿に載っていて、権力の中枢にいたのですが、紀氏、巨勢氏、石川氏は「竹取物語」に載っていないそうです。
 自分の一族を嘲笑の対象にするのは考えにくいところから、紀氏、巨勢氏、石川氏の3氏のいずれかが「竹取物語」の作者の可能性があると杉本苑子さんは指摘しておられます。

 ところが、「竹取物語」が書かれたのは、平仮名を使用しているところから、9世紀後半から、10世紀前半だと言われているらしく、これらの人物が生きていた時代の約200年後に当たるのだとか。
 そこで「竹取物語」が書かれた時代背景を勘案した結果、藤原氏に政治的権力を奪われ、文学に活路を見出した日本最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の選者で、「土佐日記」の作者でもある紀貫之の名が浮上してきたそうです。
 杉本苑子さんは「古代の権力闘争のごたごたが尾を引いて、その憎しみがひとつの文学に結晶したのではないか」と、「竹取物語」を見ているとか。 
 そう言われれば、5人の求婚者のお話は、「竹取物語」の6割も占めていますので、作者がもっとも言いたかった事はそこにあるような気がします。  
 でも、私は憎しみが元で生まれた物語が、長い間、人々に愛されてきたとはちょっと考えづらいのです。

 私は、何となくかぐや姫が可哀想でならなかったのです。

 なぜ、かぐや姫は誰とも結ばれずに、月に帰らなければいけなかったのでしょうか? 


 そんな時、「源氏物語」の中で、紫式部が、「竹取物語」を、「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」と紹介し、その価値について「かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契り高く」と評しているのを知り、共感を覚えずにはいられませんでした。
 そうするうち、最近になって、古本屋さんで、三橋 健著の「かぐや姫の罪」という文庫本を見つけたのです。
 この本には「竹取物語」に隠されていた意味や、我が意を得たりと思わずにはいられない説が、実に詳しく書かれていたのです。
 三橋 健さんは神道の学者で、神道の立場から「竹取物語」を読み解くと、ほとんどの謎が解けると仰っています。
 
 神道のために書かれたのは、まずこの物語のタイトルが、「かぐや姫の物語」でなく、脇役であるはずの讃岐の造(さぬきのみやつこ)、いわゆる竹取の翁を冠した「竹取物語」である点でも明らかだと言います。
 翁の職業、竹取とは、野山に分け入って竹を取り、それを用いてさまざまなものを加工・細工するのが仕事だったとか。
 それは農家で使われるものが多かったそうですが、箕(み)はお米の殻を振るい除くほかに、中秋の名月の時に月見団子を載せる台としても使われています。
 そもそも月見団子は神様へのお供え物で、箕は単なる用具や器ではないそうです。
 それに、竹を編んで作る籠は、「古事記」に登場する海幸彦・山幸彦の物語に出てくる「間なし勝間」のことでもあり、この世と異界を結ぶ船のような役割を持つものと考えられていたとか。
 つまり、かぐや姫が竹から生まれたのは、竹が弥生時代や古墳時代の頃から、祭祀具として用いられ、竹の同類の笹も祓いの力があり、多くの神事に使われている事と関係しているそうなのです。
 そして、竹がそうした事に使われるのはほかの樹木に見られないほど急成長し、計り知れないほどの生命力を持つことから、人知の及ばない神威を感じ取っていたからだそうです。
 竹は、わずか二~三ヶ月で二十メートルまで伸び、以後、何年経っても伸びないのですが、かぐや姫も三ヶ月で、大人の女性に成長し、その後、年を取らなくなります。
 また、竹は二十年で寿命は尽きるのですが、かぐや姫が月に帰るのも、二十年後に設定されています。
 これだけでも、「竹取物語」が、宗教と深い関わりがあり、作者が竹の生態を熟知していたかが分かるようですよね?
  
 それは、月に対しても言えるそうです。
 なぜ、かぐや姫は月から来て、月に帰らなければならなかったのか? 
 
 昔の人は月が満ち欠けする姿に「死と再生」の連続性を見出していたと言います。
 毎月最後の日は、月の姿が隠れて見えなくなる「お月ごもり=晦日」。それは死を意味しているそうです。翌日は月が再び立って現れる再生の「お月立ち=朔日」。間に月が満ちる望月を経過しながら死と再生は繰り返されていきます。
 しかし、そこに住む月の世界の人は老いることがなく、時間の観念の異なる世界で、かぐや姫は人の形をとって現れた権現、つまり神様を表しているそうです。 
 では、かぐや姫はなぜ地球にやって来たのでしょう?
 それは、この本のタイトルにもあるように、「かぐや姫の罪」に原因があるそうです。
 確かに、原典にも、「かぐや姫は罪をつくり給へりければ・・・」と書いてあります。
 どうやら、かぐや姫は罪を作って、地球に流されてきたらしいのです。
 しかし、「竹取物語」にはどこにも、どんな罪だったのか書かれてはいないのです。
 ところが、古くから、かぐや姫のことだと伝えられる木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)が祀られる静岡県富士宮市にある富士浅間神社の「浅間御本地御由来記」に、姦淫の罪であったと記されているそうです。
 しかし、かぐや姫は身籠りはしたようですが、それは処女懐妊で有名なイエス・キリストを産んだ聖母マリアと同じで、男性との関係はなかったとされているとか。 
 
 ではなぜ、かぐや姫は無実の罪で、地球に流されてきたのでしょう?

 かぐや姫は、最終的に罪が償われ、清い身となり、地球での役目を終えて、月に帰っていきます。
 つまり、かぐや姫の罪は祓われたのです。
 神社の祭祀の時には必ず「お祓い」すなわち「祓え」が行われます。言いかえれば、「お祓い」のない祭祀は存在しません。
 それは人々が積もり積もった罪や穢れを神様に負わせ、新たな気持ちで生活し、信心するのに必要不可欠だからです。
 その罪や穢れを負った神様はさすらいの旅に出て、遠くに流して下さると考えられてきました。
 さすらいの旅は、人々の心を洗い流します。そのおかげで旅人には「我」がなくなり、最終的には悟りの領域にまで達するのは、多くの先人や経験者の語るところです。
 四国のお遍路さんが「同行二人」という文字を笠に書くのは弘法大師と一緒に旅をするという意味で、大師の後ろを歩くことによって、罪が祓われたのだと考えられるようになったとか。

 そういえば、私は「さすらいの旅」で、ふと気づいたのですが、旅好きの人に、母親との関係が上手くいっていなかった人が多い事です。
 以前、お話した吉永小百合さんも、旅の本を出すなど、旅が好きだと言いますし、私の周りでも、母親との関係が上手くいっていなかった人で旅が好きな人が、何人もいるのです。
 私は母親の子供に寄せる愛情ほど、この世で尊いものはないと思っています。
 その母親に愛されなかったという潜在意識が、愛情を求めて、さすらいの旅に出たくなるのではと、これまで思っていました。
 でも、もしかしたら母親に愛されなかったという悲しさや憎しみを、遠くに捨て去り、祓うという意味もあるのかも知れません・・・

  このように「竹取物語」は、かぐや姫が蘇り、もとの世界に帰るまでの「さすらい=祓え」の旅を記した物語であると、この本には書かれてあり、この説に深く納得した次第でした。


 そうして、かぐや姫は八月十五日、中秋の名月の日に月に帰っていくのですが、その日は一年中で月がもっとも天頂高く、長い時間、見えていて、月の都の人たちが降りてくるのに、これほどふさわしい月夜はないと言っていいでしょう。



 かぐや姫、あなたはなぜ、誰とも結ばれないの?

 そしてなぜ、いつも悲しげに泣いているの?


 それは、私たちの心に巣食う罪や穢れを一身に背負って、遠くに流し、祓うという重大な任務を遂行するためで、私たちが安やかで穏やかな気持ちを得られるようにという意味だったのですね。






 
 
 
 
 
  

高倉健と三島由紀夫と、奥様について

2015-07-06 20:21:54 | 読書
今回は、高倉健さんと、三島由紀夫と、その奥様について書きます。

 去年の11月10日にお亡くなりになった高倉健さんといえば、ご出演された任侠映画を

観終わった観客が映画館を出る時、健さんみたいに肩を怒らせていた人が多かったというの

は超有名なエピソードですよね。
 これはひとえに高倉健さんが、男心に男が惚れる素晴らしい男性だという現れの何よりの

証左だと思います。
 だったら、男の中の男、高倉健さんが認めた男性は当然、素晴らしい人物に決まってます

よね?
 

 アーティストの横尾忠則さんによると、なんでも高倉健さんは、1970年11月25日

に起こった三島事件に触発され、三島由紀夫の映画を製作する予定だったっていうんです!

 具体的プランも煮詰まり、健さんはロスアンゼルスに何度も渡航していて、それを見た横

尾忠則さんは「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さん

の霊が高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じました」と述懐したとか。
 ところが、土壇場で未亡人の了解が得られず映画製作を断念せざるを得なくなった。
 そこで仕方なく健さんは横尾さんに電話して、「多磨霊園に一緒に墓参りしましょう。カ

メラを持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」という事があったそうです。
 
 では、三島由紀夫は高倉健さんをどう思っていたのでしょう?

 三島由紀夫は、健さんの「昭和残侠伝 死んで貰います」を高評価していて、三島事件当

日、市ヶ谷駐屯地に向かう車内で、楯の会のメンバーと、健さんの持ち歌「唐獅子牡丹」を

歌ったそうなのです。

 
 
 また、「平凡パンチの三島由紀夫」を書いた椎根 和さんによると、高速道路を走ってい

る車の中で、椎根さんが、「こういう時は、何か音楽が、BGMがほしいですね」と三島由紀夫

に」問いかけたら、「高倉健の「網走番外地」みたいなやつね」と答えたとか。
 そして、さらに椎根さんが、「あれ?三島さんは鶴田浩二のほうが好きだったんじゃない

ですか?」と聞くと、「うん、歳のことを考えると、学生みたいにストレートに健さんと言

えなくなっちゃった。本当は高倉健のほうが好きなんだ」と喋ったそうです。
 ちなみに、鶴田浩二さんは、三島由紀夫と一か月ほどしか生年月日が離れてなく、高倉健

さんは6歳年下になるようです。 
 
 素晴らしい男同士は惹きつけあう何よりのエピソードですよね♪

 だから、三島由紀夫のファンの男性も、男らしくて素敵な人が多いのですね♪

 ところで、三島由紀夫の割腹自決をした事件の映画が撮れなかった高倉健さんは、198

0年に「動乱」という映画を撮っています。
 それは、三島由紀夫が大好きだったという二・二六事件を扱った映画で、健さんは寡黙な

青年将校である主役を演じています。
 三島由紀夫の映画を撮ろうとしていた健さんが、三島由紀夫が二・二六事件が好きだった

のを知らないはずはないですよね?
 おそらく、健さんは三島由紀夫に捧げるべく、この映画の撮影に臨んだのではないでしょ

うか?

 そして、忘れてならないのは、この映画で健さんの妻を演じた吉永小百合さんです。
 それまで、吉永小百合さんは、ただ何となく、与えられた役を演じていただけだったのが

、健さんの演技にかける凄まじい気迫と情熱で、映画に熱心に取り組む事の大切さを教わっ

たそうなのです。
 
 いい男はいい男を惹きつけるだけでなく、吉永小百合さんのような素敵な女性をも感動さ

せる何よりの証明だと思います♪

ちなみに、私は映画「動乱」を観て、三島由紀夫の二・二六事件を扱った「二・二六事件と

私」と「英霊の聲」も読んでみました。
 映画は、やはり、高倉健さんの気迫と情熱がすごかったです。
 「二・二六事件と私」は、三島由紀夫が11歳の時に事件から受けた印象と、事件の本質

についての三島由紀夫なりの考えが書かれていました。
「英霊の聲」は、事件を起こした青年将校らの霊をなぐさめ、その汚辱をそそぎ、その復権

を試みるつもりで書かれたようですが、それと同時に、(などてすめろぎは人間となりたま

いし)という一文に代表されるように、男性が気高く雄々しく生きるために、絶対者がいか

に必要かと問いかけているのが強く胸に残りました。 


次に、三島由紀夫と奥様との関係にも触れてみますね。
 奥様と、幼いお子さんが二人もいたのに、割腹自決をするなんて、とんでもない。何が何

でも死ぬべきではなかったというご意見があるようですので。
 それに、三島由紀夫はホモだったのではという説もありますしね♪
 最初に、ホモ疑惑について書きますと、私が三島由紀夫の奥さんだと仮定して、相手が女

性だったら、不倫相手に嫉妬するに違いないですが、男性とだったら、本当にうちの主人はホモなんだろうか?もしそうだったら、私への愛情は本当ではないのだろうかと、そっちの方に関心が行き、相手の男性に嫉妬するのはないような気がします。私の体やテクニックに不満があるなら、ほかの女性に走るはずですし。
 そういう意味では、不倫相手が女性でなく、ホモで、かえって良かったと思うかも知れま

せん。(笑) 

 それでは割腹自決についてですが、あの事件を三島由紀夫が起こしたあと、奥様は関係す

る人で、怪我をした一人一人に謝罪してまわったり、総監室の血まみれになったソファー、

カーテン、絨毯、机の補償額600万円をすぐに支払われたそうで、なかなかしっかりした

人だったみたいです。
 それに、三島由紀夫没後、この奥様は数々の関連書籍の出版停止、回収、絶版騒動を起こ

されたそうです。
 関連書籍の騒動は、私の推測では一見、尋常ではない事件を起こしてご主人を亡くされて

いますので、中には誹謗中傷する人も、沢山、いたと思うのです。だから、当時、幼かった

お子さんへの悪しき影響や諸々の懸念から、あのような騒動を起こしたのではないでしょう

か?
 母親にとって大切なのは、わが子の健やかな成長ですから、奥様の行動は、私はよく分か

る気がします。
 だったら、三島由紀夫はあんな事件を起こさなければよかったのにというご質問ですが、

ここで私が、あなたに気づいてほしいのは、三島由紀夫亡き後、奥様が再婚しなかったとい

う点です。
 そして、もう一人、思い起こしてほしいのは、三島事件の起きる7年前に暗殺されたアメリカの大統領ジョン・F・ケネディの奥さんのジャクリーンです。
 ジャクリーンは、大富豪のオナシスと再婚してますよね?
 普通に考えたら、三島由紀夫は自ら死を選んだのだから、奥様が再婚しても誰も文句は言

わないはずなのに、自分の意志とは関係なく、突然、命を奪われたケネディの奥さんのジャ

クリーンの方が再婚するって、おかしいと思いません?

 三島由紀夫にも、ケネディにも、共に幼い二人のお子さんがいたのだから、妻としての境

遇はまったく同じなんです。

 そりゃあ、オナシスは大富豪だから、ジャクリーンはお金に目が眩んだのさという人もい

るかも知れません。


 でも、私はジャクリーンは、ケネディに愛されてたという実感がなかったから、再婚しちゃったのだと思います。

 ケネディの女好きは超有名で、結婚してからも何人もの女性と関係があり、そのなかには

セックス・シンボルと言われたあのマリリン・モンローまでいたんです。
 そのマリリン、1962年のケネディの45歳の誕生日パーティで、体の線も露なドレス

姿で、「ハッピーバースデー・トゥ・ユー」をお色気ムンムンで歌ってるんです。
当時、ジャクリーンはケネディとマリリンが性的関係にあるのを知っていて、誕生日パーテ

ィを欠席しちゃってるんです。
 だから、ケネディが自ら死んだ訳でもないのに、さっさと再婚しちゃった訳。(笑)

 そこへいくと、三島由紀夫の奥様は愛されていた実感があったんです。
 私が、そう感じたのは、「反貞女大学」を読んだ時です。
 あの作品は、女性の読者に宛てて書かれていますが、その底辺に流れる奥様への愛情をひ

しひしと感じずにはいられませんでした。
 それとですね、三島由紀夫は割腹自決するとは、もちろん、奥様にも内緒にしていたので

すが、最後の著書、「豊饒の海」の4巻めのカバー絵を、奥様に依頼して亡くなってるんで

す。
 奥様は有名な画家の娘さんで、絵心もあったのですが、三島はそれまでカバー絵も挿絵も

奥様に頼んだ事はなく、最後の最後で初めて、描くように言ったそうなのです。
 そのカバー絵は、毎年、夏に家族旅行していた伊豆を思い出しながら描かれたのでしょうか


 青々と広がる海の向こうに、小さく船がぽつんと浮かんでいて、その上ににょきにょきと

勢いのある入道雲が浮かんでいる伊豆のホテルから眺めたような海の景色でした。



 その奥様もすでに他界されているのですが、生前、監修された三島由紀夫の写真集「グラ

フィカ 三島由紀夫」の一番、最後の写真を、家族で撮った写真にしているのが、とても印

象的です。
 夫と一緒に撮った写真もあるはずなのに、三島は自邸の一階で、奥様と二人のお子さんは

二階のベランダにいます。

 そうして離れて写っていますけど、写真を注意深く見ると、三島由紀夫も奥様も二人のお

子さんもみな、カメラのレンズという一点を見つめているのです。
 私には、それが生と死が、私達を隔ててしまったけれど、私達、家族の思いはひとつ、絆

は決して、離すことは出来ないと言っているように思えてならないのです・・・

 
 そういう事で、今回は三島由紀夫がいかに男らしくて、奥様を愛し、愛されていたかを書

きました。

 あなたは、これらのエピソード、どう思われたでしょうか?