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紫式部日記

2017-06-21 12:25:09 | 源氏物語
私が、「紫式部日記」を読みたいと思った動機は「源氏物語」の作者という点に引かれてでした。
千年も前に書かれていながら、決して古びることなく、現在に至るまで読み継がれている。
そして、与謝野晶子、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴といった一流の作家が現代語訳に挑戦している。

それほどの作品を書いた人なら、どんな日記をつけていたのか興味を覚えずにはいられなかったのです。
そしてまた「紫式部日記」には、紫式部と同時代に生きた「枕草子」の作者、清少納言の悪口が書かれているのは有名な話です。
それが、どのように書かれているかも気になってなりませんでした。
実際、「紫式部日記」を読んだという人には、その辺りに興味がある人が多いようです。
和泉式部についても批判的なことが書いてあるのですが、清少納言の比ではないようです。

ところが、清少納言や和泉式部を批判した文章には続きがあるのです。
そこまで読んでみないと、紫式部の真意を推し測るのは到底、無理のように思います。
では、清少納言を、どう書いているのか。
それから、ご紹介してみます。

現代語訳 中野幸一

清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ればまだひどくたりない点がたくさんあります。
このように人より特別に優れようと思い、またそうふるまいたがる人は、きっと後には見劣りがし、ゆくゆくは悪くばっかりなってゆくものですから、いつも風流ぶっていてそれが身についてしまった人は、まったく寂しくつまらないときでも、しみじみと感動しているようにふるまい、興あることも見逃さないようにしているうちに、しぜんとよくない浮薄な態度にもなるのでしょう。そういう浮薄なたちになってしまった人の果てが、どうしてよいでありましょう。


う~ん、なるほど、確かに、これはこてんぱんに清少納言をやっつけてますね。
しかも、これではろくな死に方が出来るはずがないとまで書いていて、まさに徹底的と言っていいでしょう。

ところが、このあと、こんな文章が続くのです。

このようにあれこれにつけても、何一つ思い出となるようなこともなくて過ごしてきました私が、ことに夫を亡くして将来の頼みもないのは、ほんとうに思い慰める方法すらもありませんが、しかし寂しさのあまり心構えすさんで自棄的なふるまいをする身だとだけは、せめて思いますまい。が、そんなすさんだ気持ちがやはりなくならないのか、物思いのまさる秋の夜なども、縁近くに出てすわって月をぼんやり眺めていると、いっそう、あの月が昔の盛りのわが身をほめてくれた月だったのだろうかと、まるで眼前の光景を誘いおこすように思われます。世間の人が忌むといいます鳥もきっと渡ってくることだろうとはばかられて、思わず奥の方に引っ込んではみるものの、やはり心の中では次から次へとおのずからものを思い続けているのです。


つまり、はじめは和泉式部や清少納言を批判はしていたけれど、あとになると自分の人生を振り返り、寂しい胸のうちを吐露する文章へと続くのです。

これが、何を意味するのか、国文学者の中野幸一氏はこう解説しています。

正月の戴餅の儀に臨席した女房の服装の描写から人物批評に転じ、やがて斎院方と中宮方の比較となり、さらに和泉式部・赤染衛門・清少納言の当代三才媛を鋭く批評し、続いて筆はみずからのうえに回帰して自己の人生を回想し、鋭く深い内省と批判を加えつつ、孤独な重い思索に沈んでいく。その自己凝視のおそろしいまでのきびしさは、嗜虐とも思えるほどの苛酷さで自己を荒涼とした絶望の淵へ追い込んでいき、ついには仏道への救いを求めるのであるが、またもや、そこで俗世を離れ得ずに悩み続ける人間の宿命的な姿を見いだして苦しむのである。このような精神の苦悶の遍歴は、そのまま『源氏物語』において実験的に追求されている過程であり、この飽くことなく真実を模索し続ける心、ひたむきな人間探求の精神こそ、『源氏物語』を生み出した作家の精神そのものと思われる。


ということは、はじめのうちこそ、和泉式部や清少納言を批判していたけれど、次第にその矛先は自分に向かい、苦しみながらも、どう生きるかを考えるため、真実を求め続けていったと解釈していいのではないでしょうか。


やっぱり、ただ清少納言の悪口を書きたかっただけではなかったのですね。
紫式部の精神構造は複雑で、とても深いです。

それでは、紫式部日記は清少納言に関することのほかに、何が書いてあるのでしょう。
紫式部日記は大きく分けて、二つに区切ることが出来ます。

一つは前述した清少納言の記述に現されるように、自己の感懐を述べた随想的部分ですが、行事や盛儀を描写した記録的部分もあり、実はこちらから日記は始まります。
これは、約千年前の時代の日記を読むための導入方法として、最適のように思われます。
最初に、宮廷での行事や盛儀の様子が、紫式部の目を通して、まるで眼前に繰り広げられているかのように鮮やかに書かれてあるので、無理なく、紫式部日記の世界に没入していけます。

以下、中野幸一氏の解説より。

しかし、そうした華やかな様子を活写しながらも、その色調は憂愁の色濃い内省と煩悶がにじみ出し、外界の華麗と内面の憂愁との相克による内省の深化が、この日記の作者の精神の基調をなしているようで、それは冒頭の一説にも象徴的に表れている。
すなわち、「秋のけはひ入り立つままに・・・」と、秋色立ちこめる土御門邸の夕景に筆を起こした流麗な一文は、その広大な邸内に間断なく響きわたる荘厳な不断経の声々を写し、お産にいたずくあえかにも美しい彰子中宮のご様子を讚美しつつも、一方ではいつもの憂鬱な心とはうらはらに、その荘厳な雰囲気にいつしか引き込まれていく自分の心を見いだして、「かつはあやし」といぶからずにはおれないのである。ここには華麗な現象の渦中に巻き込まれていく自分の姿を批判的に眺めているもう一人の自分がいる。この現象に従う心情と、それを客観視する理性との共存は、式部の精神構造の一つの特徴であり、このいわば複眼的な物の見方は、そのまま『源氏物語』の作者としての眼にも通ずるものと思われる。


もともと、紫式部は内気で、人前に出るのはあまり好きではなかったようです。
ところが、紫式部の「源氏物語」を読み、文才を知った藤原道長が、わが娘の後宮を彩るべく、中宮サロンへしつこく勧誘した。
紫式部としては、今をときめく道長ではあるし、父の官途を思い、自らの境遇を顧みて、出仕を承諾したのでしょう。また、文藻豊かな中宮サロンへの密かな憧憬もあったことでしょう。
宮使え当初は中宮や他の女房たちから、自信ありげにとりすましていて親しみにくい人だと思われていた節もあったようですが、それはひとえに生来の引っ込み思案の性格と宮使え嫌悪感に加えて、文才についての前評判が災いしたと考えられているようです。
しかし、日記に記された頃の紫式部の宮使えぶりを見ると、消極的ではあるが人嫌いではなく、気心の知れた朋輩とは結構楽しく付き合い、中宮や道長などには特別に扱われ、上達部や女房たちも粗略には扱ってないようです。
また、紫式部の文才が周囲に認められたことにより、自信も得たでありましょう。
だから、彼女の宮使えはそれほど憂く辛いものではなかったはずです。
にもかかわらず、日記全体には宮使え嫌悪感がそこかしこに感じられ、これをどう理解すべきなのでしょう。
それはおそらく、若い頃に経験した宮使えのあまりよくない印象を核とした、社会の裏面や谷間をも見過ごさぬ作家精神のなせるわざではないでしょうか。
自らの幸よりも他人の不幸や社会の矛盾を鋭く感受し、それを吸収回帰することによって自らの幸を打ち消し、陰の部分を助長するような作用が、紫式部の精神の中でたえず反芻された結果、このような日記が生まれたと解釈されているようです。
中野幸一氏の解説より。



この紫式部日記と
それに付随する中野幸一氏の解説を読むと、『源氏物語』の中の紫の上や朧月夜、女三ノ宮、六条御息所、夕顔、明石の君ら、何人ものお姫さまの辿った運命が次々に思い起こされて、しばし、感慨に耽ってしまいました。