ヨナの福音こばなし帳

オリジナルのショート・ストーリー。一週間で一話完結。週末には、そのストーリーから人生の知恵をまじめにウンチクります。

欲しがり屋のヒヨコ(3)

2007-02-28 | 欲しがり屋のヒヨコ/ 続・放蕩息子 
またヒヨコが散歩をしていると、池にやってきました。ヒヨコは、泳ぐことができません。それで、しばらく池を眺めていました。

すると、突然、池の中から、一羽の鳥が姿を現しました。そして、スイスイ、水の上を、すべるように進んでいます。

ヒヨコは、それまで、鳥が水の上を歩くなんて、考えたこともありませんでした。それで、ヒヨコは、思い切って、たずねることにしました。

「すみません。あの、ぼく、ヒヨコです。あなたは、どうして、水の中に潜ったり、水の上を歩いたりできるのでしょうか。どうなっているのでしょう。教えてください」

すると、その鳥は、向きを変えて、ヒヨコの方にやってきました。そして、ピョンと、水から飛び出て、ヒヨコの前に立ちました。

「こんにちわ、ヒヨコちゃん。僕の泳ぎを気に入ってくれてありがとう。あなたは、生まれたばかりで、何も知らないんだな。僕は、カモ。ほら、ここに水かきがあるから、自由に潜ったり進んだりできるのさ」

そう言うと、カモは、また水の中に飛び込んで、しばらく消えたかと思うと、ずっと向こうで姿を現して、スイスイ水の上を進んで行ってしまいました。


ヒヨコは思いました。

「ぼくもあんな、スイスイ進める水かきが欲しいな」

それで神様にお願いしました。神様は、ヒヨコにカモの水かきを与えてくれました。

(つづく)


欲しがり屋のヒヨコ(2)

2007-02-27 | 欲しがり屋のヒヨコ/ 続・放蕩息子 
またヒヨコが散歩をしていると、目の前に、突然、それはそれは美しい壁が現れました。ヒヨコは、その壁のほうに、どんどん近づいて行きました。

確かに壁の前まで来たのですが、それがいったい何なのか、よくわかりません。それで、ヒヨコは、思い切って、たずねることにしました。

「すみません。あの、ぼく、ヒヨコです。この美しい壁は、何でしょうか。どうなっているのでしょう。教えてください」

すると、突然、今度はその壁がなくなりました。そして、一羽のクジャクが姿を現しました。頭には、あの美しい壁と同じ模様の冠をかぶっていました。

「こんにちわ、ヒヨコちゃん。僕の羽を気に入ってくれてありがとう。あなたは、生まれたばかりで、何も知らないんだな。僕は、クジャク。こうして羽を広げると、ほら、美しい壁ができるのさ」

そう言うと、クジャクは、また壁をたたんで、お辞儀をしたかと思うと、優雅に歩いて行ってしまいました。頭には、やっぱりあの美しい冠がありました。


ヒヨコは思いました。

「ぼくもあんな、美しい壁ができる羽と、それに冠が欲しいな」

それで神様にお願いしました。神様は、ヒヨコにクジャクの羽と冠を与えてくれました。

(つづく)


欲しがり屋のヒヨコ(1)

2007-02-26 | 欲しがり屋のヒヨコ/ 続・放蕩息子 
あるところに、卵からかえったばかりのヒヨコがいました。ヒヨコは、見るもの、聞くもの、何でも珍しくてしかたありませんでした。そして、困ったことに、ヒヨコは、欲しがり屋だったのです。

ヒヨコが散歩をしていると、どこからともなく、とても美しい調べが聞こえてきました。ヒヨコは、その音のするほうに、どんどん歩いて行きました。

確かに音の近くに来ているのですが、それがどこから流れてくるのか、わかりません。それで、ヒヨコは、思い切って、たずねることにしました。

「すみません。あの、ぼく、ヒヨコです。この美しい調べは、何でしょうか。どこから流れてくるのでしょう。教えてください」

すると、その音は、止まりました。そして、一羽のカナリヤが姿を現しました。

「こんにちわ、ヒヨコちゃん。私の歌を気に入ってくれてありがとう。あなたは、生まれたばかりで、何も知らないのね。私は、カナリヤ。いつもこうして、歌っているの」

そう言うと、カナリヤは、また飛んで行ってしまいました。そして、どこからか、またあの美しい調べが聞こえてきました。


ヒヨコは思いました。

「ぼくもあんな、美しい歌声が欲しいな」

それで神様にお願いしました。神様は、ヒヨコにカナリヤの声を与えてくれました。

(つづく)


5つの指摘(6)ウンチク編

2007-02-25 | 親切なお医者さん/ 5つの指摘
今週は、丸ごと、ウンチク編みたいなもんでしたが、もうちょっと続きます。

今回紹介したものに限らず、聖書を否定するさまざまな文章は数限りなくあります。パッと見は、聖書を肯定しているようで、その実、本質的には聖書を否定しているものも、いっぱい出回っています。

なんとなく、ボーっと、よく考えないで、かじる程度に・・・読んでいくと、「おー、な~るほど」と納得してしまうものでも、じっくり読んでみると、巧妙に論理がずらしてあるものがたくさんあります。今回紹介したものは、そのひとつです。

そこにある危険は、一旦、「おー、な~るほど」と納得してしまうと、その後、いくらじっくり読んでも、論理のエラーやトリックに気がつかなくなることです。また、他の人から、その論理のエラーやトリックについて説明されても、ほとんど受け付けなくなります。

聖書を否定する文章を読むとき、さらには聖書を肯定する文章を読むとき、そして聖書を読むときにも、鵜呑みにしないで、じっくり考えながら、読んでください。今回紹介したもののように、巧妙に論理がずらしてあるものもあれば、一見矛盾しているようで実は一貫しているものもあります。じっくり考えて読まなければ、正しく理解することはできないですよね。


皆さんの時間の節約のために、お伝えします。いろいろな人の意見をたくさん聞いて、そのなかで最も良さそうなものを、自分の人生の指針にしよう、と考えているなら、聖書を学ぶことは早く止めたほうが良いですよ。なぜなら、日本人の中で、聖書を神様のことばとして、自分の人生をかけて生きている人なんて、せいぜいいても0.5%くらいだからです。あとの、99.5%くらいの日本人は、「う~ん、聖書ね、いいこと書いてあるね。でも、僕の考えでは・・」、「聖書?だから?」、「あんなモンがあるから、世の中悪くなる」などなどなど、ですから。


真理は、だれに対しても真理のはずです。時代が変わったり、場所が違っても、真理であるなら、真理としての価値が失われたり、変わったりしません。

世界中に、多くの言語グループがあり、それぞれが異なった独自の文化を持ち、場合によってはまったく相反する世界観を持っている民族どおしがありながら、そのなかで、民族を超え、時代を超えて、聖書が真理として受け入れられ、聖書を通してそこに神のわざと呼ぶほかない共通した出来事が人々の上にいつもあることは、とても興味深い事実です。


「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。・・
 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。
 その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」
(ヨハネの福音書 3章19-21節)

「真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネの福音書 8章32節)


次回からは、いつもの、新しいストーリーです。アクセスしてくださいね。


5つの指摘(5)

2007-02-24 | 親切なお医者さん/ 5つの指摘
[指摘5]
聖書の解釈をめぐって多数の宗派が生まれた。が、聖書自体が多くの間違いと人工的教え、比喩によって出来上がっているものである以上、その文字づらの解釈(神学)だけに走れば、また新たな矛盾・問題を生み出すだけである。もともと矛盾だらけの聖書を、いくら論理的に解釈しようとしても無意味なことである。


[検証5]
これは、言い換えれば、「多くの教派があり、その間に対立や衝突があるのは、信仰の基盤である聖書に矛盾があることからして当然だ」という指摘でしょう。

少しキリスト教(プロテスタント)のことを知っている人なら、多くの教派があることは、ご存知だと思います。そして、もう少しよく知っている人は、教派の間に、神学上の対立や衝突があることを聞いたことがあるでしょう。そこへ、「それは、信仰の基盤である聖書に矛盾があることからして、当然だ」、「教派間に神学上の対立、衝突があることこそ、聖書が真理ではないことの表れだ」と言われると、「う~ん、なるほど」と思うでしょうね。でも、それは、聖書を信じさせないためのトリックです。

キリスト教界から誤解されることを恐れずに書けば、教派の間にある神学上の対立や衝突の原因は、それぞれが「独自の神学」を作り上げるところにあります。それぞれが聖書そのものだけに立ち、聖書どおりを行っていけば、現在見るような、対立や衝突はないでしょう。

教派は、ある面、家族・親戚みたいなものですから、人がいて人が増えれば、出来上がってくるのが自然なことのように思います。いくつ教派があっても、仲良くやっていれば、問題ないわけです。また、聖書を学んでいけば、それを自分なりにまとめるのも自然のことと思います。そのようにして築き上げられてきた神学は、それとして価値のあるものです。

教派としての伝統や様式が形成されていく中で、聖書にない様式が加えられたり、聖書が語っているにもかかわらず、現代にはないと言ってみたり、無視したりすることが起こります。そして、それを肯定する、「独自の神学」ができあがります。こういう部分が、教派の間にある神学上の対立や衝突として、表面化してきます。

聖書に矛盾があるから、教派間に神学上の対立、衝突があるのではありません。その彼らの指摘は誤りです。「独自の神学」を作り上げるところに原因があります。それぞれが聖書そのものだけに立ち、聖書どおりを行ってさえいれば、教派間の対立や衝突は起こらないはずです。まさに、聖書が真理であることを表しています。


「いや、聖書自体に多くの間違いがあるから、それぞれの教派が、独自の神学を作り出すのだ」と言いたい人があるかもしれません。

スポーツで考えてみましょう。どんなスポーツにも明確なルールがあります。ところが、自分たちを有利にするために、自分たちが得点を得るために、ルールにないことをしたり、ルールを無視したりする人たちがいますね。でも、それは、ルール自体に間違いがあるからではありません。ルールどおりに行わない人たちがいる、というだけのことです。ルールがどんなに正しくても、どんなにしっかりしていても、ルールどおりに行わない人たちがいれば問題が起こります。ですから、「聖書自体に多くの間違いがあるから、それぞれの教派が、独自の神学を作り出すのだ」というのは、まったく的を得ない指摘です。

(次回は、これらのことに関連して、人生の知恵をまじめにウンチクります。)