いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(141)「かぎりなき愛」

2014年02月18日 | 聖書からのメッセージ
 エレミヤ書31章1節から6節までを朗読。

 3節に「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」。
 私どもの住んでいる日本の社会は、神々に満ちた国、「神国」であると言われます。私たちの生活の隅々各所に神と称するものがたくさんあります。私は以前信州に旅をしたことがありますが、非常に根強い仏教信仰の地域です。そればかりでなく、土着の信仰もあって、田んぼのあぜ道のあちらこちらに道祖神が祀(まつ)られている。見ていると、通りがかりの人たちが、そこに立ち止まって会釈をしていく。私は非常に感心して宗教心が篤(あつ)い国だな、と思いました。八百万(はっぴゃくまん)という八百万(やおよろず)の神々と言われるほどですから、多種多様な神々がいて、それぞれ専門領域がある。商売繁盛、交通安全、学業成績優秀、それから病気治癒、ありとあらゆる人間の悩み事、よろず相談のデパートのようなものです。実に恵まれた日本ではないかと思いますが、考えてみると、神様がそのように区分けされる、切り分けられて、あるいは専門化されて、これは私の領域だけれども、それ以外はできない、という神様がいたとしたら、これはあまり信用ならない、信じても意味がないと思う。しかし、案外そうでもないようで、人は一生懸命にそのようなものにすがろうとする。

ところが、聖書で証詞している真(まこと)の神様は目には見えません。また、何か祠(ほこら)やお社(やしろ)の中に住むような神様ではない。大宇宙の創造者であり、私たち一人一人の造り主でいらっしゃる神様は、私たちに対して何とおっしゃるか? 3節に「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」。「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」という、この言葉だけを、今日帰ってご主人に言ってご覧なさい。大喜びしますよ。あるいは子供や息子に「私は限りなき愛をもってあなたを愛している」と一言つぶやいてご覧なさい。即座に態度が変わり、親孝行になりますよ。この言葉は本当に素晴らしい。ところが、誰が? 誰に対して?と考えてみたら驚くべきことです。 「わたし」と言っているのは、まさに大宇宙の創造者である神様です。神様が、造られた被造物である私たちを「限りなき愛をもって」、言葉で言い尽くせない、計り知ることのできない大きな愛をもって、「あなたを」と言うのです。「あなたがた」なんていう大雑把な言い方ではない。「あなたを愛している」と。世の中に神様がたくさんいるといっても、日本では八百万、世界を合わせたら何億になるのか分かりませんが、その中で、「わたしはあなたを愛しているよ」と言っている神様がいるでしょうか? 誰もいません。聖書に証詞された真の神様だけが、私たちに向かって「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」と言われる。これは驚くべきことです。またとないことです。私どもは、いつも教会に来て「神は愛なり」と、「神様は愛です」と聞いていますから、当たり前のように思っていますが、とんでもないことです。本来、神様は被造物である私たちを愛するなどという関係にはなり得ない。神様は私たちを、「限りなき愛をもって」、愛する対象として造ってくださった。創世記の最初に、人が造られたときの事が記されています。神様は私たち人間を尊いご自分のかたちにかたどって造ってくださったのです。それは私たちを愛する対象としてくださるためです。私たちを大切なものとして、神様の掛替えのない存在として愛するために、あえて私たち一人一人を、造り主である神様の尊いかたちにかたどって造ってくださいました。今私たちがどんなに神様のかたち、神様の性質とは縁遠い、遠く離れた現実があったとしても、神様の目には、私たち一人一人が尊いものとして、掛替えのないものとして、愛の対象として造られた存在であることを知っていただきたい。だから、ここに「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」。私たちは愛されているのです。

子供は自立を始めるころになると「親は自分を愛していないのではないか」という疑いを持ち始めます。皆さんもかつてはそのような経験をなさったと思います。小学生くらいまではお父さんやお母さんは自分を一番愛していると思っている。ところが、だんだんと要求が大きくなってくる。中学生、高校生になってくると、親が自分の言うとおりにしてくれない。なんだか親は私を愛していないのではないか。私はひょっとしたらもらわれてきた子供かな? と、そのようなひがみ根性に変わってきます。それで「私は親から愛されていない」などと言うようになる。親に聞いてみると、そんなはずはない。他の子と同じように愛してやまない。しかし、愛を感じられないから、親子の関係がなかなかうまくいかない。

私たちと神様の関係もそうです。神様がそんなに私たちを愛してくださっているのに、その愛を感じないものですから、さみしい思いをする。また、とんでもない道を外した生き方をしてしまう。別のものに愛を求めていくのです。だから、私どもは神様がどんなに愛してくださっているかを知ることは、人生を生きる上で大切な事ではないかと思います。

3節に「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」。しかも「真実をつくして」とあります。愛するといっても、打算やあるいは何か裏があって、こんなことをしたらこのような報いをと、見返りを求める愛は、人の世の中にあります。私たちの愛だってそうかもしれません。人の考える愛は、無償の愛ではありませんね。いくら親が子供を愛すると言っても、これはかぎりがあります。神様は私たちに対して「限りない愛」、しかも「真実」な愛、何一つ打算のない心、純粋な思いをもって、愛してくださっている。どうでしょうか? 私たちは神様から愛されていると自覚しているでしょうか。神様が私を誰よりも、どんなものよりも掛替えのないものとして、愛してくださっていると信じる。これが実はキリスト教の信仰の中心です。自分が神様から愛されている存在と認める。それではじめて人は「人たり得る」といいますか、人としての生き方が始まるのです。そうでない限り、私たちは本当の愛に触れることができません。男女の愛であるとか、友情であるとか、親子の愛であるとか、人の世にさまざまな形の「愛」と言われるものがあります。しかし、今申し上げましたように、それは必ず限界があります。どうしても行き詰る。そうでしょう?若いとき、愛し、愛されて結婚して、十年、二十年、五十年、だんだんとその愛も冷え、どこにあるのか。人の愛はどうしてもそうなるのです。神様は、私たちが死ぬまで、あるいは死んでから先までも、愛してやまない方、愛をもって顧みてくださるのです。ところが、私たちは、どこかで「本当に神様は私を愛してくださっているのかしら? 」と疑っている。

マラキ書1章1節から5節までを朗読。

2節に「主は言われる、『わたしはあなたがたを愛した』と。ところがあなたがたは言う、『あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか』」。これはイスラエルに対する神様の言葉です。神様は、イスラエルの民を愛する民としてくださいました。イスラエルの民を特別に愛したのは、神様のみこころを現す一つの実例、見本として、イスラエル民族を選ばれたのです。イスラエルの歴史を通して、神様がどんなに真実な愛と恵み豊かな方であるかを証詞する、一つの証拠として、その民を通してこのようにすべての人を愛しているよと証詞する、宣伝するためでした。アブラハムを選んで、その子孫イサク、ヤコブ、そして延々と長い年月にわたって、神様はイスラエルの民を顧(かえり)みてくださいました。ところが、イスラエルの民は神様から愛されている自覚が足らなかったのです。イスラエルの民は、ヤコブの時代にエジプトに移り住んで、エジプトの国で奴隷の生涯を送りました。四百数十年の長い間の苦しみの中から、神様は彼らを救って、モーセを立てカナンの地、約束の地へと導き入れてくださいました。神様がいろいろな中を絶えずイスラエルの民と共にいて、恵んでくださいました。それでもなお、彼らは神様が自分を愛してくださっていると思っていません。モーセに率いられてカナンの地を目指して荒野の旅路を行く途中も、水がないと言ってはつぶやく。食べ物が少ないと言ってはつぶやく。肉が食べたいと言ってはつぶやく。ありとあらゆる事で彼らは不平不満を言い募(つの)ります。しかし、神様はそれでもイスラエルの民を愛するがゆえに見捨てることをなさいません。「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」(ヨハネ福6:37元訳)と、神様はどんなにつぶやこうと逆らおうと、あるいは敵対しようと、彼らを捨てないで、持ち運んでくださっています。

それは私たちに対する神様の証詞です。私たちがどんな状態であろうと、どんなことをしようと、神様は「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」と、神の民として選んでくださった私たちを見捨てないでいる。そればかりでなく、最後の最後まで、神様の御国に入るそのときまで、私たちを必ず持ち運ぶことを証詞するために、旧約聖書で具体的な歴史を通して神様は語っているのです。今読みましたように、「『わたしはあなたがたを愛した』と。ところがあなたがたは言う、『あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか』」。申命記をお読みになられると分かりますように、イスラエルの民は四十年の長い荒野の旅路でありましたが、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(8:4)と、食べるものにも事欠くことなく、神様は彼らに目を留めてくださって、持ち運んでくださいました。それなのに彼らは「どんなふうに、われわれを愛されたか」とつぶやく。それに対して神様は「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」。イサクの子供にエサウとヤコブという二人の子供がいました。本来お兄さんのエサウがイスラエルの血筋を継ぐ、家督を継ぐ存在であった。ところが、神様は弟のヤコブを選んで、ヤコブの末、ヤコブの子孫をイスラエルとしてくださった。私はいつも、神様はどうしてこのようなことをなさるのかな、と思います。それにはいろいろな理由があるのでしょうが、ここに言われている事は、神様の選びが、単なる血筋であるとか、あるいは仕来りや習慣でこの者が継ぐのだということによるのではなく、そのようなものを越えて、神様のみこころによる一方的な選びと召し、神様が目を留めて一人一人を選んで愛していることを証詞するために、あえてこのように長男ではなくて次男であるヤコブを選んでくださったのです。それは神様があなたを愛していることを証詞したのだと。私どももこうしてイエス様を信じることができ、神様を信頼する者へと信仰生涯へ導き入れられました。考えてみますと、なぜ私だろうか? どうしてほかの人ではなくて私なのだろうか、と思います。しかし、それは家の宗教だからそうなったとか、あるいはこの人は当然そうなるべきだと、世の中の仕来りや習慣、そのような制度で成り立ったのではなく、実は神様が一人一人に目をかけて、皆さんのことを知ってくださって、愛して、あなたを大切だからと思うからこそ、あえて選んでくださった。だから、私たちは神様から選ばれた者であります。だからといって、どこにも取柄はありません。値打ちはありません。コリント人への手紙にありますように、神様は「無きに等しい者」、「愚かな者」、そのような者をあえて選んでくださいました。それは、私たちが神様の愛の中に選ばれた者であることを証明するためです。

アブラハムという人がイスラエルの父祖となりましたが、では、アブラハムは何故(なにゆえ)に選ばれたのか。何か神様に選ばれるべき特徴があったのか。例えば皆さんご存じのように、ノアという人がいますね。箱舟を造ったノアです。彼が箱舟を造るために選ばれたのには理由があった。彼はその時代で最も正しい人であって、神様の前に忠実に歩んでいた、とあります。だから、ノアを選んでくださったのは、よく分かる。ところが、アブラハムはどこにもそのようなことは記されていません。アブラハムはその時代の中で一番神様を愛していたとか、信仰深い人、あるいは慈善家であって、世の人々から信望厚く尊敬される人であったなんて、どこにも書いてない。ただ「時に主はアブラハムに言われた」と一言だけです。しかもアブラハムの氏素性を調べてみますと、カルデヤのウルの出身でハランの地に住んでいたとあるだけです。しかも、ウルの町は偶像の神々に満ちていたとも言われています。ですから、神様が私たちを選んで召してくださるのは、ただ一方的な神様の御愛によるのです。今私たちがイエス様を信じる者にしていただいたのは、ただひとえに神様が私を愛してくださった、皆さんを愛してくださったからです。

私は神様の御愛を知ることができたとき、どんなにうれしかったか分かりません。私は牧師の家庭に生まれましたから、物心ついたときから神様のことは知っていました。またお祈りもできるように教えられました。初めから身についていました。だから、自分は神様を信じているのだと思っていました。ところが、神様を信じているのですが、イエス様がどうして必要なのだろうか、それがちょっと分からない。神様は分かるのです。“苦しいときの神頼み”で、とにかくいろいろなことをお祈りして神様に聞いていただく。学校に行っているころは、試験の前になったら一生懸命にお祈りをする。済んだら忘れてしまいますが、自分の都合のよいように神様に信頼する。神様はお祈りをしたら答えてくださる。神様に祈ったとき、自分の心がどんなに穏やかになるか、安心が与えられるかも体験しました。だから、神様はよく分かるのです。しかし、どうしてもイエス様が分からない。やがて、私は大学へ入りまして家を出ました。自分で生活を始めたのです。

そのような生活をしているとき、大学四年生のとき、いわゆる学園紛争が始まった。東大の医学部紛争から始まって、日大闘争になり、東京辺りでも青山だとか関東学院だとか、主にキリスト教系の大学が紛争に巻き込まれ、それから関西へ渡ってきまして、私のおりました学校がそうなりました。ちょうど授業料値上げをきっかけに学内が大騒動になりまして、いわゆる全共闘という学生組織ができました。学生がバリケードをして大学を封鎖する。どうも大学のやっていることはおかしいぞ、権威主義だ、そのような事を言う。正義を求める、義を求めると。そのとおり、私はそのような主張に共感をする。なるほど、そのとおりだ、言うとおりだと。私もちょっと尻馬に乗って後ろについて回る。学長を詰問したり、何時間も大衆団交というのをやったのです。私も尻馬に乗って「そうだ!そうだ!」と「学長が悪い!」「あいつが悪い!こいつが悪い!」とやっていたのです。そのようなことをやって、胸のつかえはスッとおさまります。「してやったり」と思う。それまでいつも自分は正しい人間だ。神様を信じている。神様を知っている私は正しい人間だと。世の中を見て「あいつは駄目」、「こいつは駄目」、「あんなことをしているからあいつは駄目だ」と、いつも批判して、裁く心でいます。だから、外へ出てもいつも人から自分はどのように言われるだろうか、どのように見られているだろうか。年中そのような思いがありますから、心が休まらない。そこへもってきて、自分の心情に合う学生紛争が始まりました。正義を振り回すのですから、これに勝るものはない。自分も正義漢ですから、やっつけようと。そうしていたときにやはり疲れるのです。四畳半一間の下宿部屋に戻ってきて静まっていると、何かむなしい。人を非難するとき、そのときは激しい憎しみがありますから、生きがいを感じる。ところが、そのような自分に対して、異常に落ち込むのです。自分はまじめな人間だから、その辺のほかの学生とは違う。遊ぶことはしない酒もタバコものまないし、マージャンもしないし、勉強一筋で「あいつは悪い」、「こいつは悪い」と非難していました。まるでハリネズミのようにですね。自称まじめ人間ですから、毎日聖書はきちっと読んで、お祈りもしていますが、心の平安がありません。そのとき、聖書を読んでいたのですが、それは「ルカによる福音書」のイエス様が十字架にかけられるとき、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(23:34)と祈っている箇所でした。イエス様の十字架は知っていました。「父よ、彼らを赦し給へ」と祈っているのも知っていました。ところが、そのときまで、私は「彼らを赦し給へ」というのは、「そうだ!そうだ!私が許さなければいけないのだ」。神様に私が執り成してやらなければ、あいつらは滅びだと。だから「彼らを赦し給へ」という言葉は、自分がイエス様と同じ位置から人に向かって言う言葉として理解していた。それまで、そのように「ああ、そうだ!あいつらは本当に滅びだ!神様に赦してもらわなければ困るじゃないか!」と思っていた。ところが、そのとき初めて「父よ、彼らを赦し給へ」の「彼ら」は人ではない、「自分なのだ!」、私こそが神様に赦されなければならない。いや、既にイエス様が十字架に私の罪のために死んでくださって、「父よ、彼らを赦し給へ」と執り成して下さっている。だから、今日も滅びに遭うことなく、神様の憐れみを受け、恵みにあずかって、このように大学で勉強させていただいているのだ。そのことを知ったときに、自分が正しいと思っていましたが、そうではない。自分こそが、イエス様が「父よ、彼らを赦し給へ」と祈ってくださった「彼ら」の一人である。実は、イエス様がいらっしゃらなければ、私は到底神様の前に立ち得ない。人を非難し、人を裁き、そして人をのろって、自分は正しいとしている私こそが、一番の罪の塊である。そのとき初めて「そうでした!イエス様あなたが救い主です」ということをはっきり知った。それまでは、神様は信じていた。神様だけを信じている人は、人を裁くのです。自分が神に成り代わろうとする。神の側に立つ。私がそうでした。ところが、イエス様がいらっしゃって罪を赦され、神様の前に義としていただける。私が義ではなくて、ただ義なる方、イエス様が私のために命を捨ててくださった。そのイエス様を誰が遣わしてくださったか?私のためにひとり子であるイエス様、神なる方が人となって、私たちのうちに宿ってくださった。そればかりか、私の罪のために死んでくださったのです。

そのときまで、鎧や兜をカチッと着て「誰からも非難されず、私は正しいのだ!」と突っ張っていましたから、自分の部屋から出ると、人が気になって仕方がない。人が何と言うだろうか、人が何と見ているだろうかと、それで雁字搦めになっていた。ところが、「そうだ。イエス様が私のために死んで赦してくださった」と信じたとき、自分の力がガラッと抜けたのです。突っ張りが消えた。自分こそが一番の罪の塊、そのような私のために、十字架の痛み、苦しみをイエス様が受けてくださった。私が受けるべきのろいをイエス様が負ってくださった。今、私は赦されて生きている者である。赦されなければ生きられないのだと、そのとき感じました。それから、私の生活は変わりました。神様がこのような者を愛してくださる、その主に従っていきたい。それからはあまり人の事が気にならなくなった。あるいは自分の事も、あれこれ失望落胆しなくなった。

神様の前に、「私が悪い」以外にないのです。その私のために、イエス様は「父よ、彼らを赦し給へ」と祈ってくださる。「彼ら」というのは私なのです。それまでは、「彼ら」というのは、あの人、この人でした。どうでしょうか? 皆さんもどちらかというと「あの人、この人を許してやってください。私は大丈夫」と思っているなら、大間違いです。私こそが赦されて今日ある。これは大きいですよ。だから、私が何かできるとしたら、それは私ではなくて、神様が赦して生かし、させてくださっているから、生きているのです。ここに立ちますと、人生がガラッと変わります。世の中が変わります。ばら色になります。私はそれから本当にうれしくなりました。それでもまだはっきりと神様の御愛を知ったとは言えません。それから後の生活、神様は祈りに答えて、自分の思うように願うように、それ以上の恵みをもって答えてくださいました。

 ところが、23年前のことですが、神様は私に問いかけてくださいました。そのころは大学に勤めておりました。ちょうど12月の終わりのころで、次の4月から始まる準備のために、毎年心が弾むときですが、その年はどういう訳かちっとも面白くないし、心が弾まない。そればかりか、だんだんと年末が迫ってくる。28,29,30日と心が落ちつかなくなる。神様が臨んでくださったのです。揺さぶってくださいました。お前はそれでいいのか? 「お前はそれでいいのか? 」と問われる。何が悪いのだろうか? 私はこのように大学の仕事もあるし、あれもしたいしこれもしたい。これからの夢もある。いろいろと自分なりに思い描いた人生がありました。しかも、別に教会に行っていないわけではない。いや、それどころか誰よりも自分は熱心だ、と思っていました。そのころ通っていました名古屋の教会で、時間のあるときは何でもさせていただきました。大学に勤めていたので、少々時間がありました。私は、「神様、こんなにしています」と言ったのです。神様は「しかし、お前はわたしに『こんなにしているではないか』と言うけれども、お前のためにわたしはどれほどのことをしたのか? 」と。そのとき、自分が生まれてからその年に至るまでのいろいろなことを、眠れないながらに振り返りました。そうしますと、私は神様から愛されていながら、神様が求めていることにどれほど答えてきたか、神様が願っていることを、どれほど自分は従ってきたのだろうか? 心を刺された。そのとき、神様の御愛が迫ってくる。自分がああしたい、こうしたい、こんなこともしたい、あんなこともしたい、留学をしたいとか、あるいはマンションが欲しいとか、あれが欲しいこれが欲しいと、神様はそのような生活上のあらゆるものを恵んでくださって、それでもまだお前は足らないのか? と問われます。それには答えるすべがない。ただ、ただ「神様!あなたはこんなに愛してくださって、もう後は何もいりません。神様、どうしましょうか? 」、「あなたはわたしに従ってきなさい」、「あなたはわたしに従ってきなさい」と、心に迫ってくるものがある。自分としては精一杯「神様、あなたに従ってきました」と思っていた。でも、よく考えてみますと、従ってきたと言いつつも、結局のところ自分のして欲しいこと、自分の願いを、自分の夢をと、自分だけを追い求めてきた。それに対して神様は忍耐して、忍耐して……待って下さった。

 エレミヤ書31章3節に「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」。今まで、神様は間近にいらっしゃると思っていましたが、そのとき初めて神様は「わたしだよ」と、ご自身の存在を明らかにしてくださいました。そして「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」。私はその御愛に圧倒されました。こんな私がここまで愛されて、こんな恵みの中に引き入れられてきたのに、何を自分は今まで思って生きてきたのだろうか。「これからの人生は、神様、あなたにささげます。神様、あなたの思う事をしてください」と決断しました。そして、大学の仕事を辞めました。一切を御破算にして、福岡に遣わされてきました。そのことは皆さんもご存じのとおりであります。

 3月のこの時期になりますと必ず思い出すのです。一切を離れて福岡に遣わされて来ました。3月の最後の聖日に、この会堂で献身式をしていただきました。そして4月の最初の聖日に福岡で就任式をしていただきました。福岡は全く未知の所で何にも分かりません。初めてでした。そこにどのような人がいらっしゃるのか分かりません。それから23年間、神様は「限りなき愛をもってあなたを愛している」と、大きな御愛をもって、私を愛してくださいました。もちろん、平坦ではありません。私の力ではできない。知恵もない、そのような訓練もない。でも神様は「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」。神様は愛してくださって絶えず真実を尽くしてくださいます。懇(ねんご)ろに「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」との約束に真実な方です。

この神様は、実に真(まこと)の神様です。私はこの間に病気もしました。バセドー病で7年間苦しみましたが、それも神様の恵みであります。何一つ自分にとって不足なもの、失敗といわれるものはありません。皆さんもそうではないでしょうか。つい私達はその事を考えようとしないから、気がつかないのです。もう一度よくよく振り返って、神様はどんなに大きな御愛を注いでくださっているかを知ってください。

昨日もある方とお話をしていました。その方も、現役を退いて、これから第二の人生です。彼がしみじみと言われました。自分は本当に会社のためにと思って一生懸命に尽くして、企業戦士として走り抜いてきた。今振り返ってみると、実はその背後に神様の大きな御愛があって、必要なものを豊かに与えられてきた。一方的に神様は私を恵んでくださるばかりであったことを今思います。これからの人生は、これを全部神様にお返ししていきたい。そして、やがて命も神様にお返しするときがくるから、一切を主のものにささげて生きる新しい生涯を始めていきたいと。

私はそうだと思います。皆さんもそうではないでしょうか。神様がどんなに大きな御愛をもって、いろいろな中でありましたが、顧みてくださいました。御愛をもってあしらってくださいました。自分の願わない、考えない、思いもしない中を通ります。しかし、「下には永遠の腕あり」と、御愛の御手をもって支えて持ち運んでくださいました。その方は今日まで、これから先も変りません。どうぞ、この主の御愛に、しっかりと信頼し、根差して、与えられた所々で、神様が私を赦し生きるものとしてくださっていることを信じ、感謝して、主を喜んでいこうではありませんか。主の御愛にこたえて、身も心も一切を神様にささげて生きる者となりましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る