いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(142)「まことの自由」

2014年02月19日 | 聖書からのメッセージ
 ガラテヤ人への手紙4章28節から5章1節までを朗読。

 5章1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。
 これはガラテヤという町にできた教会の信徒にあてた手紙です。この教会にはユダヤ教から改宗者、ユダヤ人でありユダヤ教を信じていた人たちが、イエス様の救いにあずかってクリスチャンとされた人たちが多かった教会です。この教会は大変恵まれてはいましたけれども、ちょっと問題があった。それまでユダヤ教の厳しい戒律、規則に縛られた律法の世界に生きていました。ところが、イエス様は、その律法から解放してくださったのです。十字架によって、律法によってなし得なかった神の義を与えてくださった。それを聞いたときに、ユダヤ教の人たちは大変喜びました。それまで苦しみの中にいたのです。旧約聖書にはたくさんの戒め、律法があります。それを絶えず守り行わなければならない。そうしなければ神の民としての資格を失い、罪に定められて、滅びに落とされるという恐怖感が絶えずありました。いろいろな規則に縛られていました。「安息日を聖(きよ)くせよ」との戒めがありますが、そのためには、一日の労働はしてはいけない。ただ、これとこれはしてよろしいと、長年の間に細かい規則が積み上げられていました。だから、日曜日だからといって食べないわけにはいかないが、といって食事の準備をするのはどこまで許されるのか。薪(まき)を拾いに行くのはいいのか、悪いのか。あるいは、どの程度家から離れていいのか、何メートルまで歩けるのか、細かいのです。食事の内容にしてもそうです。これは食べてはいけない、これは食べてよろしい。複雑な世界が作り出されました。「父と母を敬え」という戒めもあります。どのようにしたら敬うことができるか。親に対してどのような言葉遣い、どのようなことを言っていいのか悪いのか、細かい規則の中で生きていたのです。

 ですから、イエス様の救いを聞いたときに、こんな話があるだろうか、と思ったのは当然でした。そのようなことから全く解放される。律法の中では、自分が一生懸命に頑張って律法を守っているからといって安心はない。これでよいというお墨付きがない。「これでいいのだろうか」、「これで大丈夫だろうか」、「これで私は天国が保証されただろうか」という不安は常にある。もし足らなかったら地獄だという恐怖があります。だから、不安と恐怖をもって縛られた生活をしていたのです。だから、イエス様はその律法の完成者として来てくださった。私たちは何もできない者であるが、私たちのためにイエス様がすべてを全うしてくださって、キリストのゆえに自由なのだ。

イエス様の福音を聞いて、ガラテヤの人々はイエス様を信じたのです。これはよかった、これでもう万々歳。私たちは最高の喜びだ、と言って感謝した。ところが、感謝して喜んでいたのですが、時間がたつにつれ、こんな事をしていていいのだろうか。救われたなら、もう少しこうあるべきではないか。このようなこともするべきではないか。これは大切ではないかという、いろいろなことが気になる。そして、かつて律法に縛られていた生活へと、だんだん戻ってしまう。これをしてはいけない。これをするべきだ。こうあるべきだという、そのような規則、あるいはそのような戒め、約束事が教会にはびこるようになった。そのためにパウロがもう一度、あなた方はどのような信仰に立っているのか。どこから救われたのか。初めのときを思い起こしてキリストに従う者となるようにと、勧めたのがこのガラテヤ人への手紙です。ですから、この手紙を読むと、結構厳しいことが言われている。「愚かなガラテヤ人よ」と、厳しく叱っています。

もし、そのような規則や仕来りや習慣によって人が救われるのだったら、イエス様の十字架はいらない。無駄に終わる。これはとんでもない話です。神の子があえてこの世に降(くだ)って、罪なき方が罪人となり、私たち罪人の代わりに十字架に命を捨ててくださった。この十字架はいったい何のためだったのか。そのことが失われてしまうではないか。パウロにとっては本当に悲しいことです。と言うのは、十字架がなくては、自分の今はあり得ないという決定的な救いを体験していますから、ガラテヤの人々の生活ぶりを見てそう思ったのです。

これは私たちに対しても当てはまることです。私たちもイエス様の救いにあずかって、本当に喜びと自由を得させていただいたのです。5章の1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」と。ところが、私たちの住んでいる日本の社会は、見えないさまざまな縛りといいますか、いろいろな習慣や伝統に、私たちは捕らわれてしまいやすい。“和を以って貴(とうと)しとする”という日本の社会独特の雰囲気があります。みんなと同じように、これをしておかなければ人が何を言うか分からない。そのような世の中ですから、私たちもかつては、そのような仕来りや習慣を守らなければいけない。この時期になったら、こういうことをしなければいけない。これをしなければ何が起こるか分からない、しなかったら罰があたるかもしれないと、恐れを抱きながら、生きていた。また、人は、どこかでそのような決まりきった制度や仕来り、それに寄りかかろうとします。そうするほうが生活はしやすいし、自分で考えなくていいわけだから、この月になったらこのような事をし、その次はこうしてという、年間の行事のようなものが社会全体にあると、考える必要がない。ところが、もし、それをしなかったら不安があり恐れがある。言うならば、気がつかないうちにそのような世の仕来りや習慣の中に取り込まれている。

教会でのことも同様です。皆さんにも差し上げています毎月の「聖書通読表」があります。教会で毎月それをもらう。皆さんも、初めは恐らく喜んで、さぁ、これを読ませていただこう、と思ったに違いない。初めはそうです。ところが、だんだん読み続けていると、休んだら咎められる思いがする。一日飛んでしまうと、何か悪い事をしてしまったように思って、一生懸命にまた補う。遅れたところを取り戻す。毎日読まなければ、何か自分が宿題を忘れた生徒のような気になる。初めは「自分は聖書を読んでいるけれども、みんなと同じページでこうして読ませていただいて、うれしい。今日も読めてよかった」と、一ヶ月、二ヶ月は喜びますが、三ヶ月、半年すぎると、それが習慣化してきます。そうしないとおられない。いわゆる中毒です。ある意味ではいい事だと思うのですが、逆にそれが重荷になるとするならば、これは大きな間違いです。聖書を読むのは、律法ではありません。

皆さんにもご忠告申し上げておきますけれども、「今日読んでないからどうしよう。困ったな。」とか、そうなったら、これは大間違い、本末転倒。聖書を読むのは、うれしいから読むのです。読まなければおれないから読むのです。また、渇いているから読むのであって、教会でこのようなスケジュール表をもらったから、それに従わなければいけないという律法ではありません。案外と人は、そのようなところに落ち込む。このときはこれをしなければいけない。こうなったらこうしなければいけない。クリスマスがきたら祝会をしなければいけない。そうすると「何をする? 」と。したくもないのにしなければならない、クルシミマスになる。どうしても人は、そのような律法化、何かに捕らわれていく。恐らく、皆さんの生活を振り返ってみても、どこかにそのようなものがあるのではないでしょうか。あれをしておかなければいけない、これをしておかなければ、誰かが何か言うかもしれない。親戚の者から何か言われたらいけないから、こうしとこう、ああしとこうと。そのような事が当たり前になってしまう。これは信仰生活の大きな障害です。日本の社会はそのようなもので満ちあふれているから、気がつかないうちに、私たちもそれに引っ張られ、がんじがらめになっています。ガラテヤの教会もそうです。初めはキリストの愛に感じて、喜びをもって歩み始めたのだが、気がつかないうちに変質していく。義務になり、律法になり、それをしなければおれなくなってしまう。これは私たちが奴隷の状態に陥っている姿です。あれをこうしなければ、これをこうしなければと、そのようなものに長年慣れてきているから、それがなくなるとさみしいという方もいます。いつも何かに追われているような、追いかけられているような生活が、安心だ、と言う方もいますが、それは本当の意味での自由を得て生きることとは違います。

ですから、5章の1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」と、よく知っていると思いますが、繰り返し自らに当てはめて、ひょっとしたら気がつかないうちに「イエス様、イエス様」と言いながら、自分が決めた習慣、決めたことを守る、あるいはそうしなければおられなくなっているならば、ちょっと考えなければいけない。私たちはひょっとしたらキリストから離れて、形だけのものになって……。

だから、多くのクリスチャンが、そのようなところで自由を失い、喜びを失い、命をなくしている。イエス様の救いにあずかって、喜び感謝して、聖書も読まなければおれない、読む度ごとに教えられてうれしいというときもあります。ところが、それが苦痛になる。あるいは義務になってくる。学校ではありませんから、皆さん、試験などはありませんから、そんなに無理やり読まなくてもいい。ところが、「キリストの言葉を心のうちに蓄えなさい」とあるから、「それは頑張ってやらなければ……、先生覚えられません。どうしましょうか」と苦しみになる。覚えなくてもいいのです。とにかく、そのように何かに縛られる事がありますから、よくよく警戒してください。

私たちの信仰生活で、気がつかないうちに縛られている。あるいは何かしなければならない、追いかけられている。もしそれをしなかったらどうなるだろう、と不安や恐れが私たちを突き動かしているならば、それは奴隷の生活です。現在、奴隷制度はありませんが、奴隷というのは、主人の厳しいムチで、その恐れで従っていました。それが奴隷の生涯です。私たちの主人はだれか? 別に目に見える過酷な主人が監視しているわけではないが、私たちの心に、こうしなければいけない、こうしなくてはどう言われるか分からない、という思いが支配してきたとき、私たちはイエス様から離れてしまう。そのようなことはよくあります。私たちは絶えずそのところを点検しなければなりません。だからここに「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と。ところが、私たちはどこに不自由があるだろうかと思う。そう思うのは、不自由な中に長年置かれているから、感じられなくなっているのです。だから、これでよかろう、と思っていますが、そこに喜びがない、望みがない、安心がない、平安がない。これは奴隷になっているときなのです。

ヨハネによる福音書8章31節から33節までを朗読。

この31節に「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とあります。ご自分を信じたユダヤ人、実はイエス様を信じたユダヤ人たち、言うならば、イエス様の救いにあずかった人たちです。その人たちに、イエス様は「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」と言われました。まず、イエス様の言葉を心に抱いて、それを守り、それに信頼し、それに従っているならば、イエス様の弟子であると。これはよく分かります。その次に「また真理を知るであろう」。イエス様の言葉を通して真理、言うならば、神様の御心を知ることができる。そして神様の言葉に従うときに「あなたがたに自由を得させるであろう」。「自由を得させる」と言われた時に、それを聞いていたイエス様を信じたユダヤ人ですらも、「何事だ!」と思った。その後にありますように「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない」。イスラエルの民は、かつてはエジプトで奴隷の生涯を送りましたが、そこから解放された。自分たちはイスラエル人、アブラハムの子孫、何が奴隷だ。自由がないだなんてとんでもないと。彼らは怒った。「人の奴隷になったことなどは、一度もない」、それなのに自由を得させると言う。ところが、34節以下に「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである』」。いわゆる、アブラハムの子孫と自称する人たちが「自分たちは一度も奴隷になったことがない」と言った。それに対してイエス様が「そうではなくて、すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と。「『あなた方は人の奴隷になったことはない』と言うけれども、では、あなた方は神様の御心のままに生きられるのか」と。「あなた方はいろいろな罪を犯すではないか。そうであるかぎり罪の奴隷なのだよ」と。それで、罪の奴隷から実は解放してくださった。神の家の正真正銘の子供としてくださった。言うならば、イエス様が、自由を与えてくださらなければ、自由になり得ない。奴隷は、主人が「お前はもう自由人だ」と宣言されたとき初めて自由になる。「お前をもう解放したよ」と、アブラハムの子孫でありユダヤ人たちを、奴隷の生涯から解放することができるものは誰か? それは神の民のお父さん、そのお父さんから遣わされた子であるイエス様が「あなた方を解放する」というのです。36節に「だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」。神の家の子であるイエス様が、あなた方に自由を与えるから、初めて自由になるのであって、その子供から自由を得ないかぎり罪を犯す罪の奴隷なのだ。

イエス様は私たちを罪の縄目から、罪の支配から、解放してくださった。私たちをキリストのものとしてくださった。これが自由なのです。だから、パウロは「わたしはキリストの奴隷である」という言い方をしている。「奴隷だったら不自由ではないか」と思いますが、罪の奴隷から解放されてキリストの奴隷になるとき、人は自由を得ることができる。これが私たちの救いです。

罪の奴隷であった者、気がつかないうちに、この世のさまざまな仕来りや、習慣、人の言葉に縛られて生きていた私たちです。「しなければいけないから、嫌だな、したくないのにしなくてはいけない。私だけがどうしてこんな事をしなければならない」とつぶやく思いになったとき、それは奴隷の生涯です。イエス様の救いにあずかった者は、イエス様の霊に導かれて生きる。そこに自由がある。

コリント人への第二の手紙3章15節から18節までを朗読。

17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」とあります。キリストの霊、聖霊に支配されていくとき、そこにこそ自由があるのです。自分の思いに、自分の好き嫌い、あるいは自分の損得利害、そろばんに従って、あるいは自分の感情や情欲に従って生きている間は、自由になり得ない。私たちは、常にこうしなければいけない、こうでなければどうするという思いの中に落ち込みやすい。私たちの生活で、絶えずこうしなければならないという追い使われる思いに駆られるとき、初めの出発点から離れている。最初は喜びであり、感謝である事柄が、だんだんと重荷に変わっていく。そして自分を縛りつけてくる。そのようなことがよくあるでしょう。感謝をもって、イエス様の御愛に答えて、ぜひこのことをさせていただきたいと始める。しかし、いったん始めたら、だんだんやめられなくなる。そして、それをしないとおられなくなる。それをしている間は安心がある。さらに、それが自分にとって重荷になる。「どうして私だけがこんな事をしなければならない」。

牧師館でお手伝いをしてくれる方がいました。有能な方で牧師館の仕事など、ことに、日曜日など、お昼をよく準備してくださる。会合があるとき、うどんを作ってくれる。だいたい、日曜日のお昼はうどんと決まっているのです。しかも、かまぼことねぎしか入らないうどんと決まっていた。若い連中、私どももそうですが、礼拝の後、教会に残っていますから、その方が「じゃ、私がしてあげるわ」とうどんを作ってくれる。その方は日曜日に教会へ来ると、「いいわ、私がしてあげるから」と言って元気がいい。礼拝が終わって、みんながやって来て、ばたばたし始めたら、てんてこ舞い。十人、二十人分の用意をしますから、焦り始める。すると、言葉遣いが荒くなる、厳しくなる。初めは良い気持ちで「私がしてやる」と言ったのですが、やり始めると大変になって、あれが足りない、これが足りない。そうなると八つ当たり、「日曜日のお昼はうどんと決まっているじゃないの!どうしてお湯ぐらい沸かしとかないの!」と始まるのです。そしてそのうち「どうしてかまぼこを買っておかなかったの!ねぎもないじゃないの!」、その挙句、最後には「どうして私がこんな事をしなければいけないの!」と言われる。「だったらしなければいいのに」と思います。最初は「いいわ、私でいいのだったら、させてもらうから」と始まる。そのうち忙しくなって「誰も手伝ってくれない!私がこんなに忙しいのに」となる。

私たちにも、そのようなことがよくあります。初めは感謝して「イエス様がこんなにしてくださったから、これをさせていただきます」と、家族のためにも、あの人のためにも、この人のためにもとやっている。そのうちだんだん慣れてくると、当たり前になる。あるいは、それを自分が引き受けなければならなくなって、それが役割になってしまう。

教会でもそうです。会堂のお掃除に来ますと、別に当番を決めませんが、皆さんが来ます。そのうち「毎週行っているし、今週休んだらみんながなんと言うだろうか。嫌だな、これまで行っていたから仕方がない。行くわ」となる。これが奴隷なのです。一回一回、御霊に導かれていく。「主の霊のあるところには、自由がある」。そのために、いつも神様の前に、奴隷から解放されて、キリストのものとなること。イエス様が許してくださればさせていただきます、という、その信仰を持って事を進めなければ、罪です。信仰によらないことは罪であると言われています。どんなによいことであっても、それが奴隷となってしまったとき、私たちはいのちを失います。だから、神様の恵みに感じて、御愛に感謝して、お掃除したい方がいたらどうぞ、というのです。「でも、私が行かなかったら、トイレの掃除は誰がするの? やっぱり私が行かなければいけない」と言うのなら、これは奴隷です。掃除をしなくても人は死なない、また礼拝ができないわけではない。私は、「それを習慣にしないでください」と言うのです。「いや、先生、私の責任ですからさせていただきます」「それだったらやめてください。あなたの責任ではなくて、これは神様の責任ですから」と。「でも、私が来なければ、先生が独りでするのではないですか」「いや、するかしないか分かりません。私だって、神様が『せよ』と言われたらしますが、『するな』と言うなら、何もしません」と言っています。何かあの人のためにしてやろうか、この人のためにしてやろうか、と思い始めたとき、私たちは既に奴隷なのです。イエス様はそこから私たちを解放した、とおっしゃるのです。毎日、そこに立ち返っていかなければならない。だから、ガラテヤ人への手紙は、信仰の原点を示してくれる大切な書です。

だから、一人一人が、17節にあるように「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」と、キリストの霊に私たちが縛られることが大切です。何があっても、まず祈って、主が私をここでどのように導かれるかを伺う。ですから、毎週お掃除に来てくださるのは、大変有難いと思いますが、もう一つお掃除に来る前に、「先週行ったから仕方ない、今週も行こうか」というのではなく、「先週は行かせていただいた。今週はどうでしょうか。神様行くべきでしょうか」とよくお祈りをして来てください。集会に来るのもそうです。礼拝だから、私は洗礼を受けたし、教会員、正会員である限り、礼拝は休むわけにはいくまいと言うなら、そんなものは関係ない。正会員なんて聖書に書いてない。私たちはキリストのものです。「二三人わが名によりて集まる所には、我もその中(うち)に在るなり」(マタイ18:20)と聖書に約束されています。キリストの名によって集う場所で、主にお会いする。「私は神様の前に出させていただきたい」と、喜びと感謝を持って、一週間の恵みを感謝するために集うのです。先生から何か言われそうだから、行かなければならない。また行かなかったら、あの人から電話がかかってくるといけないから、行っておこう。そのようなたぐいのものは、全てこれは奴隷です。礼拝を守らせていただけるのは、神様の憐(あわ)れみです。だから、私たちは絶えず祈って、何を、どうすべきか。「もうこうなった以上、私が引き受けたから仕方がない。死ぬまでやってやる」と、そのような義侠心はいりません。それはなくてもいい。その度ごとに「主よ、ここで私が何をすべきか。神様、もしよかったら使ってください」と、自分をささげる。

 ルカによる福音書19章28節から40章までを朗読。

 これはイエス様が、十字架におかかりになられる前、過越の祭りを守るためにエルサレムにお入りになられた棕櫚(しゅろ)の聖日の記事です。ここで「ろばに乗る」という記事があります。なぜイエス様はろばに乗ったのでしょうか? ろばは、ヨハネによる福音書を読みますと、使役に使われるろばの子と記されています。言うならば、ろばは愚鈍なものです。また力があるので、労役に使役される。いわゆる奴隷のような存在です。サラブレッドのように素晴らしい見栄えがあり足が速く、というものではありません。ところが、ろばはどれほどの値打ちがありますか。何にもないのです。出エジプト記を読みますと、「すべての家畜のういごは神様にささげよ」とされていた。ところが、ろばが生まれたとき、ろばの子については、ろばの子供をささげてはいけない。その代わりに子羊をもってあがなえと。ろばのために子羊を犠牲にしたくなかったら、そのういごは首を折って殺してしまう。そのような存在でした。まさにろばとは、誰のことでもない、私たちの事です。神様からの目から見るならば、私たちは奴隷として使役されるだけのこと。いろいろなものに縛られて自由のない生き方。そして罪によって永遠の滅びに定められる。首を折られて捨てられるだけの生涯。ただ、その命を長らえる方法は、子羊によってあがなう以外にない。だから、神様は、イエス様を神の子羊として、私たちのあがないのために遣わしてくださいました。私たちはろばの子なのです。

このときイエス様は、ろばを連れてくるように言いました。33節に「彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、『なぜろばの子を解くのか』と言った」。これはイエス様の十字架のあがないの象徴です。ろばはつながれているのです。奴隷です。そしてそのろばの持ち主がいる。持ち主がこのろばを使役している。私たちもかつては、イエス様ではないほかのものの奴隷であった。縛られていた者です。その私たちを主が「それを解いて、引いてきなさい」。そう言って結び付けられていた、縛られていた奴隷のろばであった私たちを、そこから解放して、何と言ったのか? 「主がお入り用なのです」と。主がお入り用なのです。私たちは今キリストのものとされ、奴隷の生涯から解放された。ろばの子にとっては誠に素晴らしい栄誉です。この後、イエス様をお乗せするのです。キリストが私たちを解放して自由を与えてくださったのは何のためか? 私たちを主が必要としてくださっている。私たちをろばとして、私たちのうちに主が宿ってくださって、言い換えると、私たちがろばになって、イエス様をお乗せするものとなる。イエス様を持ち運んでいく。これがイエス様の救いです。私たちは気がつかないうちに、奴隷のくびきに、別の支配者に握られて、このろばのようにくくりつけられ、縛られて不自由を強いられる中へ戻ってしまう。そうなってはいけない。絶えずキリストのものとなって「主の霊のあるところには、自由がある」と、キリストを私たちが持ち運んでいく生涯になる。イエス様が私の主となってくださって……。だから、ろばの手綱(たづな)は誰が握っているのか? イエス様です。イエス様が「止まれ」と言ったらグッと引かれる。右と言ったら右、左と言ったら左。イエス様が乗って自由自在にろばを用いなさる。

私たちも用いられる者となっていかなければなりません。ところが、主人であるイエス様を放ったらかして、別の主人に一生懸命に仕えている。イエス様はさみしい思い、悲しい思いをされます。どうぞ、キリストは自由を得させるために、私たちをキリストのものとして、主を持ち運ぶものとしてくださったことを覚えたいと思います。

もう一度初めのガラテヤ人への手紙5章1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」。私たちは今キリストのものとされて、「主がお入り用なのです」と求められています。ですから、あの人から何か言われはしないだろうか。この人から……、こうしておかなければどうなるか分からん、親戚のあのおばさんから何か言われるかもしれない、と恐れるとき、奴隷になっています。「私はあの人のためにしているのではない。この人のためにでもない。この家族のためにでもない、主のために、主が、今日私を必要としてくださる。主よ、あなたに従います。主よ、私はどこへ行けばいいのでしょうか。何をしたらいいのでしょうか」と、絶えず主のみこころを求める。コロサイ人への手紙にありますように「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし」(3:17)と、これがイエス様を持ち運んでいく、ろばの使命です。

どうぞ、私どもは今日からろばになってください。ろばですからね。偉くならなくていい。サラブレッドのように走れなくてもいいし、褒められるところは何にもない。ただ、イエス様をお乗せして自由を得させてくださる。イエス様が私たちを引き回してくださるところに、初めて、人の生きる喜びと自由があります。

ガラテヤ人への手紙の5章1節にはっきりと宣言されていますように「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」。「だから」とあります。「だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。私どもは気がつかないうちに奴隷になりますから、いつも主を見上げて、見えない方を見上げて、その方の導かれるまま、どこへ、何を、どうすべきか、従いましょう。私は主のもの、「主がお入り用なのです」と、今日も主のために生きる一日である。そのことに徹底するとき、自由な生涯を生きることが出来ます。この世の中、特に日本はそのようなしがらみなど、いろいろなものが私たちを縛りつけようとしてきますが、それらに囚われず、主のみ心を求めつつ、主に従っていく自由な生涯、神の子としての生涯を歩ませていただきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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