いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(140)「人のいのち」

2014年02月17日 | 聖書からのメッセージ
 マタイによる福音書4章1節から11節までを朗読。

 4節に「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。
 これはイエス様が、バプテスマのヨハネによってヨルダン川で洗礼を受けられたすぐ後の出来事です。4章のすぐ前にその記事があります。イエス様は神の御子ですから、バプテスマ、いわゆる罪の悔い改めのバプテスマを受ける必要がありません。しかし、イエス様は、すべての人の模範となるべき道筋、救いの道筋を明らかにするために、どうしても洗礼を受けさせてほしいと願い、人としてのキリスト、人間となり給うた主の救いの道を示してくださったのです。ですから、イエス様はバプテスマを受け、水から上がられたとき、「天が開けて神の御霊がはとのようにイエス様に下った」と記されています。そればかりでなく「天から大きな声があって『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」と、宣言されたのです。これはイエス様だけが特別だというのではなく、すべての者が救いにあずかるときこのような恵みにあずかりますと、イエス様が代表して受けてくださった事態でした。その後、ペンテコステの出来事を通して具体的に聖霊が注がれることになりました。その一つの前触れとしてイエス様はバブテスマのヨハネを通して救いの道を明らかにしてくださった。「どうしてバプテスマのヨハネは必要なのだろうか? 」と思うことがあったでしょう。聖書にはバプテスマのヨハネは、自分自身が後から来る方のために、その道備えをするのだと語っています。これは非常に深い神様のおもんばかり、ご配慮があったことを思います。なぜならば、バプテスマのヨハネという預言者を送って、その人を通してイエス様が、どのような救いの道筋があるのか、その救いの恵みとは何であるかを具体的に実体験させるために必要だったのです。

イエス様のご生涯、御降誕から十字架の死に至るまでの中で、このヨハネとの出会い、洗礼を受けられて、聖霊が注がれるという事態が、私たちの救いの希望として、目標として、モデルとしてはっきりと示されているのです。ですから、バプテスマのヨハネがいなかったら、そのことが起こらない、それがありえないわけです。イエス様の御降誕の記事の前に、ザカリヤとエリサベツのもとにこのヨハネが生まれています。その生まれた記事もイエス様のすぐ前の所に記されています。神様は深い御思いをもって一つ一つ事を進めてくださる。われわれには到底計り知ることはできない御計画であることを深く教えられます。イエス様より半年程早く生まれたヨハネが、やがて荒野で神様に献身の生涯を歩み始めます。そして、その結果としてイエス様に出会い、イエス様はそこで洗礼をお受けになられる。これはすべて神様の定められたドラマです。ご計画なのです。

神様の救いのご計画の中の一コマとして、私たちにもその恵みが与えられました。イエス様は、ご自分の実体験を通して、神様の救いとは何か?を明らかにしています。それは、ここに書かれているとおり、3章17節に「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。私たちを、神様の子供にしてくださることです。これがイエス様の救いです。イエス様は、お金のない者にお金をくれ、病気の者を癒してくださり、知恵のない者に知恵を与え、また生活のすべてをことごとく順調にしてくださる。家内安全、無事息災、学業成績優秀、何もかも商売繁盛まで含めて、神様は恵んでくださる。そのとおりです。しかし、もっと大きな神様が与えようとしてくださる恵みは、私たちを神の子供としてくださる、このことです。

イエス様の救いとは、何か?をはっきりと知っておいていただきたい。また自分がその救いの中にあるのだと、自覚していただきたい。ともすると、イエス様の救いとは何だろうか? 分からない。世の中の宗教と同じように、ご利益があって……、と。あるいは教会に行って、集会に出ていれば何かいいことがあるに違いない、宝くじに当たるかな、という程度ではない。神の子供としていただく、これは神様と私との関係です。そこには家族も友達も関係のない事です。冷たい言い方かもしれませんが、全くそういうことです。信仰とは、私と神様。そして神様の前にある私がどういう者であるかを明らかにしていく。バプテスマの洗礼を受けて、神の霊、キリストの霊が私たちの内に宿って、キリストと同じ栄光の姿、神の子供としての生涯へ造り変えてくださる。だから、私どもはもう神の子供なのです。ヨハネの第一の手紙3章に言われているように「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」。神の子供です。神の子供であるとは、人間同士、隣にいる人、あるいは家族の人との関係を表す言葉ではありません。家に帰って、ご主人に「私は神の子供だから、あなたとは違うのよ」と、そのような、人と人との関係で言うところの神の子供ではない。「神の子」とは、あくまでも私と神様との関係を表す言葉です。だから対人関係、人との関係の中で「私は神の子です。あなたはそうではありませんよ」という言い方は成り立たないのです。ところが、得てして世の中の信仰は、クリスチャンの中でも間違っている方がいますが、「私たちは神の子で、あの人たちは違う」と。そのように人と人との関係の中にそれを持ち込んでくるから、間違えるのです。私と神様との関係の中で「私は神の子である。そして神の子としての生き方をしているか? 」ということが絶えず問われる。だから、ほかの人から見て私が神の子らしいかどうか、そのようなことは問題ではない。それを言っているのではなくて、「神の子」という意味は、私が神様に対してどういう存在であり、どういう者として生きるべきなのか、私の生き方、私の人生、私の生涯が何であるかを語っていることです。だから、「私は神の子である」と、一人一人が確信を持ってしっかりと受け止めていくこと。「私は神様から愛されている。しかも神の子供なのだ」と知っているならば、何を恐れることがあるでしょう。他人のことをあれこれあげつらうこともいりません。誰かが「あなたは神の子よ」とお墨付きをくれたり、認定書でもくれたというならば、その人との関係、人との関係になりますが、そのような人のお墨付きや、認定書で神の子になっているわけではなくて、神様の十字架によって贖われ、神の子供としていただいているのです。

ここでイエス様が、水から上がられると天が開け、神の御霊がイエス様のうちに下ってくださった。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と、神様が愛してくださる神の子供としていただいたのだという。これは私たちが常に忘れてはならない素晴らしい神様の救いの恵みであります。それは、ほかの人がどうこうでなくて、私と神様なのです。だから、皆さん一人一人がそこに立っていただきたい。

その後の4章1節に「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」。これは実に不思議な事が記されています。「御霊によって」と。神様のご計画、み心によってイエス様はサタンの誘惑に遇われるのです。悪魔は、神様の手の中にある道具です。神様が用いなさる。神様はこのときも「御霊によって」イエス様を荒野へと導かれました。何もイエス様は好き好んで、行きたくて行ったのではない。あるいは嫌だけれども、仕方なしに行ったのでもない。ただ、神の子供として、イエス様のうちに宿ってくださった神の御霊、聖霊の導きに従って、荒野に出て行かれました。そこで四十日間の断食をなさいました。それは何のためか?「悪魔に試みられるため」というのです。救いにあずかった私たちもそうなのです。神の子供になったのだから、何か特別なカプセルか、あるいは温室の中に入れられて、悩みも苦しみも悲しみも何もない所に置かれたのではなく、私たちはこの地上にあって、さまざまな試練、悩み、困難の中に置かれるのです。しかも、それは神様のみ心なのです。神様は私たちをそのようなところに置いてくださる。それは、聖書に語られているように、私たちを潔め、整え、強め、訓練するためです。

ヘブル人への手紙12章5節から7節までを朗読。

5節に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない」。「わたしの子よ」と言うのですから、「神の子」、私たちです。だから、私たちに対して神様は「主の訓練を軽んじてはいけない」と。イエス様もそうでした。「御霊によって荒野に導かれて行きました」。それは、荒野にあって神様の訓練をお受けになるためです。次に「主に責められるとき、弱り果ててはならない。6 主は愛する者を訓練し」とあります。主は愛しているがゆえに、私たちを訓練してくださる。「受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。確かに、人の親でもそうですが、子供を愛すればこそ、厳しいことを言います。きついことも言います。もし子供を愛していなかったら、好きなように、わがまま放題、したい放題させます。放っとけばいいからです。ところが、その子のことを思い、その子の将来を考え、また愛するがゆえに、何としても一人前に成長してほしいと思うから、厳しいことも言い、訓練もします。また困難をも忍ばせます。ところが、私たちはそれをすぐに誤解します。そんなに私ばかり訓練されて、私ばかりがきついことを言われてと。どうして私の親はそんなに一方的に自分ばかり責めるのだろうかと、子供はつぶやきます。

教会に来ているお子さんも、中学生、高校生ぐらいになりますと、親子関係の問題で悩んで、そのようなことを訴えます。「自分ばかり叱られて、愛されていません」と、言い出します。しかし、親はそのようなことはないですよ。やはり子供の将来が気になるし、心配しているから、いろいろと小言も言い、厳しいことも言い、訓練をします。だから、6節に「主は愛する者を訓練し」とあるように、私たちを「愛する子供だ」と言ってくださいます。だから、私たちをいろいろな中に置かれるのです。神様は私たちを荒野に導き、サタンの試みに遭わせなさいます。なぜならば7節に「神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。「子として取り扱って」いるのですから。私たちは「イエス様の救いにあずかって、神の子供とされていながら、どうしてこんなつらい思いをしなければいけないのだ。苦しいことばかりがあって、私は嫌だ」と思ったら、そのとき喜び感謝したらいい。「神様が私を子供として扱っていらっしゃる」のですから。7節に「訓練されない子があるだろうか」とあります。「私には悩みがありません」と言うなら、「この人は可哀想に、神様から捨てられた人だ」と思ったらいい。「私には次から次へと悩みが多い」なら、それだけ愛されているのです。

だから、前にもお話したと思いますけれども、三浦綾子さんというクリスチャンの作家がいました。この方は晩年に次から次へと病気をされました。あるとき、出版社の人が電話をしたら、そのときも病気だった。それで三浦先生に電話をして「いかがですか? 」と、「今、病気です」との返事。「先生。お気の毒ですね。次から次へと絶え間なしの病気ですね」と言ったとき、三浦先生が「いいえ、私は神様から格別愛されているのよ」と言ったのです。その編集者はクリスチャンではなかったのですけれども、それを聞いてびっくりして、苦しみに遭って次から次へと耐えられないような病気の中に置かれながら「私は神様から愛されているのよ」という一言。どうしてそのような言葉が出るのだろうか? と。それからその方は、何がそんなことを言わせるのだろうか? ということでだんだん求めるようになったというのを読んだことがあります。確かにそうですね。だから、私どもに悩みがあり、困難があり、次々と問題が絶え間なく、起ってくるのは「これは神様が私を愛してやまないのだな」と感謝したらいい。ところが、なかなか感謝ができません。だから、いろいろな中を通って、絶えず神様が私たちを顧みて、訓練してくださる。このことを私たちは知っておきたいと思います。それは何のために訓練されるのか? その先に、その目的が記されています。10節に「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」。ここに「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために」というのです。神様が私たちを訓練される目的は、神の子供にふさわしく、私たちを仕立てようとなさるのです。私たちを造り変えようとしてくださる。神様のきよさを受ける者、子供ですから親の性質を子供は受けます。

だから、子供を見ていますとそっくりそのまま親に似ますね。知人のお子さんがいますが、一人のお子さんを見ていますと、全くお父さん瓜二つ。これは誰が見ても間違いない、というぐらい親に似ています。食べる食事の好みから、しゃべり方から、いろいろなものの選び方も似ているのです。私たちは神の子です。われわれは神に似る者にならないといけない。どうでしょうか? 自分を見て「私はだいぶ神様に似てきたな」と言えますか。そのくらい神様は私たちに大きな期待を持ってくださっている。“親に似ぬ子は鬼の子”と言うでしょう。私どもは神様に似なかったらもう鬼の子です。だから、神様は私たちを何とかしてきよさにあずからせようと、神様のご性質に、輝く者に変えてくださる。11節に「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる」という。本当にそのとおりです。訓練の中にあるときは、悲しいです。つらいです。ところが、「しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」。それは必ず結果が出てくる。「義の実」を豊かに結ぶ者へと、私たちを造り変えてくださる。これが、神様が私たちを地上にあってさまざまな問題、事柄の中に置かれるご目的です。

マタイによる福音書4章1節に「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」。サタンによって神様は、イエス様を訓練なさったのです。私たちもそうです。私たちはいろいろな問題や事柄を置かれます。ここでもう一つ大切なことを申し上げますが、例えば病気になる、家族の中に何か事故が起こるとか、あるいは何か大きな失敗をするなどの事態や事に遇う。問題は、その事が試練ではない。病気が試練なのではないのです。病気をどのように受け止めるか、自分の心が問題なのです。ここが、サタンが働く所です。私も自分の病気を通してそのことをしみじみと教えられました。病気自体は、医学的な知見、知識でできる限りのことはするでしょうが、それ以上の事はどうにもなりません。それでうまくいくこともあるし、それは客観的に見て医者の技量と言うか、医学的な知識の限界がありますし、またそれで可能な部分ももちろんたくさんあります。だからその処置については一切医者に任せる以外にない。ところが、問題はその病気を受けた自分が、病気をどのように受け止めていくか、受容していくか、自分の中に取り込んで、どのように自分のものとして受け止めるか、それは心の問題です。そこにサタンが働いてくるのです。私たちにいろいろな思いを投げ込んできます。不安を起こし、心配を与え、また、怒りや、憤りを与えます。それはサタンの働きなのです。そこで神様の子供として、その問題の中で希望と安心と平安と喜びを持って生きられるように、私たちを訓練してくださるのです。だから、信仰の戦いとよく言いますが、これはエペソ人への手紙6章に「血肉に対するものではなく」とありますように、「血肉」と言うのは、私たちの置かれた客観的な状況、事柄、問題などの具体的な事柄が戦いなのではなく、「天上にいる悪の霊」との戦い、それは心に迫ってくるサタンの力です。これが私たちを悩ませるのです。私たちの心の中にスーッと忍び込んできて、「これからどうなるだろうか」と不安を与えます。神様に信頼する思いを打ち壊そうとする。「小さな信仰ではあるけれども、神様、感謝します。何とかここであなたに信頼していきます」と平安を得させていただいたその瞬間から、またスーッと透き間風のようにサタンが私たちの心に入ってくる。だんだんと年齢を重ねてきて、いろいろなものが不自由になってくると、先のことを考えます。聖書には、先のことは考えるな、という。「明日のことを思い煩うな」というのだけれども「そうは言っておれん」と考えます。考えはじめると、しようもないことを考える。そこへサタンが入ってくる。そして「ああでもないか」「こうでもないか」と、いろいろなことを思わせる。これは私たちが戦わなければならない戦いで、信仰の戦いと言うのはそこなのです。

だから、イエス様もここ2節で「そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた」。四十日も断食をすればおなかもすきます。私どもは三日どころか一日でも食べなかったらすぐにおなかがすきますが、四十日も断食をしたのですから、よほど空腹になられたと思います。たまらなかったと思います。そのときに3節に「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』」。ここで、サタンが「神の子であるなら」と、「神の子なのだから、そんなひもじい思いをしている必要はないではないか。自分で目の前の石でもパンになるように命じたら変わるではないか。神様があなたに力を与えてくださる」と言われる。「神の子だから」と言って、おだてられる。そうしますと、「そうか。そうだよな。こんなひもじい思いをしていることはない」と、神様の前に生きている自分が、神様からはずれていく。これは私たちがよく経験することです。サタンは巧みに私たちの心の中にささやいてきて、悪しき思いを投げ込んでくるのです。そのときに、サタンはイエス様の神様に対する信頼を打ち壊そうとしてやってくる。「あなたは神の子なのだから大丈夫。やってご覧よ」と、いろいろなことを言います。私どももそうですね。イエス様の救いにあずかって神の子とされた。「神の子になったのにどうしてこんな……」と、つぶやく。「そうだろう。神の子なのだから、そんなお前、じっとしておく必要はない。少しは何とかしたらどうだ」とサタンは、いろいろなことを私たちにささやく。そのときが実はいちばんの戦いです。「自分との戦い」と言い換えたらいいかもしれません。私たちはいつも、あの人が、この人がと言いますが、問題は自分なのです。自分が神様の前にどういう者か、神様をどのような方と信頼しているか、そのことが揺らいでくる、それがぼやけてくると、人が原因に見える。いろいろな事柄が大変な事に思えてくる。そこでサタンが喜ぶといいますか、サタンが入ってくるのです。

殊に食べること、生活の問題が、私たちのうちにもあります。だから、ここで「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。確かにそれは一つの解決方法に違いない。ところがイエス様は4節に「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。ここでイエス様は、確かにおなかがすいている、生活、いわゆる肉体的な乏しさはありましたが、そこでもう一歩踏み込んで「人の命とは何なのか? 」イエス様はこの試みを通して、人が生きるとはどういうことなのか。そのことを神様から教えられる。これは私たちに対する一つのモデルです。私たちも生活の問題、健康や家族にしろ、また老後のことについても、これら一切のことは生活のこと、そしてそれがなければ私たちはいのちを全うできないと考えやすい。ところが、私たちの目に見える生活のいのちとは、肉体の命です。健康であるとか、息をしているとか、血液が循環して生きているという、いわゆるわれわれが言うところの生きている状態ではあります。ところが、イエス様が「生きるというのは、そのような生活の糧が満たされているから生きているのではない」と。そこにありますように「神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」。ここで、イエス様は、神の子としての生き方、それは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)」、神様のいのちによって生きるものです。ここが私たちに欠けていた事です。そして今も、世の中に何が欠けているか。ほんとうのいのちがない。それは、まさにこの「神の口から出る」、神様からのいのちを受けることがないからです。

創世のとき、人が造られましたが、人を土のちりをもって、神様のかたちにかたどって、造ってくださった。そしてその後に「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。神様の命の息を吹き入れられることによって、人が本当に生きるものとなる。それは目に見える肉体的な命ではなくて、もう一つ見えない所に私たちのいのちの源がある。そのいのちをいただく秘けつ、道筋がある。それはそこにありますように「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」、神様の言葉がいのちであるというのです。そのいのちを、いただかなければ幸いになることができません。

半世紀以上前になりますけれども、戦争がありまして、一切のものが戦災で消失しました。全く何もない、着の身、着のままの状態になった。それからの私たちの生活は、とにかく食べること、着ること、住む所と、そのような生活の問題に集中して、みんな働いた。今日よりは明日、明日よりは更にと、少しでも生活がよくなるように、豊かになるように、それが「いのち」だと思って、そのために頑張りました。私たちの生活もそうでした。そのために一生懸命になりました。また、その当時はいろいろな犯罪も多かったのです。もう生活に困って、行き詰って物を盗む。そのような事件がありました。そうしますと「それは、仕方がないね。こんな時代だし、余程困ったのだろうから……」と。捕らえて、いろいろと事情を聞いてみると、「それは仕方がない」と言わんばかりの状況の中にありました。だから“衣食足りて礼節を知る”と言って、そのうち豊かになればそのような犯罪もなくなって、みんな幸せになるに違いないと、一生懸命に努力をしました。高度成長期を迎えて、やがてすべてのものが整ってきました。バブルといわれる大繁栄を謳歌した。それで私たちの生活も、なるほど、有り余るほどに物の豊かな時代になりました。何一つ欠けるところのないものになりました。ところが、それに対して余程人間は立派になったかと言うと、そうではありません。実に失ったものが多い。いのちがないのです。今、そのような時代になってきました。

だから、私は今こそ聖書の御言葉が、真理が最も必要な時代ではないかと思います。昔は、それよりも何よりも、とにかく食べること、着ること、生活が優先されました。しかし、今はそのような意味では何もかも整って、少々働かなくても食べていける時代になってきました。そうなったときにはじめて「人の命とは何か? 」が、真剣に問われる時代ではないかと、私は思うのです。だから、今の時代は、悪い時代ではありますが、人間にとって、今こそ本当にいのちにつながる時代でもあると思う。生活のことは考える必要はないのですから、もっと大切なものは何か? を求めることができる時代です。

「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」こそ、私たちが失ってきた、実は、初めからなかったものです。物が豊かになってみて気がついたのは、本当に生けるいのちがなかった自分であることです。だから、今の若い人たちに喜びがない、望みがない。刹那的な生活しかできなくなってしまった。今、私は見ていてそのように思います。また私たちもそうなのです。私たちにとって何がいのちか? それは神様からいただく力、神様のいのちを、いただく以外にない。イエス様が言われるように「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」です。この言葉は申命記の8章の言葉ですが、イエス様はサタンの誘惑に対して、神様の言葉で答えている。それがサタンに対するいのちであり、力だからです。私たちの悩みや困難や問題、直面している事、その具体的な事柄の解決は、お金の問題なら銀行に相談すればいいし、また法律の問題なら弁護士に聞けばいいし、病気のことなら医者に聞けばいいのです。ところが、もっと大切な心の中のサタンとの戦いに勝利する道、本当にいのちが輝くためには何があるか? それはみ言葉に立つ以外にありません。神様の聖書の言葉を握って立つ。そこに私たちが堅く信頼していく。これが私たちの生きるいのちです。私たちはみ言葉に慰められ力づけられ、望みを与えられて生きる。主のみ言葉に立ち返っていなければ、サタンの戦いに勝利することができない。なぜならば、サタンの力に打ち勝ついのちが、私たちにはないのです。神様からのいのちによって、はじめてサタンに勝つことができる。

だから、イエス様もここで、その後にも繰り返してサタンから誘惑を受けますが、それに対抗するのにみ言葉を持って立つのです。決して、イエス様は自分の考えで事を進めるのではなく、絶えずみ言葉をもって、聖書にはこうあるから、神様はこのように言われるから、そこを信じてサタンに勝利をしていく。10節以下に「するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた」。三回サタンはイエス様を試みました。ところが、イエス様は一回一回、み言葉に立ってサタンを打ち負かして、それを乗り越えていく。私たちの心にサタンがいろいろな不安や心配や憤りや怒りや、そのようなものを投げ込んできます。決して私たちの中に本来あるべきものではない。不安とか心配とか思い煩い、怒り憤り、ねたみなどの思いは、サタンから来るものです。自分の力では勝てません。いや、むしろサタンのとりこになって自己憐憫(れんびん)に陥るかもしれません。そのようにならないために、絶えずみ言葉に立ち返って、聖書にこのように記されているから、神様がこのように私に求めているからと、そのみ言葉につながっていくとき、いのちが注がれてくる。聖書に記してあることは、ほかの人に対して言っているのではなく、そのみ言葉は今、私に向かって神様が語ってくださっているのですと確信するのです。そうすると、私たちのいままで嵐に荒れ狂っていた怒りがスーッと消えていく。また、み言葉に立ち返って、本当にへりくだって神様の御言葉を握ったその瞬間に、不安と恐れで沈み込んでいた心に光が差してくる。闇の中にパーッと先が見えてきます。これは確かです。闇に閉ざされて悶々と自分を哀れんで「どうして私はこんなんだろう」とグジュグジュやっているとき、サタンが喜んでいるときです。そうならないために、スーッとみ言葉に立ち返って、主に心を向ける。そうすると、み言葉がともしびとなり光となり、いのちが注がれ、喜びがわいてきて感謝ができ、希望がわいてくる。

だから、聖書を片時も離しては駄目です。といって聖書を持って歩く必要もありませんが、常に心に刻んでおく。だから箴言には「神様の戒めをあなたの手に記せ」と、「額にまで書け」と言われる。「わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ」(7:2)と、大切にしなさいと。昔、ユダヤの人たちは、教札(きょうふだ)といって洋服のすそや、えりにも御言葉を書いた小さな巻物を箱に入れてぶら下げていたのです。そのようなことをしても、小さなものを読みようがありませんが、それは一つの例えです。それ程にまで心にいつもイエス様のことを思う。み言葉を絶えず心に置いて生きることを勧められている。なぜならば、それがなければ神様のいのちにつながることはできないのです。

どうぞ、イエス様が言われるように「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」。生活のことはどうでもいいのです。生きるものは生きるし、死ぬものは死ぬのですから、それはもうどうでもいいのです。むしろ、私たちの心にいのちがあふれて、魂に本当に喜びがあって、神様に信頼していく生涯でありたい。神様は、私たちにみ言葉によって絶えず力を与えてくださいます。「どのみ言葉が役立ちますか? 」と聞かれますが、必要なみ言葉は御霊がそのとき、そのときに思い起こさせてくださいます。悩みのときに、主を呼び求めて祈ると、神様は聞いて忘れていたみ言葉を思い起こさせて、「そうでした。主が私の牧者であり、私の主です」、「目を高く上げてこれらのものを見なさい」と、神様はいつもささやいてくださいます。そのみ言葉にしたがって、神様のいのちを受けて生かされていきたい。私たちの心を整えて潔めて神様の栄光の御名にふさわしい、神の子に仕立て上げてくださいます。今はその道中です。やがて文字どおり神様の前に、神の子として立たせていただくときまで、地上にあるかぎり、どのような問題や事柄の中にも、神様のいのちを握って生きる者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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