いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(152)「神のわざの中で」

2014年03月29日 | 聖書からのメッセージ
 ヨハネによる福音書5章1節から9節までを朗読。

 私たちの毎日の生活、これはあまり変化がない生活に思われます。昨日があって今日があり、もちろんその中に食べること、する仕事など、事柄は日に違うことがあるかもしれません。旅行に出かけたり、人のために東奔西走するようなこともあるでしょう。しかし、おおむね生活が一定の範囲内で変化がない、そのような生活が安心だと思う。ですから、毎日、今日も事もなく無事に終わった、よかった、と思います。そのように変化のないことを願っていきます。しかし、私はよく考えるのですが、人は、必ずしも毎日が同じであって、いつも変わらないのではない。いや、むしろ毎日毎日が新しい世界に踏み出している。『未知との遭遇』という題名の映画がありましたが、私たちはいつも新しい一日へと生かされているのです。今日、どのようなことが起こってくるか、明日何があるかは私たちには分からない。しかし、そのようなことばかり考えていたらノイローゼになりますから、今日のように明日もあるに違いない、あるいは半年先も来年もこのようにしているに違いないと、そのように仮定してと言いますか、そう思って生きています。そうでないと、毎日が不安でならないと思います。明日はどうなるだろうか、明日はどうなるだろうかと、毎日心配していなければならない。普段の日常生活とは違うこと、病気になったり、のっぴきならない問題の中に置かれますと、明日どうなるだろうか、明日どう変化するだろうかという不安と恐れを持つ生活は確かにあります。しかし、だからといって、普段の生活に何も事がないから、今日も明日も同じだ、来年も同じだと思って、安心を得ようとするならば、果たしてそうなんだろうかと疑問に思います。私たちは、毎日、実は初めての、未知の、今まで体験しなかった世界に生きているのです。

 年齢的にもそうだと思います。一日ごとに年を取っているでしょう。考えてみましたら、昨日よりは今日のほうが年を取っている。ところが、その変化は実にごくわずかですから気がつきません。しかし、写真などを引っ張り出して10年前の写真を見てご覧なさい。えらい違いです。ところが、これから10年後はもっと違っているとは思わない。10年後も今と同じぐらいだと思う。人の心はそのように今のままでズーッと続いて欲しいと願う。しかし、年齢的にもそうです、また肉体的にもそうですが、一日、一日変わっていく。年齢も一年たてば一つ年を取ります。だからと言って、もちろん極端な変化は見ることはできません。昨日、今日、明日とズーッと連続していくように思われます。ところが、絶えず絶えず私たちは新しい一日へ生きているわけです。周囲には同じ年代で生きた人たち、先輩の姿を見ていますから、80歳になったらあのくらいだろうな、85歳の人を見ますと、自分もあの辺に生きたらあのようになるのかなと想像はしますが、それが自分だという実感はありません。確かに、その人はそうであったけれども、私はあのようにはならないと思っている。確かに、一人一人に与えられた新しい体験で、個人個人違います。夫婦でありましても、親子であっても、これは違います。

だから、自分の親の生きた年まで生きれば幸いだなどと考えて、母親は77,8歳だったから自分はそのくらいまでは生きるだろうとか、あるいは父親はこのくらいだったから自分もそのくらいは生きるだろうと思いますが、親と子はまた違います。そのような意味で、一人一人が与えられたこの地上の旅路を歩んでいくのです。そして、私たちの日々の生活は、誰も歩んだことがない、経験したことがない世界でもあります。だから、先輩の人が「おい、おい、もう年を取って70歳ぐらいのときはきついよ」あるいは「80歳ぐらいになったら……」ということを言いますね。私も50歳くらいのときだったと思いますが、ある方が「先生、もう50の坂を越えると大変ですよ」と「50と聞くとショックでした」と言われました。「ああ、そんなものかな」と、その頃は到底自分がそうなるとは思えない。やがて自分が50歳と言われたときに「なるほど、こういう感情かな」と思ったことがあります。それからまた60歳になるでしょう。「60歳になったら、先生、もっと大変ですよ」と。そう言っていたら70歳の人が、「70歳になったらもっとこたえますよ」と、何か自慢し合うようになってしまって、おかしな話ですが、それぞれ違うのです。その人がそのような思いを持ったから、自分もその年になったらそうなるのかと言うと、なるかならないかこれは分からない。実に私たちはそのような意味では、先が分からない世界の中に生きているのです。全く新しい未知の世界に、毎日踏み出しているのです。ところが、それではあまりにも不安が大きいから、また、そのようなことを考えていたら、心配ですから、昨日も今日も同じなんだ、明日も同じになるに違いないと、勝手に思い込んで生きているのです。

今読みました5章1節以下に、ひとつの出来事が記されています。ベテスダという池があり、その周囲に「廊」という長屋のようなものだと思いますが、回廊式になっている。ヨーロッパなどの教会に行きますと、廊下といいますか、外に半分、扉も何もなくて屋根だけがある長い通路がありますけれども、そのようなものを「廊」と言いますが、恐らくそのような建物が池の周囲にあったのだろうと思います。そこには3節に「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者」、言うならば重い病気に悩んでいる人たちがいた。なぜそのような所にいたかと言うと「水の動くのを待っていた」のです。おかしな話ですね。水が動けばどうなるのか? そこにありますように、実はベテスダの池は時折水が動く。どのような理由であったのか分かりませんが、「主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがある」と信じていたのです。それでその水が動くときに真っ先に入った人はその病気が癒される。これは大変なことです。たくさんの人が、しかも病気ですから、われ先にと押し合い、人を押しのける元気がなければ池に入れません。動けない、寝たきりですから、これは大変なことです。水が動いたら、一生懸命にはうがごとく入ったら、ほかの人が先に入ってくる。しかも、一番最初の人でないと駄目なのです。4節に「水が動いた時まっ先にはいる者」が、どんな病気にかかっていても癒される。こんな所があったら、やはり行きたくなるかもしれませんね。しかし、それはまた大変なことです。たくさんの人がいて、その一番先頭を切ってその中に入る。しかも水が動くときはいつであるか分からない。一年待てばいいのか、明日であるのか、これはぜんぜん分からない、常に緊張しておかなければなりません。そのような悲惨な境遇の中に多くの人たちがいたのです。

しかも5節に「さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった」。すごいですね、38年間病を持ち続けている。そうなると、人は大体それが習い性になります。なおりたい、なんてあまり思わない。思わないどころか、病気であることが自分に日常ですから、むしろ癒されたらちょっとおかしな具合になるかもしれません。病気になるに違いない。38年という長い間ですから。しかし、その人は病気だから仕方がない、とあきらめたわけではなくて、このベテスダの池のそばでじっとその水の動くのを待っていたのです。イエス様はたまたまその時ここへ立ち寄られました。イエス様は38年もの長い間病気で苦しんでいるのを知りました。そして、その人に「なおりたいのか」と尋ねました。考えてみたら厳しい質問ですね。この人は7節に「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。なおりたいのですが、残念ながら私はこの水の中に入ることができない。入ろうとすると、ほかの人がやって来て入ってしまうし、私を入れてくれる人がいない。38年間寝たきり、体が不自由で動けない。敏速に動けないのです。だからイエス様が「なおりたいのか」と聞かれたとき、「私を助けて水の中に入れてください」と頼んだのです。何とかそうならないだろうか、と思っている。38年間水が動くのをただ待ち続けている。水が動くのを待つ、これがこの人にとってただ一つの望みです。しかもそこにはたくさんの同じ希望を持つ人々がいるのです。自分は38年の長い病気の間、身動きならないでいるのだから、誰か私を池に入れてくれる人はいないだろうか。それ以外に病気が治る道はないと決めている。

最初に申し上げましたように、私たちの生活の中でもこの人と同じように考えている。いつもこのような生活をしている。このままでいい。ただちょっと助けてくれる人はいないだろうか。このようなことがあったとき、何かしてくれる人がいたら私は助かる。だけども私はこうだし、ああだし、これはもう38年の長いことこんなだし、変わりようがないよ。ほかに道はないからなぁと思い、あきらめる。ところが、私たちは毎日新しい体験、新しい出来事の中に、実は導かれているのです。しかし、これに気がつかない、それをあまり望まないのです。昨日のような今日であって、今日のような明日であってほしい。この38年病気の人は、38年間その病気でベテスダの池で寝ている。水が動いたら入ればいい。水が動いたとき私は入る、その時が……、とただそれだけ、それにしがみついていると言いますか、それ以外のことが考えられない。動けないから誰か助けて入れてくれる人がいればいい。一つの決まりきった考え方、あるいは生き方の中に自分を当てはめてと言うか、そこへ自分を置いていることが安心なのです。

私たちもそうですね。自分はこの年で変わりようがない。昨日の今日、今日の明日、この生活がこのままにいつまでもできるだけ長く続いてくれたらそれでいい。別に変わらなくてもいい。そのような思いが私たちのうちにありますね。この人も38年間長い間、その場所に寝ていて、誰か助けてくれないかと願いつつ、といって、助けてくれる人がいたら、ひょっとしたら困ったかもしれない。この人はそのように嘆きながら、悲しみながら、それを生きがいにもしていたのかもしれません。

ところが、そのときイエス様は何とおっしゃったか。8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。これはこの病気の人にとって到底信じがたいことです。私はもう起きられないのだから、この病気が38年も続いたのだから、水が動くのを待つ以外にない。むしろそれが楽しみになっていたかもしれません。その人にとってはそれ以上変わることが想像もつかない、自分の考えにない。私たちもそのような考えにとらわれます。自分が思い描いた、これまで体験してきた、これまで自分が歩んできてこの道筋から離れたくない。このままでいいけれども、ちょっと変わることができればそれもいいが、できるだけ変わらないほうがいい。水が動くときを待つ。果たして動くかどうか分からない。それがいつか分からないけれども、この人はそこにはかない望みを置きながら、そうなってほしいわけでもない。

皆さんもそのようなことがあると思います。毎日の生活がもうちょっとこうならないだろうか。もう少しああならないだろうか。でも子供たちがどうかしてくれないだろうかとか、あるいは友達が何とか、あの親戚の者が何とか、何とかなればいいけれども、でも不可能、ほとんど90パーセント、それはもうできないだろうけれども、まぁ、いいかと。できないことをむしろ楽しみながら、楽しむと言いますか、それを慰めにしているのです。生活の中にそのようなものがあるのです。変わらないように、変わるとひょっとしたら困るかもしれない。

家内の両親が、もう高齢でありますが、一生懸命に二人で生活をしています。ところが、やはりいろいろな事で不便を感じるのです。年齢的にも体が弱ってきたりして、そうしますと「こんなで嫌だ」とか「こういう問題があるから何とか変わらないだろうか」と、いろいろな事をつぶやきます。言いたいのです。家内はそのような親の嘆きを聞きますと、たまらないから、「じゃ、ここをこのように改造したら、あそこはこういう便利な道具もあるのだし、こうしたらどうなの」と言う。「そんなものはせんでいい。もう今まで通りでいい。今更変わることはない」と言う。だったら黙っていればいいのですが、何日かすると「こんなんだから、おれはもう早く死んだ方がいい」とか、「苦しい」「きつい」「お母さんの世話はおれはできん」「だったら、ヘルパーさんの回数をもう少し増やして夕食を作ってもらったら?」「いや、そんなものはせんでいい」。「何をすればいいの!」と、どうしても娘はやはり肉親ですから、そのような親の嘆きを聞きますと、たまらなくなって何とかしなくてはいけないと思う。でも、何かしようとすると、してほしくない。今のままでいい、ただチョコッと希望を与えてくれて、自分の気持ちを聴いてさえくれればいい。だから私は家内によく言うのです。「何も提案しないがいい」と。親から言われると、一生懸命に考えて「じゃ、ここの所をこうしよう、こういう方法がある。介護の方に頼もう、ケアマネジャーさんにお願いして、こうしてもらおう」「いや、そんなことせんでいい」と言われる。家内もせっかく提案したのに断られて、自分が何もできない者のように思い込むのです。だから、両親は聴いてほしいだけだから「ああ、そうね」「ああ、大変ね」「ああ、そうね」と、これだけを繰り返しなさいと言うのです。こうしてあげようとか、ああしてあげようとか言ってはいけません。ただ聴いてやるのです。

皆さんも、なんだかそうなっているのではないでしょうか。生活のことで不便を感じる。娘や息子が来ると「お母さん一人で大変よ。私もこんなだしね、あんなだしね」と。それで子供たちが「じゃ、お母さん、ここへ生活を変えたら」と言われると、「いや、そんなことせんでいい。私はもうこのままでいい」と言って動かない。

この38年間病気の人もまさにそうなのです。治りたいのだけれども、治ったら困ると言うか、治るとは思えない。といって、希望は欲しい。水が動くという、あるかないか分からない事柄、きっと水が動けば最初に入れば治るから、と言いながら38年。「もうちょっとこうなったらいいのだけれども、ああなるに違いない。こうなるに違いない」と言って、周囲の人から「こうしたら」「ああしたら」と提案されると、「いえ、もうそんなことはいい。私はもう今まで通りでいい」と言って、満足しているかと言うと、必ずしもそうではない。やはり不満があり心配があり、失望することがあるから聴いてもらいたい。人に相談してというだけのことで終わっている。
しかし、この時、イエス様は、8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。「起きなさい!」、この人は寝たきりだったのですから、自分は起きられるはずがない。そんなものは変わるはずがない。そんなの困る、起きたら。今更起きて仕事を探すわけにもいかんし、このまま病気であることに、ある種の安心感を得ていたかもしれません。ところがイエス様は「起きて、立ち上がって!」。どうぞ、神様が私たちに求めていらっしゃることはこの事です。なぜ「起きて」と主はおっしゃったのか。イエス様のおっしゃる言葉を信じて、起きたのです。主がこのように求めていらっしゃる。神様が今私にこうおっしゃるから「はい」と信じて、そこで立ち上がることです。これは信仰の最も基本的なことです。イエス様が私たちに「こうしなさい」「こうありなさい」と求めてくださる。御言葉を通して、私たちに迫ってくださいます。そのような時に「いや、そうは言われても、私はそんなことはできないし、ここはせっかく神様の御思いだから、ここまではさせてもらうけれども、そこ以上はちょっと無理だ」と。今までの生活を変えない、生き方を変えない、考え方を変えない、今のままでいい。だけど、水が動いたときに入れてもらうぐらいの手助けを神様にしてもらいたいと思う。それはこの人と同じです。ところがイエス様は、そうではなくて、「起きて、あなたの床を取りあげ」、ここで大切なことは「床を取りあげる」こと。ただ起きて立ち上がって、ではなくて、完全に「床を取りあげる」、自分の従来の、それまでの生き方、考え方、いわゆる自分の過去の一切をバサッと切り捨てて、新しく主が「起きて」とおっしゃいます。私たちに対して神様が絶えず期待しているのは、昨日の今日、今日の明日の凝り固まったといいますか、慣れ親しんだその場所にジーッとうずくまっていることを求めているのではない。神様は私たちに次から次へと新しい体験、新しいことをしようとしているのです。

イザヤ書43章18節から21節までを朗読。

18節に「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない」。「さきの事」とは、「過ぎ去った日々」という意味です。また「いにしえ」と言いますのは、古い過去の歴史、そのようなことを「考えてはならない」。私たちの社会は、ある意味で前例主義です。前にこうしたからこうする。前にこんな事をしたから、このようにしとこう、あのようにしとこう。過去に手本を求めると言いますか、自分のあり方を過去の出来事の中で考えて事を決める。だからあまり変化がない。ズーッと同じようにすれば安心する。ところが、神様は決してそのような前例主義ではありません。とてつもない、驚くことを、思いもかけないことを、私たちのうちになそうとしていらっしゃる。

19節に「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る」。「新しい事」、全く未知の事を私たちにする、とおっしゃる。皆さん、そのように言われるとちょっとおじ気つきます。何をされるのかしら? 私の今まで経験のないこと、そんなとんでもないことをされたら、どうしようかしら、と思うかもしれません。しかし神様は、私たちの好む、好まないにかかわらず、新しいことをなさる。そして「やがてそれは起る」。もうすぐにも起こる。いろいろな事、思いもかけない事が私たちの生活に起こってくる。このままズーッと続いてくれ、なんて思っているなら、間違いです。いついかなるとき、神様は新しいことをなさるか分からない。そのときにサッと立ち、「床を取りあげ、そして歩きなさい」。それに従うことです。神様は、「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」。人が想像のつかない、考えもしない、そのような……。そうですね、荒野なんて人なき地であり、またそこは何一つ慰めも喜びもない所、そんな所に道を造って誰が通りますか。しかし、「さばくに川を」、砂漠に川なんかあるはずがない。そんな所にいくら人が川を造ったってすぐに干上がってしまうに違いない。ところが、神様は砂漠を変えて豊かな水のあふれる地とする。また、荒野に多くの人々が相集う大路を造って、都を設ける。21節に「この民は、わが誉を述べさせるために、わたしが自分のために造ったものである」。私たちは自分の幸せ、自分のちっぽけな幸せを変わらないでジーッとそのまま持ち続けることを願いますが、神様はそうではない。私たちをして、神の誉れを、栄光を述べさせるために創造した、造り出した。だから私たちをして、これは神の業だ、と言わざるを得ない出来事を起こす、とおっしゃる。

もう一度初めのヨハネによる福音書5章に戻りますが、8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。「床を取りあげ」と、今までの一切の過去を全部捨ててしまう。過去の思い、これまでこうだった、ああだったと、そんなしがらみは一切捨てる。「床を取りあげ」なければなりません。38年たったけれども、またひょっとしたら病気になるかも分からない。今、イエス様が言われたから立ち上がったけれども、布団だけは敷いておこう、床だけは残しておこうと。それでは駄目、とおっしゃるのです。

「床を取りあげなさい」と。これまでの生活、これがいいと思っていたこと、これ以外にありようがない、これで私はいい、欲は言わない、これだけで安心だから、これ以上のことは起こさないでと。そうではない。神様は「荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」「見よ、わたしは新しい事をなす」とおっしゃいます。イエス様のお言葉に従うとき、38年病気の人が癒されるのです。神様は私たちにそのような大きなことをなそうとしてくださっています。だから「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と。イエス様のお言葉に従うのです。

この時、イエス様はそうおっしゃるけれども、そんなことはおれには無理や、と言って床を取り上げないで、布団にしがみついていたら、変わらなかったでしょう。ところが、その人は言われた通りに、イエス様のお言葉に従ったのです。立って床を取りあげて歩き始めた。そしたら、気がつかないうちに、9節に「すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いていった」。全く人生が変わってしまった。これまでベテスダの池の小さな世界の中だけで生きていた彼が、今度はそこを離れて、もっと広い世界へ歩き出していく。

私たちもそうです。こんな年になったから、これ以上新しいことは望まない。ただ今日も健康でどこも悪くなければいい、これで安心。そうしてジーッとしていると、とんでもない事態が起こる。起こると困る。うろたえます。だからそのようにならないために、私たちは日々心を新しく、過去は過去、これまでの生活はこれまでで終わる。今日、主が何をしてくださるか、「立ちて歩め」とおっしゃいます。神様の御心を信じて、お言葉に立って「はい、今日も主よ、あなたに従います。神様、昨日も一日非常に幸いな一日でした。今日もひとつあのようにしてください」なんて、そんなのでは駄目ですよ。昨日はそうだった、今日はまた新しく、神様は私たちに「床を取りあげ、そして歩きなさい」。どうしても私たちはこれまでの事柄に縛られると言うか、とらわれます。だから、あなたがたの心をやわらかく、石の心を取り除いて、とおっしゃいます。新鮮な思いをもって、神様、何を求めていらっしゃいますかと、本当に神様の前に自分を明け渡して、「床を取りあげ、そして歩きなさい」。どうぞ、何があっても「はい、主よ、従います」と感謝して、主の求め給うところに従っていきますならば、神様は力を与え、知恵を与え、業を起こし、それを導いてやがて「誉を述べさせる」者へと、造り変えてくださいます。

38年の長い間、病の中にとどまっていたこの人が、ただ一言イエス様の御言葉を信じて、御言葉に従ったとき、彼の人生が180度変わりました。大変革を起こすのです。神様はそのようになそうとしていてくださる。ですから、自分の考えや人の考え、この世の習慣や仕来り、これまで生きてきた自分の殻の中にガチッと閉じこもるのはやめて、主が何とおっしゃるか、主の御声を聴いたときに「はい」とすべてを捨てて、「床を取り上げて」導かれる所に喜んで従っていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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