いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(153)「御霊の働き」

2014年03月30日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書11章1節から4節までを朗読。

 2節に「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。
 イザヤ書11章1節から5節までは、よくクリスマスの時に引かれる聖書の御言葉ですから、イエス・キリストの預言である、と理解されます。事実そのことがこの1節以下に語られています。イエス・キリストとはどのような方であるか? これはもう皆さんご存じのとおりに神の子であって、人となり、この世に来てくださった方です。そして、やがて、三十三年半の地上でのご生涯の終りに十字架の苦しみを受け、息を絶え、死んで、そして墓に葬られなさいました。その3日目に墓からよみがえって、40日間にわたりご自分がよみがえったことを多くの人々に証しをしてくださいました。その後イエス様は、弟子たちの見ている前から天に引き上げられ、見えなくなってしまった。イエス様がいないのなら、今イエス様を信じても意味がないではないか。二千年前に死んでしまって墓に葬られて、確かによみがえったのであろうけれども、もう天にお帰りになって、ここにはいないのだからと。

ところが、実はそうではありません。イエス様が天にお帰りになられる前に弟子たちに一つの事をお命じになりました。それは「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」(使徒1:4)と言われた。弟子たちはエルサレムの出身ではありません。ガリラヤという田舎(いなか)のほう、辺境の地です。日本で言うならば九州であるとか四国であるとか、東京から遠く離れた所です。エルサレムは、その当時、東京のような町ですから、エルサレムに生まれ育つことは、それなりの誇りでもあったでしょうが、弟子たちにとっては他国のようなものです。なじみがない。イエス様に連れられてと言うべきか、イエス様に従って、はるばるエルサレムに来ていたのです。しかし、連れて来たイエス様は死んでいなくなってしまう。

では身の振り方をどうするか。もちろん自分のふるさとへ帰る。ガリラヤで長年漁師をしていたのですから、そこに戻ろう、ということになる。イエス様は、それを知っていたから釘を刺したのです。「エルサレムから離れないで」、「父の約束を待っているがよい」。「父の約束」とは何か。それは「わたしは父なる神様にお願いして、あなた方のために聖霊を送る。神の霊、御霊をあなた方に注ぐ」と、イエス様が語ったことです。

ヨハネによる福音書14章16、17節を朗読。

16節に「わたしは父にお願いしよう」とあります。イエス様のお父さんは、大工ヨセフではないか、と思いますが、イエス様は父なる神様の許(もと)からこの世に遣わされてきました。だから、イエス様にとってのお父さんは神ご自身です。ですから、イエス様がこの世から天に帰ったら、お父さんにお願いして、「別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さる」と言われた。わたしは天に帰るけれども、その後あなた方のためにお父さんにお願いして、助け主を送ってあげようと。その助け主は「いつまでもあなたがたと共におる」。もうあなた方と離れることはない。いつもどんなときにも、どこにあっても共にいてくださる方だ。しかも「それは真理の御霊」とあります。「真理」とは、すべてのものを貫いて存在する原理原則、その源である神様ご自身と言ったらいいと思います。その御霊、霊であるというのです。私たちは神様からの霊を受けるのだ、と語っています。

そればかりでなく、17節の後半に「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている」とあります。「あなたがたはそれを知っている」と。「なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」。その真理の御霊は今あなた方が見ている。あなた方と今一緒にいるではないか。言い換えますと、真理の御霊は同時に主イエス・キリストご自身であるということです。今弟子たちが目の前に見ているのは、約束の御霊ではなくて、目に見ているのはまだ十字架にかけられていないイエス様です。イエス様は弟子たちと一緒にいます。そのようにわたしがあなた方と一緒に絶えず共にいたように、真理の御霊もあなた方の所に来て、助け主となってくださるばかりでなく、わたしがそこにいるのと同じなのだと、語っているのです。

ですから、よくお聞きになると思いますが、キリスト教では「三位一体の神」と言います。「三位一体」とは何のことかな? と思います。父なる神・子なるキリスト・聖霊なる神、この三つが一つであることを言います。ある方からそのようなことが聖書のどこに書いてあるのだと問われました。どこを見ても、いくら調べても「三位一体」という言葉は、聖書のどこにも書かれていません。「三位一体」とはどのような事でしょうか。一つではあるけれども個別でもある。何か訳の分からないことを言いますが、言うならば、一人の女性はある人にとっては「お母さん」であり、ある人にとっては「娘」であり、ある人にとっては「妻」でもある。では妻だから娘ではないかと言うと、娘でもある。娘だから母ではないかと言うと、子供を持ったときには母親にもなっています。そのように同じ人を表しながら、母であり、娘であり、妻であるという。そのような役割の違い、と言えばそのように言えると思いますが、実はそればかりでもないのです。分かりやすく言いますと、そのような感じです。だから父なる神様は主イエス・キリストご自身であり、イエス・キリストは、また御霊なる神ご自身でいらっしゃる。御霊なる神は、また天地万物の創造者でいらっしゃる。だからそれは一つなのです。ですから、教会に来ますと、「神様」と言ってみたり、「主イエス様」と言ってみたり、あるいは「御霊が」と言ってみたり、「聖霊なる神が」と言ってみたり、一体何のことか訳が分からない、どのような使い分けをしているのかな、と思いますが、それはみな同じことなのです。だから「イエス様」を信じることは神様を信じているのと同じです。「父なる神様」というのは、言い換えますと「御霊なる神」でもあり、また「主イエス・キリスト」でもあります。だから私どもはお祈りをするときに「天のお父様」とか、「愛する天のお父様」と呼びかけますが、「イエス様」と呼びかけてお祈りなさる方もいらっしゃいます。間違いではありません。それでいいのです。どれも正しいのです。「三位一体」という言葉は聖書にはありませんが、今読みましたように、17節に「あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり」と、実はイエス様が目の前に立っていて、あなたがたと今一緒にいるわたしこそが、この「助け主」であり「真理の御霊」だと言われる。イエス様を今私たちの目では見ることができません。よみがえられて40日目に天にお帰りになられて、それ以来肉体を持った姿での主イエス・キリストを見ることはできません。しかし、イエス様は「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。17 それは真理の御霊である」と約束をしてくださいました。

ヨハネによる福音書15章26節を朗読。

26節に「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主」。ここでもう一度イエス様は、父なる神様の許から助け主なる御霊を送る、と語っています。「父のみもとから来る真理の御霊が下る時」。神様の所から「真理の御霊」、聖霊が下るとき、何とあるかと言いますと「それはわたしについてあかしをする」。イエス様はベツレヘムの馬小屋に生まれてくださいました。大工ヨセフの子として育って、十字架に死んでくださった。肉体をもって地上に生きたイエス様は、神の子、神ご自身でもあった方です。御霊が私たちにキリストが神の子であること、人となり給うた神だ、ということを教えてくださる、悟らせてくださる。それは「真理の御霊」が教え悟らせてくださるのです。

またその先、ヨハネによる福音書16章13節から15節までを朗読。

更に「真理の御霊が来る時」、私たちは神様の中にあるイエス様が持っていたすべてのものをいただくことができる。私たちは神と共に生きる者と変えられることを言っているのです。14節にあるように「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせる」。神様の思いを知ることができる。神様のすべての事を味わい知ることができる。この約束の霊が注がれるまで「エルサレムを離れないで」待ちなさいとおっしゃったのです。その後、弟子たちは、言われたとおりにエルサレムにとどまり、一つの家に集まって、みんなでお祈りをしていました。「神様、どうぞ、約束の御霊を注いでください。あなたの御霊を与えてください」と。いつまで待て、ということはありません。イエス様は何も言わず、ただ「受けるまで待ちなさい」と。最初から期間が決まっていれば、あと何日、もう後一日で終わりと思いますが、いつまで待つのか分かりません。ところが不思議なことにそれから10日目、同じようにその場所に集まってお祈りをしていたら、突然大きな出来事が起こりました。

使徒行伝2章1節から4節までを朗読。

1節に「五旬節の日がきて」とありますが、これは50日目という意味です。イエス様が十字架におかかりになられた過越の祭が終わってから50日目ということです。40日目にイエス様が天にお帰りになられました。それから10日目の「五旬節の日」に、2節「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて」、3節に「舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」。これは何のことを言っているのか分からない。「舌のようなもの」と、鏡を見て舌をベロッと出して、どんなものだろうと考える。「炎のように」と言われる。これは言葉で言い表しようがない、一つの特異な体験、身に起こったことを表しているので、決して火であるとか、あるいは「舌のようなのもの」とはどんな形かなと、そのようなことをせん索しても意味がありません。ただ言えるのは、彼らがそれまでの自分たちとは違ったものへと変ったのです。4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。さまざまな、いろいろな国の言葉を話すようになった。これは不思議なことです。英語の勉強で苦労した私どもは、こんなに簡単に他国の言葉が話せるのだったら、聖霊に満たされたいものだと思いますが、これは別に突然中国語を、あるいは韓国語をしゃべるようになるわけではありません。言葉を操る、言葉を手にするとは、一つの力を表した事柄です。

イエス様は私たちのために死んでくださって、すべての罪を潔めて「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(2コリント5:17)と言われるように、新しく造り変えてくださる。ところが、現実を見ると、イエス様をいくら信じても変わりようがない、一体私のどこが変わるのだろうか、と思います。「だれでもキリストにある」というのは、神の御霊に満たされるときです。神様が待ち望んでいた弟子たちに神の御霊、聖霊を注いでくださった時、新しい力を受けて、彼らは今までの自分とは違った者になった。そのことを「言葉を語り出した」という表現で語っている。今まで自分では言えなかったことが言えるようになり、できなかったことができるように変えてくださった。では、私はあれがしたい、これがしたいと、自分の思いのままができるのではなく、自分が願っていてもできなかったこと、こうすれば良いに違いない、あの人がこうすれば喜んでくれるに違いない、このことをしてあげたら幸いになるに違いないと知っていながら、できないでいる自分があるでしょう。優しい言葉を掛けたいと思いながらできない。あるいはそんなことを言うまいと思いながらつい言ってしまう。こんなことはしてはいけないと思いながらやってしまう。そのような自分ではもうどうにもしようがない、こんな私は嫌な私だ、と思うような私たちを造り変えて、良いと思うことをすることができる。してはいけないことをやめることができる力、言い換えると、今まで自分になかった新しい生き方へと神様が造り変えてくださる。これが聖霊の働き、力です。私たちのうちにその力が宿ってくださらなければ、私たちはどうにもしようがない。だから、今の時代は聖霊の時代という、このペンテコステの出来事からもう二千年以上の長い年月がたちましたが、その間多くの人々がこの御霊に満たされることによって、神様の約束の御霊によって、初めてキリストを知ることができ、信じることができ、神様を信頼することができ、そして自分に成し得なかった正しいこと、真実に忠実なこと、義なる行いをなす者へと造り変えてくださる。これは難行苦行、努力して得られるものではありません。

よく世の中で、あるいは何か修行をして、あるいは何か訓練して、自分を鍛えて少しでもいい人間になりたい、自分を変えたい、そう言って努力する方がいます。しかし、いくらつとめてみても、しょせん人は人で、あくまでも自分ではどうにも変りません。ですから、最近の政府が、先ごろ国会でも教育三法案という新しい法律ができましたが、その趣旨は今の若い人たち、あるいは社会のさまざまなひずみを変えるためには、人づくりを変えなければいけない。そのためには教育を変えようと言いますが、人を作るのは教育でできるものではない。なるほど、ある技術を教えること、さまざまな知識を教える、そのような教科教育はできるでしょうが、人間の生きざま、人としての生き方、あるいは世の中で何が正しく、何が間違っているか、それを知り、かつさまざまな事柄にきちっと正しい、人として、神様の前に恥じることのない生き方ができる人を作ることは、人の力ではできません。神様に造られた私たちは、神様によって造り変えられなければならない。

そうでしょう。家庭にあるいろいろな道具、テレビにしろ電気製品にしろ、故障した、あるいは使えなくなったら、それを造る人の所にもっていかなければなりません。先だってTOTOの水洗トイレの電気部品がおかしくて発熱する危険がある、と言われました。大工さんから電話がありまして、「先生の所、2000年に改装したときに取り付けた新しい便器がありますけれども、あれはどうもその欠陥商品に該当しているようですから、早く連絡してください」と言われました。私はびっくりして調べてみましたら、そのものズバリだった。でも自分では修理ができないので、造ったTOTOの人に来てもらわなければと、電話をしました。欠陥が分かってもそれをきちんと修理してくれるのはそれを造った人です。私たちを造った方は神様です。神様が私たちを造り変えてくださらなければ、人は欠陥商品のままです。だから、造り変えるために、神様が私たちのうちに来てくださる。これは素晴らしい。それがペンテコステです。それが神の御霊が下ることなのです。

今もそうです。この御霊に心をとらえていただく。あるいは、私たちのうちに御霊が宿っていただかなければ、何もできません。この時、イエス様はこの約束を与えて、10日後にこの素晴らしい出来事を体験しました。それから後ズーッと今に至るまで、御霊となって、御霊の神となって、私たち一人一人の所にとどいてくださる。心に語りかけて、近づいてくださる。今、格別ペンテコステの時のように大音響が鳴り響いたり、あるいは炎のようなものが下って、落雷に打たれたようにはなりません。そのようなことがあるかもしれませんが、そのようなことがなくても、実は既に神様は御霊を送ってくださっているのです。

イザヤ書11章2節に「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。私たちに神様が霊を注いでくださる。日本で「霊」という言葉はなかなか使いにくいのです。さまざまなイメージがそれについてくる。悪霊とか、怨霊とか、背後霊だとか、いろいろな霊があります。確かにヨハネの第一の手紙には「世の中にはさまざまな霊があるけれども、それはまことの霊、正しい霊ではないから、よく見分けなさい」と言われています。見分ける方法が書いてあります。それはイエス・キリストを神の子と告白する者、2千年前ベツレヘムの馬小屋に生まれて、肉体をとって世に来てくださったイエス様は、神ご自身である、神なる方です、と告白する霊はまことの霊である。キリストを拒む、あるいはキリストを否定する霊は偽者だ、と語っています。あるいはキリストのことを教えてくださらない霊は、これは間違った霊。だから日本で言うさまざまな霊は、キリストと関係のない霊です。そんなものは何の役にも立たない、意味のない霊です。キリストの霊はどのような霊かと言うと、今お読みましたように「これは知恵と悟りの霊」。キリストの霊が宿ってくださるとき、私たちはいろいろな現実、目に見える事柄の背後にある真理を知ることができる。物事の知恵と知識を与えられている。御霊は素晴らしい恵みを与えてくださる。

この11章1節から5節まではイエス様についての預言であります。イエス様がどのような霊に満たされていたか、また、それと同じ霊を私たちもいただくことができる。いや、既にいただいているはずであります。「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊」によって、すべてのものを深く思い計ることができる、さまざまなことに心を向けることができる。勉強ができる、できない、そのようなことは関係ありません。神様の御霊に満たされると、人生がどのようなものであり、生きることがどのようなものであるかを、また、さまざまな世の中の仕組みの裏側に潜んでいるまやかしがどのようなものであるか、いろいろな知恵を神様は与えてくださいます。そればかりでなく「主を知る知識と主を恐れる霊」、もっと大きなことは神様のことを悟らせてくださる。あるいは、御霊の力によって、主を恐れ、神様を畏(おそ)れ敬い、尊ぶ者と造り変えてくださいます。

ですから、皆さんが、「神様を信じます」と言えるのは、長年教会に来た結果ではない。神様の御霊が心に宿ってくださって、そのことを教えてくださった。だから、マタイによる福音書16章に語られているように、イエス様が「人々は人の子をだれと言っているか」、と言われた後に、弟子たちに対して「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねられました。そのときペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。イエス様は大変喜ばれて、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と言われました。その時「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」とおっしゃいました。ペテロは大学を出たわけでもなく、神学校を出たわけでもなく、どこかに留学してきたわけでもありません。生まれながら漁師の子供としてガリラヤ湖で漁を営んでいた。学歴も教育もなかったかもしれません。読み書きすらほとんどできなかったかもしれません。しかし、彼はイエス様と共に生活しているうちに、神様の霊に満たされて、神様がペテロに臨んで、このイエス様は私の救い主、神の御子であると信じることができたのです。

神様の御霊は二千年前のペンテコステの日から始まったのではないのです。神の御霊は聖書の創世記の一番最初から、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神として、三位一体の神として存在していました。だからイエス様もすべての森羅万象が造り出される創世の出来事を目の前に見ていた。御霊なる神も共にいてくださった。だから、創世記の最初の記事を読みますと、「われわれ」「わたしたち」と神様はご自分のことを語っています。その御霊は旧約時代も絶えず人々のうちに力を表しておられるのです。そして、やがて来るべき主イエス・キリストのことを教えています。

この11章1節以下も、預言者イザヤが語った、主イエス・キリストについての告白です。やがていつであるか分からないけれども、将来救い主イエス・キリストが来る。その方がどのような方でいらっしゃるか、イザヤが徹夜で一生懸命に研究した結果、分かったというのではなくて、イザヤに神様の霊が注がれて、この告白をすることができたのです。だから、御霊はペンテコステのあの出来事からスタートしたのではなく、御霊なる神は創世の初めから父なる神と共にい給うた方であって、その方は長い人類の中に絶えずご自身を現してくださった。だから旧約聖書を読みますと、そのような記事がありますね。サムソンという人、怪力サムソンという、あの人も神様の霊にとらえられた時、ペリシテ人に一人で立ち向かって、戦う力を与えられたのです。またギデオンという人がいますが、彼にも神様の霊が臨んで、満ちた時に、素晴らしい働きをすることができた。神様の御霊がなければ、私たちは何にもできない。神様を知ることも、イエス様を信じることすらも、御霊によらなければできないのです。ましてや、知恵も知識も「深慮と才能」、さまざまな力も知恵も、御霊によらなければありえません。御霊を受けたときの具体的な例が使徒行伝に細かく記されています。

ペテロもそうであります。生まれながらに漁師の子供として教育も何もなかった彼が、神様の御霊に満たされたとき名説教といいますか、素晴らしい神様の証しをしています。使徒行伝の2章の後半をお読みいただいたら分かります。御霊に満たされたペテロは、町へ出て行きまして、多くの人々にイエス・キリストは神から遣わされた神の御子、救い主であることを大胆に証ししました。彼はイエス様が十字架に架けられる直前「お前もあの仲間ではないか。あの人の弟子ではないか」と言われた時、「いや、とんでもない」と言って、イエス様を拒みました。その彼が何をしてあれほど大胆に、しかも知恵に満ち、力に満ちた者へ変えられていったか。それはただ一つだけ、神の御霊が彼に宿ってくださったからです。やがて彼はローマに行き、ネロ皇帝の時代に迫害に遭い、ついにそこで殉教しました。何が彼をそこまで変えたのか。それはただ神の御霊、「深慮と才能、主を知る知識と主を恐れる霊」が彼に宿ったからです。

その御霊に私たちも満たされなければならない。いや、既に神様は御霊を注いでくださったのです。私には分からないけれども、目には見えないけれども、神様を信じて、「私にもその霊を与えてくださるのですね、信じます。どうぞ主よ、その御霊を私にもください」と切に求めようではありませんか。また「ください」「ください」といつまでも、死ぬまで「ください」で、とうとうもらわなかったというのでは困ります。お祈りをし、求めたら、そこで確信を持つのです。「くださる」と約束をしたのですから、「主よ、私にあなたの御霊を与え、知恵を与え、力を与え、あなたのみ心にかなう者としてください。主よ、お願いします」と祈ったら、その後「はい、信じます」と、「いただきます」と、心を決めることが大切です。そうすると、具体的に神様が働いてくださる。今まで考えもしなかった事、思わなかったことを思わせ、願いを与え、実現させてくださいます。また、私たちの想像もしなかった事をさせてくださいます。予定のなかった問題や事柄の中に神様は引き込んでくださいます。そして、私たちをして神様を恐れ、神様を喜び、キリストを証しする者へと造り変えてくださる。また、「神様、私をこんなにまで愛してくださっているのですね」と涙を流して喜ぶことができる者にしてくださるのは、御霊が働いてくださる結果です。

2節に「その上に主の霊がとどまる」と約束をされています。「その上」、これはキリストの上であると同時に、私たちにも主の霊が注がれ、そして私たちにいのちを与えてくださっている。どうぞ、この御霊が私に与えられていることを信じて、御霊なる神様を大切にして、その御声に従っていきたい。御霊に教えられ、導かれ、慰められ、励まされ、望みを与えられていこうではありませんか。人だとか家族だとか友達だとか、それらはやがて消えていく時がきます。しかし、御霊は私たちを導いて天国にまで引き入れてくださいます。どんなときにも私たちから離れることのない方です。この御霊なる神を私たちの心の中心に置いて、どうぞこの御方の力と恵みを受けようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。



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