エペソ人への手紙5章15節から21節までを朗読。
17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。
15節に「歩きかたによく注意して」と勧められています。「歩きかた」、これは私たちの生活のことであります。朝から寝るまで、寝ているときもそうでしょうが、日々生きている生活状況、それを「歩き方」と語っています。私たちは毎日の生活で、どこへ行こうか、買おうか買うまいかと、いろいろなことを絶えず取捨選択、選んでいます。その一つひとつの事、これが「歩きかた」であります。
その後に「賢くない者のように」「賢い者のように」とありますが、「賢い者」とは、決して学校の成績が良いとか悪いとか、偏差値が良いとか悪いとか、そのような話ではないのです。「賢い」といいますのは、神様を畏(おそ)れ敬う人のことです。詩篇に「愚かなる者は心のうちになしと言へり」(文語訳14篇1節)と記されています。神様を畏れようとしない者、これが「愚かな者」。「神様なんか居るものか」、「神様なんか、信じるものか」という生き方、これは「愚かな者だ」と言われるのです。それに引換え「賢い者」とは、神様がいらっしゃること、そして神様の手によって生かされ、命を与えられている者であることを感謝し、認める者のことです。
私どもは、自分の思い、願い、欲望がいつもあります。人からどんなに勧められても、「それは嫌だ」とか、「これはよいことだ」、あるいは「これは助かる。私の願っていたこと」と、常に私たちの判断といいますか、物事を決めるときの基準は自分の立場、自分の利益、自分の好きや嫌いなどで、そのようなものによって判断します。あるいは、その日その日の気分にも左右されるかもしれません。天気がいいと「今日は、ひとつどこかへ出かけようか」とパッと明るい気持ちになります。ところが、どんよりと曇って肌寒い日になりますと「今日はなんにもしたくない」と沈んで、あれもやめよう、これもやめよう。あれをしたいと思ったけれども、やめとこうと、だんだん落ち込む。そのようにいつも自分を中心にして、自分が好きか嫌いか、良いか悪いか。あるいはしたいか、したくないか、感情といいますか、そのときの衝動によって行動します。物を買うときにも「衝動買い」という言葉がありますが、気分が乗らない、あるいは嫌なことがあって、あるいは人とケンカしたり仲たがいしたりしてうまくいかないときなど、どこかへ出かけて行ってお財布にあるだけのお金で、適当にその辺の物をパパッと買ってしまって、後で冷静になって「しまった。こんなものを買わなければよかった」と悔やむ。そのような衝動買い、そのときの気分、そのときの思いで時間を費やしてしまいます。
ところが、先ほど申し上げました「賢い者」というのは、どのような人かといいますと、それは神様を恐れかしこみ尊ぶ人のことです。神様がいらっしゃることを信じる人のことです。それは、私たちが神様のご計画と御思いによって、この地上に命を与えられていることを信じる者です。私どもは、かつてはそのような神様を知らずにいたのですが、神様の憐(あわ)れみによって、主イエス・キリストのあがないにあずかって、神のもの、神様の所有とされました。ですから、かつては自分のものと思っていたのですが、今では、自分のものではなく、神様のものとなっています。神様を畏れ敬うということは、私たちが神様に造られて、神様のものとされていることを信じることです。イエス様の救いはまさにこのことなのです。だから、コリント人への手紙に、私たちは「自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(2コリント5:15)とあります。
「時間」を例にとって、自分のものではないということを、考えてみてください。私たちは一日に与えられた時間、24時間をみな均等に持っています。あの人だけは23時間らしい、私は25時間あるとか、そのようなことはありません。みな平等です。年を取っても、若くてもみな一日24時間の時間があります。神様を知らないときは、その時間を自分の思いのままに使っていました。しかし、今は私たちに神様から託された時間であって、わたしのものではないのです。神様の時間なのです。それを自覚して生きている人は、案外と少ないのです。
ときに銀行に行きますね。そうしますと、非常に長く待たせられる。客が多いとき20分、30分待ちます。そのうちに番号を呼ばれ、窓口に行きますと「お待たせしました」と言われる。私は、「はい、待ちました」と言うのです。そうすると、はぁ、というような顔をしてこちらを見て、申し訳なさそうにしますが、「待ちましたよ」と言います。時には、もう一言「時間給が千円だったら、30分待つと幾らだと思う? 」と言いたいのです。30分待つことは五百円の損失。しかし、銀行の利息は五百円もくれません。考えてみますと、平気で待たせるのです。レストランに行ってもそうです。そこで働いている人は時間給で働いていますが、お客さんの時間は無料だと思っているのです。
そのようなことを考えると、私は銀行やレストランのことではなく、神様の「時間」を盗んでいるのではないかなと思います。神様は、一年間365日、一日24時間、一人一人に均しく預けておられる。また、この地上における齢(よわい)の年、生きる年月を与えてくださいます。ただこればかりは均等ではありません。それぞれ個人個人、ある人には60年、ある人には70年、ある人には100年、嫌でもそうなるのです。その違いはあるとしても、それぞれに神様が託していらっしゃる……。私たちに神様が託してくださった時間、また健康が与えられ、それぞれの家族が与えられ、いろいろな業を神様が備えてくださっている。ですから、絶えず私たちは神様のものをあずかって、それを使っているのです。そのような自覚があるでしょうか?私の時間だから、私の好きなようにしたい。それでは、私たちはイエス様の救いにあずかってあがなわれた民、神のものとなっている、と言うことはできません。
ですから17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」と言われるのです。ところが、どうして主の御旨を悟らなければいけないの、と思います。私たちの持っているものは全部、自分のものだと思っているからです。しかし、イエス様の命で贖われた私達は、もはや私のものはありません。私のものではなくて神様のものなのですから、その時間を使うにしても健康を使うにしても、あるいはいろいろな事柄の中に置かれるにしても、その一つ一つすべてが、これは神様のなさる事です。それを私たちが勝手に盗んでいる。だから、マラキ書に神様が「あなたがたは、わたしの物を盗んでいる」(3:8)とおっしゃる。そこには「十分の一」の献金について語られていますが、必ずしもその「十分の一」の献金という事だけではなく、実は、私たちのすべてがこれは神様のものなのだ、ということがあって、その証しとしての「十分の一」のささげものがあるのです。「十分の一」だろうと幾らだろうと、これは、私のものではなくて神様のものなのですということを証しするためです。
だから、礼拝で献金なさるとき、自分の物を取られた、と思うのは間違いです。神様のものを私が使っているのです。それはお金だけではなくて、一週間の時間も、また健康も、家族も、私たちが与えられた一つ一つの業のすべてが、実は神様、あなたのものですと、その証しとして、その印としてささげるものです。ですから、礼拝で献金するとき、そのような思いを持って心から感謝してささげてご覧なさい。額の多少にかかわらず、私たちは「今日も主のものだな」と、そのような喜びと信仰が与えられるのです。そして、一週間の日々も、全部神様のもの。そうなると、それをどのように使うか、どのように用いたらいいのか、私たちがいくら考えても分からない。やはり、託してくださった方に、それを聴かなければいけないでしょう。
マタイによる福音書25章14節から30節までを朗読。
ここにタラントのことが記されています。主人がそれぞれ僕にタラントを託しました。そのとき主人の意図は何であったか? 能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントをあずけた。その主人の主旨は何であったかといいますと、自分の留守の間に預けておくから、それを増やしてほしい、という意味であり、そのまま持っておけ、という意味で預けたわけではない。あるいは、お前が好きなように使え、と言って主人が預けたお金でももちろんないですね。そうすると、主人の意図はどこにあったかと言うと、なんとか増やすようにと、それが僕に求められる主人の思いです。やがて主人が帰ってきまして、清算をいたしました。20節に「すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』」。5タラントを預かった人はそれを持って行って、商売したか何か、それでもうけて、さらに5タラントを増やしました。それでご主人が帰って来ましたから「こうしてもうけました」と、あなたから預かったものをこのように使いましたと、報告した。それに対して21節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」。ここに「良い忠実な僕よ」と主人から言われました。「忠実」ということはどのようなことなのでしょうか?僕である彼は、その主人に対して忠実であるとは、取りも直さず主人の心に忠実である、思いに従うことです。だから主人が一言言ったら、その言葉の奥の奥までくみ取って「ご主人はこういうことを願っている」「ご主人がこういうことを私に期待しているのだな」、そのようなことを知ることです。これは私たちの生活に大切なことです。
最近、よく経験することですけれども、ファミリーレストランなど、そういう所に行きますと、連休などで忙しいとき、アルバイトの人が来ます。見ているとなかなかスムーズに事が運ばない。だんだんいらいらして、自分が立って行って何かしてやりたくなる。若い人は、言われた事だけ、「これをあのテーブルへもって行きなさい」と出来上がった料理をお盆に載せて運んで行きます。それで並べます。戻るときに空の盆を持って帰るだけ。横には食べ終わったものが置いてあるのですが、それを下げようとしない。持って行ったら空手で帰らないで、拭くなり、あるいは汚れたものを集めて下げるでしょう。空のお盆を持って帰って、主任から「片付けろ」と言われたらまたやって来て片付ける。私は注文しようと待っているのですから、なぜ注文を聞いた上で片付けないのかと思います。片付け終わって汚れたものを持って行ったら、また主任から「注文を聞いて来い」と言われて、待っている人の所へ行く。私はそれを見ながら「これからの日本は滅びだな」と思います。そのような人が多いのです。それは家庭でも教育がされていないのです。子供のときから、それこそ幼稚園、あるいはもっと小さいときから、家庭でお手伝いをする。そうしながら、物事を順序立てて考える思考力を身に付けて行くのです。これをするとき、こちらをしておいたら、もっとうまくいくのではないかと考える。アルバイトとして雇われてはいるけれども、そこで果たすべき仕事、雇われた目的を自覚して、雇った人の意図を実行する。ただでバイト料をやるために雇ったのではない。そこに来るお客さんに気持ちよく食事をして、楽しんで帰ってほしいという、そのような主人の主旨があるではないですか。「いや、それは言われていません」「聞いていません」と、言い訳をします。「僕」(しもべ)という言葉の意味が分かっていない。若い人たちの物事の理解力といいますか、そのようなものが欠けてきたなと非常に感じます。人間の質が落ちてきてしまっている。それを育てきれていない。またそのような子供が親になってご覧なさい。その子供たるやもっとマイナスです。
ここでイエス様はそのようなことを語っているのです。主人がタラントを渡してくれた。「主人が預けたのだから、これを持っておけばいいのだろう」と、若い人だったらその程度で終わるのです。帰って来たら、返してやればいいのだ。減りもせず増やしもせず、あなたから預かったからそのまま置いておいたよ。逆に預かり賃くらいもらいたい、と言われるかもしれませんね。ここでイエス様が語っているのは、「良い忠実な僕」になることです。「忠実」とは、主人の思いを知る。「思いを知る」と言うのは、ただ言葉面(づら)だけではないのです。だから聖書もそうですね。聖書の御言葉を字面(じづら)だけで読む限り、神様の思いは分かりません。言葉の背後に隠れている、言葉の奥に潜んでいる、一つの言葉ではなく幾つかの言葉を通して、あるいは聖書全体を通して、私たちに知ってほしい、悟ってほしいと願っている神様の御思いを知るのです。それを悟ること、これが「忠実な僕」になる第一歩でしょう。ですから21節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」と。本当にこの主人は喜んでくれます。
2タラントの人も同じことです。23節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」。5タラントの人も2タラントの人も、全く同じ言葉で褒められています。ご主人にとって2タラントの人が2タラントをもうけることも、5タラントの人が5タラントをもうけることも同じことなのです。同じ喜びだったのです。決して神様は私たちを「お前は2タラントだから2タラント分の褒美だけやろう」なんては言わないのです。神様は朝10時から働いた人も、夕方4時から働いた人にも等しく報いてくださるように、能力の多い少ないではない。どれほど忠実であるかを見ていらっしゃいます。ですから、私どもは与えられた、今託せられている自分の健康にしろ、あるいは一日24時間の時間にしろ、これをどのように使うのか、どういうように神様の前に忠実な僕として、それを託せられたものとして応えていくか、これは私たちの求められている大切なことです。ですから、勝手に自分がしたいから、自分は嫌だから、自分が衝動的に、あるいはそのような感情に動かされて生きているとするならば、これは神様の与えてくださった、託してくださったものを浪費してしまう、無駄に使っている。やがて、「お前、私の預けた時間を無駄にして」と叱られます。
もう一度初めのエペソ人への手紙5章17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。これは絶えず私たちが求められていることです。主の御旨が何であるか。「神様、ここで何をどのようにしたらいいのでしょうか、私のするべきことは何でしょうか」。「神様、あなたの思いはどこにあるのでしょうか」。絶えずその事に心を向けていく。いろいろなことを、瞬間的に判断を求められることはもちろんあります。家族から「お母さん、これどうするの」と言われる。「待って、待って」と言いながら、パパッとそろばんが浮かんでくる。電卓が出てくるのではなく、そこで「主の御旨は? 」と、しばし待って、お祈りをするのです。この礼拝でも教えられましたように「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)、お祈りをする。お祈りとは、逆に聴くということでもあります。私たちは思いを神様に全部打明ける、そして平安をいただく。「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。平安が与えられる。そしたら、今度は「主は何とおっしゃるのか」、「神様は私に何を求めていらっしゃるか」と神様の御声を聴く。これが祈りです。私どもは、「求めよ」と言われるから、「はい、言います」とバンバン言いっ放し、「スーッとした」となりますが、それは違います。神様の前に祈って、心の思い煩いを一切神様の前にささげて、そして神様の平安をいただく。そして、そこから「主よ、では何をしたらいいのでしょうか。私はどのようにすべきでしょうか? 」と、本当にへりくだって、主の御声を聴く者となること。これが祈りです。それによってお祈りが完結するのです。言いっ放しではなくて、語って聴く。往復ですよ。主との交わりはそうです。人ともそうです。一方的にしゃべりっ放しでは意思疎通ができません。
知り合いの子供さんで、小学校のころ、とにかく自分のいいたいことだけを言うのです。「先生、学校でこんな事があった、あんなことがあった。そしてこうして、僕がこうして、ああして……」、「ああ、分かったからちょっと待って」とこちらが質問をしますとそれには答えないのです。「昨日は運動会だったけれどもどうだったの? 」、「いや、それがね、僕の何とか、クラブがどうだとか」と。「だから、昨日の運動会はどんな結果だったの? 」「僕の友達がね」と全然聴こうとしない。言いたいことだけ……。どうも最近の小学生の会話を聴いていますと、お互いが言いたいことを言い合うだけで、話題のやり取りといいますか、一つのテーマでどんどんそれを膨らませて、共通の言葉の世界を作ることができないのです。自分の言いたいことだけ独り言のごとく語る。教会学校に来ています子供たちの様子をちょっと見ていますと、どうもそのような感じがするのです。友達同士で遊んでいても、ばらばらです。言葉を投げかけあっていますが、それは自分の言いたいことだけを言っているだけで、相手が何を言っているかを聴こうとはしません。
それを見ながら、神様の前に私たちも自分の言いたいことだけを言って、神様が言おうとしていること、語ろうとしていることを聴こうとしていない。聴こうとする心がなければ聴くことができません。だから、17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるか」。神様の御思いを聴くということです。神様の思いを知るには、自分の力、自分の知恵ではできません。神様の御思いを語ってくださるのは御霊です。聖霊です。神の霊に満たされなければそれを知ることができない。神様の御霊によって教えられることが大切です。そのためにどうするか?
ローマ人への手紙12章1,2節を朗読。
2節に「あなたがたは、この世と妥協してはならない」。この世の生き方、この世の考え方、この世の価値観は、神様の御思いとは相反する事柄です。なぜならば私たちの住んでいる世の中は、愚かな者、言い換えますと、神を畏れない、神を認めようとしない人々です。その中に、私たちが遣わされているのです。置かれている。ですから、この世と調子を合わせてはいけない、とも言われています。私たちがまずこの世と、この世の考え方と決別せざるを得ないことがあります。どうするかと言うと「心を新たにする」、白紙になることです。自分の思いを空っぽにする。造り変えられることです。私たちが自分のものではなくて、キリストのものとなって生きる。主の御思いに、キリストを思う思いに心を委ねていくこと。これが造り変えられることです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(2コリント5:17)。「キリストにある」者となることです。ですから、最初に申し上げましたように、私はキリストのものですと、もう自分のものではありません、これはキリスト、イエス様、神様、あなたのものなのです、と自分をささげてしまうこと。そこに新しく造り変えられる私たちの生き方がある。そして「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。それは御霊によって教えられていくことです。私どもが造り変えられ、心を新たにして神様のものとなりきっていくときに、主の御霊が注がれます。主の霊が私たちを握ってくださる、支配してくださる。思いを導いて、私たちの考えもしなかった、思いもしなかった神様の御心に、私たちを導きいれ、引き入れてくださいます。
ですから、どんなときにもお祈りをして、神様に心を空っぽにしていただいて、そしてキリストの霊に満たされ、そこから今度は「主よ、何を語ってくださいますか。あなたの御心は何でしょうか? 」と、心を向けて聴く者となっていきたいと思います。そして主が導かれることがあるならば、確信を持って、「これは主が私に備えてくださったことです」と、「主が求めていらっしゃることです」と信仰を持って与えられた時間を、また力を、知恵を、財を、一切を神様の御心にかなうものとして用いていきたい。自分の損得・感情に支配されず、そのような世と妥協しないで、それから離れて心を新たにして、主の御旨、主の御心を求めて祈るならば、主が私たちの心と思いに確信を必ず与えてくださいます。「これは今私に神様が求めていらっしゃることです」。そう信じたら、人がなんと言おうと、あるいは誰がどう言おうと、私のすべきことはこれです、とはっきりして、神様の前に生きる者となりましょう。
エペソ人への手紙に戻りますけれども、5章17節以下に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて」とあります。神の霊に満たされ、導かれて神様の御心にかなう、あの5タラント、2タラントを預かった人のように、与えられた私たちの地上の時を神様のものとして、私たちのすべてを神様のものとしてささげて、御心を行う者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。
15節に「歩きかたによく注意して」と勧められています。「歩きかた」、これは私たちの生活のことであります。朝から寝るまで、寝ているときもそうでしょうが、日々生きている生活状況、それを「歩き方」と語っています。私たちは毎日の生活で、どこへ行こうか、買おうか買うまいかと、いろいろなことを絶えず取捨選択、選んでいます。その一つひとつの事、これが「歩きかた」であります。
その後に「賢くない者のように」「賢い者のように」とありますが、「賢い者」とは、決して学校の成績が良いとか悪いとか、偏差値が良いとか悪いとか、そのような話ではないのです。「賢い」といいますのは、神様を畏(おそ)れ敬う人のことです。詩篇に「愚かなる者は心のうちになしと言へり」(文語訳14篇1節)と記されています。神様を畏れようとしない者、これが「愚かな者」。「神様なんか居るものか」、「神様なんか、信じるものか」という生き方、これは「愚かな者だ」と言われるのです。それに引換え「賢い者」とは、神様がいらっしゃること、そして神様の手によって生かされ、命を与えられている者であることを感謝し、認める者のことです。
私どもは、自分の思い、願い、欲望がいつもあります。人からどんなに勧められても、「それは嫌だ」とか、「これはよいことだ」、あるいは「これは助かる。私の願っていたこと」と、常に私たちの判断といいますか、物事を決めるときの基準は自分の立場、自分の利益、自分の好きや嫌いなどで、そのようなものによって判断します。あるいは、その日その日の気分にも左右されるかもしれません。天気がいいと「今日は、ひとつどこかへ出かけようか」とパッと明るい気持ちになります。ところが、どんよりと曇って肌寒い日になりますと「今日はなんにもしたくない」と沈んで、あれもやめよう、これもやめよう。あれをしたいと思ったけれども、やめとこうと、だんだん落ち込む。そのようにいつも自分を中心にして、自分が好きか嫌いか、良いか悪いか。あるいはしたいか、したくないか、感情といいますか、そのときの衝動によって行動します。物を買うときにも「衝動買い」という言葉がありますが、気分が乗らない、あるいは嫌なことがあって、あるいは人とケンカしたり仲たがいしたりしてうまくいかないときなど、どこかへ出かけて行ってお財布にあるだけのお金で、適当にその辺の物をパパッと買ってしまって、後で冷静になって「しまった。こんなものを買わなければよかった」と悔やむ。そのような衝動買い、そのときの気分、そのときの思いで時間を費やしてしまいます。
ところが、先ほど申し上げました「賢い者」というのは、どのような人かといいますと、それは神様を恐れかしこみ尊ぶ人のことです。神様がいらっしゃることを信じる人のことです。それは、私たちが神様のご計画と御思いによって、この地上に命を与えられていることを信じる者です。私どもは、かつてはそのような神様を知らずにいたのですが、神様の憐(あわ)れみによって、主イエス・キリストのあがないにあずかって、神のもの、神様の所有とされました。ですから、かつては自分のものと思っていたのですが、今では、自分のものではなく、神様のものとなっています。神様を畏れ敬うということは、私たちが神様に造られて、神様のものとされていることを信じることです。イエス様の救いはまさにこのことなのです。だから、コリント人への手紙に、私たちは「自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(2コリント5:15)とあります。
「時間」を例にとって、自分のものではないということを、考えてみてください。私たちは一日に与えられた時間、24時間をみな均等に持っています。あの人だけは23時間らしい、私は25時間あるとか、そのようなことはありません。みな平等です。年を取っても、若くてもみな一日24時間の時間があります。神様を知らないときは、その時間を自分の思いのままに使っていました。しかし、今は私たちに神様から託された時間であって、わたしのものではないのです。神様の時間なのです。それを自覚して生きている人は、案外と少ないのです。
ときに銀行に行きますね。そうしますと、非常に長く待たせられる。客が多いとき20分、30分待ちます。そのうちに番号を呼ばれ、窓口に行きますと「お待たせしました」と言われる。私は、「はい、待ちました」と言うのです。そうすると、はぁ、というような顔をしてこちらを見て、申し訳なさそうにしますが、「待ちましたよ」と言います。時には、もう一言「時間給が千円だったら、30分待つと幾らだと思う? 」と言いたいのです。30分待つことは五百円の損失。しかし、銀行の利息は五百円もくれません。考えてみますと、平気で待たせるのです。レストランに行ってもそうです。そこで働いている人は時間給で働いていますが、お客さんの時間は無料だと思っているのです。
そのようなことを考えると、私は銀行やレストランのことではなく、神様の「時間」を盗んでいるのではないかなと思います。神様は、一年間365日、一日24時間、一人一人に均しく預けておられる。また、この地上における齢(よわい)の年、生きる年月を与えてくださいます。ただこればかりは均等ではありません。それぞれ個人個人、ある人には60年、ある人には70年、ある人には100年、嫌でもそうなるのです。その違いはあるとしても、それぞれに神様が託していらっしゃる……。私たちに神様が託してくださった時間、また健康が与えられ、それぞれの家族が与えられ、いろいろな業を神様が備えてくださっている。ですから、絶えず私たちは神様のものをあずかって、それを使っているのです。そのような自覚があるでしょうか?私の時間だから、私の好きなようにしたい。それでは、私たちはイエス様の救いにあずかってあがなわれた民、神のものとなっている、と言うことはできません。
ですから17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」と言われるのです。ところが、どうして主の御旨を悟らなければいけないの、と思います。私たちの持っているものは全部、自分のものだと思っているからです。しかし、イエス様の命で贖われた私達は、もはや私のものはありません。私のものではなくて神様のものなのですから、その時間を使うにしても健康を使うにしても、あるいはいろいろな事柄の中に置かれるにしても、その一つ一つすべてが、これは神様のなさる事です。それを私たちが勝手に盗んでいる。だから、マラキ書に神様が「あなたがたは、わたしの物を盗んでいる」(3:8)とおっしゃる。そこには「十分の一」の献金について語られていますが、必ずしもその「十分の一」の献金という事だけではなく、実は、私たちのすべてがこれは神様のものなのだ、ということがあって、その証しとしての「十分の一」のささげものがあるのです。「十分の一」だろうと幾らだろうと、これは、私のものではなくて神様のものなのですということを証しするためです。
だから、礼拝で献金なさるとき、自分の物を取られた、と思うのは間違いです。神様のものを私が使っているのです。それはお金だけではなくて、一週間の時間も、また健康も、家族も、私たちが与えられた一つ一つの業のすべてが、実は神様、あなたのものですと、その証しとして、その印としてささげるものです。ですから、礼拝で献金するとき、そのような思いを持って心から感謝してささげてご覧なさい。額の多少にかかわらず、私たちは「今日も主のものだな」と、そのような喜びと信仰が与えられるのです。そして、一週間の日々も、全部神様のもの。そうなると、それをどのように使うか、どのように用いたらいいのか、私たちがいくら考えても分からない。やはり、託してくださった方に、それを聴かなければいけないでしょう。
マタイによる福音書25章14節から30節までを朗読。
ここにタラントのことが記されています。主人がそれぞれ僕にタラントを託しました。そのとき主人の意図は何であったか? 能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントをあずけた。その主人の主旨は何であったかといいますと、自分の留守の間に預けておくから、それを増やしてほしい、という意味であり、そのまま持っておけ、という意味で預けたわけではない。あるいは、お前が好きなように使え、と言って主人が預けたお金でももちろんないですね。そうすると、主人の意図はどこにあったかと言うと、なんとか増やすようにと、それが僕に求められる主人の思いです。やがて主人が帰ってきまして、清算をいたしました。20節に「すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』」。5タラントを預かった人はそれを持って行って、商売したか何か、それでもうけて、さらに5タラントを増やしました。それでご主人が帰って来ましたから「こうしてもうけました」と、あなたから預かったものをこのように使いましたと、報告した。それに対して21節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」。ここに「良い忠実な僕よ」と主人から言われました。「忠実」ということはどのようなことなのでしょうか?僕である彼は、その主人に対して忠実であるとは、取りも直さず主人の心に忠実である、思いに従うことです。だから主人が一言言ったら、その言葉の奥の奥までくみ取って「ご主人はこういうことを願っている」「ご主人がこういうことを私に期待しているのだな」、そのようなことを知ることです。これは私たちの生活に大切なことです。
最近、よく経験することですけれども、ファミリーレストランなど、そういう所に行きますと、連休などで忙しいとき、アルバイトの人が来ます。見ているとなかなかスムーズに事が運ばない。だんだんいらいらして、自分が立って行って何かしてやりたくなる。若い人は、言われた事だけ、「これをあのテーブルへもって行きなさい」と出来上がった料理をお盆に載せて運んで行きます。それで並べます。戻るときに空の盆を持って帰るだけ。横には食べ終わったものが置いてあるのですが、それを下げようとしない。持って行ったら空手で帰らないで、拭くなり、あるいは汚れたものを集めて下げるでしょう。空のお盆を持って帰って、主任から「片付けろ」と言われたらまたやって来て片付ける。私は注文しようと待っているのですから、なぜ注文を聞いた上で片付けないのかと思います。片付け終わって汚れたものを持って行ったら、また主任から「注文を聞いて来い」と言われて、待っている人の所へ行く。私はそれを見ながら「これからの日本は滅びだな」と思います。そのような人が多いのです。それは家庭でも教育がされていないのです。子供のときから、それこそ幼稚園、あるいはもっと小さいときから、家庭でお手伝いをする。そうしながら、物事を順序立てて考える思考力を身に付けて行くのです。これをするとき、こちらをしておいたら、もっとうまくいくのではないかと考える。アルバイトとして雇われてはいるけれども、そこで果たすべき仕事、雇われた目的を自覚して、雇った人の意図を実行する。ただでバイト料をやるために雇ったのではない。そこに来るお客さんに気持ちよく食事をして、楽しんで帰ってほしいという、そのような主人の主旨があるではないですか。「いや、それは言われていません」「聞いていません」と、言い訳をします。「僕」(しもべ)という言葉の意味が分かっていない。若い人たちの物事の理解力といいますか、そのようなものが欠けてきたなと非常に感じます。人間の質が落ちてきてしまっている。それを育てきれていない。またそのような子供が親になってご覧なさい。その子供たるやもっとマイナスです。
ここでイエス様はそのようなことを語っているのです。主人がタラントを渡してくれた。「主人が預けたのだから、これを持っておけばいいのだろう」と、若い人だったらその程度で終わるのです。帰って来たら、返してやればいいのだ。減りもせず増やしもせず、あなたから預かったからそのまま置いておいたよ。逆に預かり賃くらいもらいたい、と言われるかもしれませんね。ここでイエス様が語っているのは、「良い忠実な僕」になることです。「忠実」とは、主人の思いを知る。「思いを知る」と言うのは、ただ言葉面(づら)だけではないのです。だから聖書もそうですね。聖書の御言葉を字面(じづら)だけで読む限り、神様の思いは分かりません。言葉の背後に隠れている、言葉の奥に潜んでいる、一つの言葉ではなく幾つかの言葉を通して、あるいは聖書全体を通して、私たちに知ってほしい、悟ってほしいと願っている神様の御思いを知るのです。それを悟ること、これが「忠実な僕」になる第一歩でしょう。ですから21節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」と。本当にこの主人は喜んでくれます。
2タラントの人も同じことです。23節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」。5タラントの人も2タラントの人も、全く同じ言葉で褒められています。ご主人にとって2タラントの人が2タラントをもうけることも、5タラントの人が5タラントをもうけることも同じことなのです。同じ喜びだったのです。決して神様は私たちを「お前は2タラントだから2タラント分の褒美だけやろう」なんては言わないのです。神様は朝10時から働いた人も、夕方4時から働いた人にも等しく報いてくださるように、能力の多い少ないではない。どれほど忠実であるかを見ていらっしゃいます。ですから、私どもは与えられた、今託せられている自分の健康にしろ、あるいは一日24時間の時間にしろ、これをどのように使うのか、どういうように神様の前に忠実な僕として、それを託せられたものとして応えていくか、これは私たちの求められている大切なことです。ですから、勝手に自分がしたいから、自分は嫌だから、自分が衝動的に、あるいはそのような感情に動かされて生きているとするならば、これは神様の与えてくださった、託してくださったものを浪費してしまう、無駄に使っている。やがて、「お前、私の預けた時間を無駄にして」と叱られます。
もう一度初めのエペソ人への手紙5章17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。これは絶えず私たちが求められていることです。主の御旨が何であるか。「神様、ここで何をどのようにしたらいいのでしょうか、私のするべきことは何でしょうか」。「神様、あなたの思いはどこにあるのでしょうか」。絶えずその事に心を向けていく。いろいろなことを、瞬間的に判断を求められることはもちろんあります。家族から「お母さん、これどうするの」と言われる。「待って、待って」と言いながら、パパッとそろばんが浮かんでくる。電卓が出てくるのではなく、そこで「主の御旨は? 」と、しばし待って、お祈りをするのです。この礼拝でも教えられましたように「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)、お祈りをする。お祈りとは、逆に聴くということでもあります。私たちは思いを神様に全部打明ける、そして平安をいただく。「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。平安が与えられる。そしたら、今度は「主は何とおっしゃるのか」、「神様は私に何を求めていらっしゃるか」と神様の御声を聴く。これが祈りです。私どもは、「求めよ」と言われるから、「はい、言います」とバンバン言いっ放し、「スーッとした」となりますが、それは違います。神様の前に祈って、心の思い煩いを一切神様の前にささげて、そして神様の平安をいただく。そして、そこから「主よ、では何をしたらいいのでしょうか。私はどのようにすべきでしょうか? 」と、本当にへりくだって、主の御声を聴く者となること。これが祈りです。それによってお祈りが完結するのです。言いっ放しではなくて、語って聴く。往復ですよ。主との交わりはそうです。人ともそうです。一方的にしゃべりっ放しでは意思疎通ができません。
知り合いの子供さんで、小学校のころ、とにかく自分のいいたいことだけを言うのです。「先生、学校でこんな事があった、あんなことがあった。そしてこうして、僕がこうして、ああして……」、「ああ、分かったからちょっと待って」とこちらが質問をしますとそれには答えないのです。「昨日は運動会だったけれどもどうだったの? 」、「いや、それがね、僕の何とか、クラブがどうだとか」と。「だから、昨日の運動会はどんな結果だったの? 」「僕の友達がね」と全然聴こうとしない。言いたいことだけ……。どうも最近の小学生の会話を聴いていますと、お互いが言いたいことを言い合うだけで、話題のやり取りといいますか、一つのテーマでどんどんそれを膨らませて、共通の言葉の世界を作ることができないのです。自分の言いたいことだけ独り言のごとく語る。教会学校に来ています子供たちの様子をちょっと見ていますと、どうもそのような感じがするのです。友達同士で遊んでいても、ばらばらです。言葉を投げかけあっていますが、それは自分の言いたいことだけを言っているだけで、相手が何を言っているかを聴こうとはしません。
それを見ながら、神様の前に私たちも自分の言いたいことだけを言って、神様が言おうとしていること、語ろうとしていることを聴こうとしていない。聴こうとする心がなければ聴くことができません。だから、17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるか」。神様の御思いを聴くということです。神様の思いを知るには、自分の力、自分の知恵ではできません。神様の御思いを語ってくださるのは御霊です。聖霊です。神の霊に満たされなければそれを知ることができない。神様の御霊によって教えられることが大切です。そのためにどうするか?
ローマ人への手紙12章1,2節を朗読。
2節に「あなたがたは、この世と妥協してはならない」。この世の生き方、この世の考え方、この世の価値観は、神様の御思いとは相反する事柄です。なぜならば私たちの住んでいる世の中は、愚かな者、言い換えますと、神を畏れない、神を認めようとしない人々です。その中に、私たちが遣わされているのです。置かれている。ですから、この世と調子を合わせてはいけない、とも言われています。私たちがまずこの世と、この世の考え方と決別せざるを得ないことがあります。どうするかと言うと「心を新たにする」、白紙になることです。自分の思いを空っぽにする。造り変えられることです。私たちが自分のものではなくて、キリストのものとなって生きる。主の御思いに、キリストを思う思いに心を委ねていくこと。これが造り変えられることです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(2コリント5:17)。「キリストにある」者となることです。ですから、最初に申し上げましたように、私はキリストのものですと、もう自分のものではありません、これはキリスト、イエス様、神様、あなたのものなのです、と自分をささげてしまうこと。そこに新しく造り変えられる私たちの生き方がある。そして「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。それは御霊によって教えられていくことです。私どもが造り変えられ、心を新たにして神様のものとなりきっていくときに、主の御霊が注がれます。主の霊が私たちを握ってくださる、支配してくださる。思いを導いて、私たちの考えもしなかった、思いもしなかった神様の御心に、私たちを導きいれ、引き入れてくださいます。
ですから、どんなときにもお祈りをして、神様に心を空っぽにしていただいて、そしてキリストの霊に満たされ、そこから今度は「主よ、何を語ってくださいますか。あなたの御心は何でしょうか? 」と、心を向けて聴く者となっていきたいと思います。そして主が導かれることがあるならば、確信を持って、「これは主が私に備えてくださったことです」と、「主が求めていらっしゃることです」と信仰を持って与えられた時間を、また力を、知恵を、財を、一切を神様の御心にかなうものとして用いていきたい。自分の損得・感情に支配されず、そのような世と妥協しないで、それから離れて心を新たにして、主の御旨、主の御心を求めて祈るならば、主が私たちの心と思いに確信を必ず与えてくださいます。「これは今私に神様が求めていらっしゃることです」。そう信じたら、人がなんと言おうと、あるいは誰がどう言おうと、私のすべきことはこれです、とはっきりして、神様の前に生きる者となりましょう。
エペソ人への手紙に戻りますけれども、5章17節以下に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて」とあります。神の霊に満たされ、導かれて神様の御心にかなう、あの5タラント、2タラントを預かった人のように、与えられた私たちの地上の時を神様のものとして、私たちのすべてを神様のものとしてささげて、御心を行う者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。