Feel Free ! アナログ・フォト・ライフ Diary

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モノクロ? カラー?

2005-05-23 07:37:20 | ストリートスナップ
出発が迫ってきてなかなかに忙しい日々が続いている。更新があまりできてなくてスミマセン。もっとも、ただでさえ忙しいのにスペインのモノクロプリントを60枚も焼いたりしているからいけないのだが。

さて、そのスペインの写真だが、日曜日の暗室開放で始めてネガカラープリントに挑戦した。カラーは完全暗黒での作業なので大変だけれど、その結果はやっぱりカラーもいいな、と思わせるものだった。写真自体は何気ない風景でも、色がついているだけで訴求力を持ち得るのはカラーならではの持ち味だと思う。ただ、自分としては、カラー「も」いいな、というところが肝心なのであって、やはりモノクロに対するこだわりはものすごく強いものがある。

ところが、モノクロスペインとカラースペインを見比べていた師匠には「カラーの方がいいね」と言われ大ショック。「カラーもいいね」ではない。「カラーが」いいね、なのである。

師匠が言うにはモノクロ編は先が読めてしまうが、カラーは先が読めないんだそうな。

自宅に戻り、冷静になって師匠の言葉を考えてみた。すると、師匠の言葉の意味がなんとなく分かるような気がしてきた。

少しモノクロができるようになってくると、どういう風景がモノクロとして「映える」のか、どう撮れば「かっこよく」見えるのかが何となく分かってくる。ところがそれがくせ者で、ついついスタイルから入ってしまうと、「かっこよく」はあるが、どこかで見たようなイメージばかりが量産されることになる。

対してカラーの方は、どう撮って良いのか分からずにほとんどモノクロ撮影の合間に気まぐれのようにシャッターを押していた。特にローライでの撮影では速射するわけにもいかず、構図なども特に考えることなく気ままにポツポツと撮っていた。それがかえって良かったのではあるまいか。

話は少しそれるけれど、スペインで写真集を一冊購入してきた。クリスティーナ・ガルシア・ロデオという女性写真家によるモノクロ撮影で、東京都写真美術館の「スペイン現代写真家10人展」で見て以来、気になっていたひとりだ。

その写真集を日本に帰り今日になって始めて繙いた。先に見てしまうと、へこんで、自分の写真を焼くのがおっくうになってしまうのでは思い、見るのを先延ばしにしていたのだった。

やはり、すごい、と思う。そこに写っているのは確かにスペインだが、我々が知っているステレオタイプ化されたスペインでは決してない。いわゆる「かっこいい」「スタイリッシュな」写真ではないが、作品としての訴求力に溢れた写真たち。そうした写真群は何も彼女がスペイン人だから撮れたのではないだろう。日本人だからといって日本の写真が撮れるわけではないのだから。

彼女の写真を見ているうちに、無性に日本の、東京の写真が撮りたくなってきた。
撮りたいと思いつつ、なかなか作品にならなかった我が故郷・東京。その迷いが、カラーを撮ることでひょっとして吹っ切れるのではと期待している。だがそれは最終的にモノクロに行き着くまでのひとつの過程だと思いたい。なぜなら、モノクロを撮りたいというのが、2Bワークショップに参加した最大の理由なのだから。モノクロ写真こそが自分の原点であり、終着駅なのだ。

ある旧友の死(3)

2005-03-27 23:36:31 | ストリートスナップ
 それからしばらくして、その男に一言礼を言って別れたぼくは、再び店の正面に立っていた。
 静かに手を合わせ、しばらく目をつぶってから、焼け跡にレンズを向けてカメラのシャッターを切る。一度、二度、三度。カウンターの残骸、焼けだたれた自転車、割れた窓ガラス。カメラのレンズは残酷に廃墟の品々をフィルムに焼きつけてゆく。もちろん、そうした行為が受け取る人によっては不快に感じられることは百も承知だが、それもぼくなりのMに対する弔い方だったのだ。
 そして、最後にもう一枚、店全体をカメラに収めようとしてファインダーをのぞいたときだった。ふいにぼくの脳裏に天啓のようにある考えがひらめいた。
 それは旧友Mの死が、国立という町の歴史と実はパラレルな関係になっているのではないかという、突飛ではあるが確信にも似た思いだった。

 「国立」と聞いた時、東京の人々はどんなイメージを思い浮かべるだろう。「暮らしやすい街」、「明るくてそこそこお洒落な街」、「文化的な街」、だいたいそんなところだろうか。だが、その昔、ぼくが小中学校を過ごした70年代という時代には、国立は東京であって東京ではない、単なるひとつの田舎町に過ぎなかった。平屋の都営住宅は隣の物音が筒抜けだったし、あまたある空き地は雑草が伸び放題という有様。そんな環境の中での生活は、もちろん決して豊かではなかったけれど、地域に活気が漲っていたこともまた事実であった。近隣の人々の間には密接なご近所づきあいが存在していたし、ぼくら子供たちは地域の仲間と連れ立って、遊びに、悪さにと連日駆け回ってばかりいた。そして、その地域の活気を支えていたのが、コミュニケーションの場としての、割烹やら八百屋やらといった個人経営のこじんまりした店だったのだ。
 ところが、そんなコミュニティーが、バブリーな80年代に入ると急速に崩壊してゆく。平屋のアパートは取り壊されて無機質な団地に代わり、大手スーパーが進出してくると、あちこちに点在していた個人経営の店が次々と姿を消していった。街が便利で豊かになればなるほど地域のコミュニティーが崩壊してゆくという矛盾。それは「文化的な町国立」の洗練されたイメージに対して、ぼくらが支払った代償だったのではないか。
 その意味で、Mは決していわゆる洗練された男ではなかった。いや、はっきり言ってしまおう。彼は鈍くさい男だったし、母親の経営する飲食店「かあちゃん」も、その名のごとく田舎っぽい大衆的な飲み屋に過ぎなかった。だが、昔はそんな鈍くささ、田舎っぽさにもそれなりに居場所はあったのだ。2005年の現在、国立駅周辺にはお洒落な店が建ち並び、豊かで落ち着いた暮らしを求めて沢山の人々が集まって来ているが、街の中心が洗練されてゆけばゆくほど、周辺部はただ形式のみスマートな、空疎で無機質な場所に変わってゆく。そして今、またひとつ国立は「田舎」を失ったのだと思う。それももっとも端的な形、「焼失」と「人の死」いう形で。

 弔いを終えて、とぼとぼと富士見通りから国立駅へと引き返しながら、ぼくは映画のことを話している最中に見せた、Mの笑顔を思い出していた。内気なMが時折見せる無垢な子供のように素直な笑顔。そして、その想い出を確かめるようにもう一度後ろを振り返ったぼくの目に、郵政研究所の向こうからこちらを威圧するかのように見下ろしている巨大なマンションの姿が映った。

(了)

ある旧友の死(2)

2005-03-27 00:26:52 | ストリートスナップ
 その日、ぼくは雨がぽつぽつと降り出す中を国立まで出かけていった。むろん、火事の起こった現場を一目見たいと思ったからである。別に焼け跡に行ってどうしようという考えがあったわけではない。ただ、何かの痕跡を求めて、自分にもはっきりこれとは名指すことができない何かしらの痕跡を求めて現場に向かったのだった。
 到着したぼくを待っていたのは、無惨にも焼けただれた「かあちゃん」の姿だった。現場にはまだほのかに焦げ臭い匂いが漂い、通りには消火作業の跡だろう、泥と灰が入り混じったような汚水が黒々と小さな水溜まりを作っている。街路に面した小窓にはガラスがなく、ただ格子だけが炭になりながらもかろうじて形を保っているのが、かえって火災の激しさを際だたせているようだった。

「まだねえ、何も決まっていないんですよ」告別式の予定を訊ねられて、近くの寿司屋の主人はやや困惑気味にこう答えた。「何しろ急なことだったから」。それはそうだろう。ぼくとしても長年連絡を取らずにいたのに、急に友達面して告別式に出ようなんて思ったわけじゃない。ただ、最近の彼がどうしていたのか、そのことには関心があった。記事の中では店を切り盛りしていたのは母親の方で、同市内に住むMが時々手伝いに訪れていたとだけあったのだ。

「どなたか身よりの方はいらっしゃらないんですか?」ぼくが再びそう訊ねると、向こうは一瞬考えこむような表情を見せていたが、「うーん、身寄りと言ってもねえ」と言ってから、
「まあ、奥さんと子供もいるみたいだけど、なんか色々あるらしくて……」
その奥歯に物が挟まったような口ぶりから、最近の彼の生活が、少なくとも満ち足りたものではなかったことを、ぼくは悟った。

(続く)

ある旧友の死(1)

2005-03-25 19:09:42 | ストリートスナップ
 ある朝、何気なくインターネットのニュース記事に目を通していると、「深夜の火災で二人死亡東京・国立」と題された共同通信の記事が目がとまった。火災の死亡記事は別段珍しくはない。だが、国立のことが事件記事として新聞に載ったとすると話は別だ。国立はぼくの生まれ育った土地だった。
 ところが、10行にも満たないその記事の全文に何気なく目を通したぼくは、思わずあっと声をあげていた。母親と共に死亡したとされる息子の名前が、中学時代の同級生とまったく同じだったからである。慌てて記事の内容をもう一度確認してみる。火事があったのは飲食店「かあちゃん」。もう間違いない。あいつだ。

 その友達─ここでは仮にMとしておくが─と親しくなったのはたぶんクラス替えのあった中学三年生の時だったと思う。当時のMは友人も決して多いとはいえず、内気で、その太めの体格から受けたぼくの第一印象は何だかもさっとした奴だなあということだった。はっきり言って成績だってクラスのどん尻辺りをうろうろしていたくらいのものだったが、どうしたわけか、そんなMとぼくは妙に気があって三年生の間中いつもつるんでは先生たちに、まるで凸凹コンビだね、と不思議がられていた。
 今でも良く覚えているのは、通学途中に毎朝必ずMの自宅に立ち寄っては、彼を起こして一緒に学校に通っていたことだ。どうしてそんなことになったのかと言えば、もはや記憶が定かではないのだけれど、きっと当時から店の切り盛りで大変だった彼の母親に頼まれて(彼は母子家庭だった)、店から少し離れた所にある彼のアパートに毎朝ピックアップに行っていたのだろう。
「○○○くーん!!」戸口の前でぼくが大声で呼びかけると、決まって今起きたばかりといった風情のMがのそりと顔を出し、「ちょっと待ってて」と言い置くと再び部屋の奥に引っ込んでしまうのだ。そんな彼を、ぼくは「早くしろってば」とせかしながら待っていたものだが、あちらの方はぼくの苛立ちを知ってか知らずか、相変わらずもそもそと着替えをしながら大して慌てた風もなく「やあ」と言って澄まして出てくるのが常だった。気のいい奴で、一言文句を言ってやろうと思っていても、のほほんとした彼の顔を見ているうちに、まあどうでもいいや、という気になってくる。これも人徳といえば、不思議なMの人徳ではあった。

 そんな風に毎日つるんでいたぼくたちだったけれど、その関係は決してお互いに何でも話せるような腹を割った「親友」同士ではなかったと思う。ぼくにも彼にも、そうしたべたべたとした人間関係を嫌っている風があり、それ故に集団に対してどこか距離を置いてしまうところがあったのだが、今思うと、そんな二人のどこか不器用な性癖が互いの個性を越えて共鳴し合う部分があったのではないだろうか。だが、そうした言ってみれば同病相憐れむがごとき関係が長続きするはずもない。中学を卒業し、それぞれ別々の高校に進むことが決まると、自然とぼくらは疎遠になった。それ以来、「オレ、年賀状貰っても返事は出さないことにしているんだ」ときっぱり言い切る彼に連絡を取ったことは一度もなく、彼の名前を耳にすることもついぞなかった。そう、まったく偶然に彼の死亡記事を目にするまでは。

(続く)

額装

2005-03-18 21:38:15 | ストリートスナップ
この二日新宿でスナップをしていたので今日は一日暗室作業。ベタ6枚と試し焼き十数枚、昼前から始めて夕方までずっとプリント作業にいそしんだ。本当はもう少し焼きたかったのだが印画紙がなくなりやむなく終了。

焼いたのは東京を撮ったプリントだが、まあまあなのは2、3枚か。やっぱり日本の都市を撮ったものは何となく漠然とした印象になってしまう。まあ、東京そのものが混沌とした街なのである意味やむを得ない部分はあるのだろうけれど。

さて、プリントが早めに終わったので、先週末に届いた額とマットを使い、グループ展の展示作品を額装してみた。白手袋をはめ、マットにコーナーを張って一枚一枚丁寧に額に入れてゆく。こんなことをしていると、何だかいっぱしの写真作家になった気分になり、出張以来忘れかけていた(写真に打ち込んでいる時に感じる)高揚感が久々に戻ってきた気がした。

それにしても、額装し終わった自分の写真を見てつくづく思うのは、やっぱりモンゴルを撮った写真の方が地に足がついた感じがするということだ。日本だと無意識のうちに他の写真家が撮った過去の東京のイメージが頭に浮かんできてしまい、シャッターを押す際に余分な力が入ってしまうらしい。やっぱり自分の写真の原点はモンゴルにあるのだと再確認した次第。

というわけでグループ展まで残すところあと二週間ちょっと。そろそろDMの発送準備にかかろうかと思っていますので、まだ届かないのだが、と思っている方、もうしばらくお待ち下さい。

久々に……

2005-03-16 22:59:26 | ストリートスナップ
ようやっと確定申告も終わり、翻訳や事務処理も片づいたので、今日は夕方から新宿で久々のスナップ。

先日も書いたことだが、実は一週間で50本撮るという「無謀な」計画を立てており、いよいよその計画が発動したというわけだ。なぜ50本なのかと言えば、某書で森山大道が最近の若い人は50本撮ってこいという課題を出しても全然撮ってこないと嘆いていたからで、それじゃあいっちょう、俺が挑戦してやるかと思ってしまったが運の尽き。若気の至りならぬ、おじさんの至りというところである。何でも森山氏によれば撮れないというのはその人の持っている欲望が薄いせいだということになるらしい。

ぼくは彼の言うところの「欲望」というのは「飢餓感」のようなものではないかと思っている。「撮りたい」という「飢え」を満たすものとしての「撮影」という行為。そういえば、昨冬、モンゴルに行った際に、現地の人とのちょっとした軋轢から精神的にやや落ち込んでいた時期があったのだけれど、そんな際に勢いに任せて撮った写真というのは結構いい線いっていたようにも思う。ちょうど雪が降ったときで、荒涼としたモンゴルの平原の光景が、妙に自分の心象風景にマッチしているような気がしたのを覚えている。

もっとも、こんなことを考えてゆくと、「満たされていてはいい写真が撮れない」とか、「幸福は芸術の敵である」とか、そんな風に深みにはまっていくのが怖いところではある。何だか、チャンピオンになってハングリー精神を失ったボクサーみたいな言いぐさだが、まあ、今のところまったく満たされた気がしてないところがせめてもの慰めか。確定申告があるたびにまるでタコが自分の脚を食って生き延びているような気になっているうちは心配ないということなのかもしれない。失うものは何もないので、とりあえずは50本撮りきることに専念してみよう。

年上のひと

2005-03-11 14:14:18 | ストリートスナップ
帰国してはや一週間経つが、今ひとつ調子が出ない日々が続いている。通訳業務の事後処理(翻訳)やらその他(業務とは関係のない)事務処理等もあって写真に打ち込めない。本当はこのところ写真が撮れなかった反動を利用して一週間で50本撮影する、という無謀な計画を立てていたのだが、この分ではもう少し先の話になりそうな気配。

ところで、先日調査団の話を書いたけれど、今回のメンバーの中に関西のとある大学に勤める助教授がいた。実は正直言って、これまでは大学勤めの教育関係者には頭が固いのが多い、というイメージが頭に刷り込まれていたのだが、彼女に出会ってそんなイメージがあっさり覆されてしまった。

あまり細かいことは差し障りがあるので省くけれど、要するに彼女は大学に職を得る前は数十年に渡って実際の教育現場で教鞭を執って来た人であり、さらに言うなら個人生活においては極めて若くして結婚、出産、離婚を経験して以来、ずっとシングルを貫いているという、かなり「進んだ」おばさまなのだ。

ひょっとすると彼女のような「過去」を持っていることは、「真面目な」教育関係者からは眉をひそめられることなのかも知れない。しかし、そうした体験をしているからこそ、人間や人生に対して鷹揚で幅の広いスタンスが取れるのだと思うし、その意味では(生徒の個性を理解し大事にしてあげるという本当の意味での)教師に必要なのは良い意味での「不良性」ではないかとすら思うのだ。

彼女はぼくより10以上も年上だが、自立していると同時に女性としての「艶」を感じる人で、率直に言って年上の女性にこれほど魅力を感じたことはなかった(彼女は「よく夜のお仕事は何ですか」と聞かれるのだと言って笑っていたが、何となくそれも分かるような……って失礼かな)。

もちろん、そんな魅力的な彼女の写真をぼくが撮らないで済ますはずもない。モンゴルのとある韓国料理店でさりげに一枚撮らせて頂いた。その彼女の写真はいま、ぼくのブックの中にしっかり収まっている。

中藤さんからのメール

2005-02-08 01:41:26 | ストリートスナップ
このブログで触れたこともある中藤毅彦氏よりメールを頂いた。
というか、先日展覧会来場のお礼状をご丁寧に頂いたので、そのお礼のメールを送り、ついでにこのブログのこともお知らせしたのだ。
私信なのでそのままここに書き写すわけにはいかないが、中藤さんの人柄をしのばせるような真摯で誠実なメールだった。特に、中藤さんは、自分ははっとさせられた事物に反応して写真を撮っているだけで、それはストーカー的な視点とは違うのだと書かれていて、それこそこのところぼくが痛感している事柄でもあったので、大いに頷きながら、かつまた悩みを深めてしまった。
前に被写体を追い求めて枚数を撮れなくなってしまうことがあると書いたけれど、これはつまりモノを追っているだけで、イメージに反応しているのではないということだ。

理想を言えば、やはり究極的にはモノもヒトも等しくイメージとして等価に反応できることがベストだろう。
人へのアプローチも、被写体を追った結果ではなく、イメージに反応した結果として自然に出来るようになりたいものだと思うのだ。もっとも、ぼくにとってそれが一番難しいことではあるのだけれど、こうやって試行錯誤しながら徐々に自分らしさを身に付けてゆくのが写真行為の楽しさであり、同時に辛さなのかも知れない。

ピアス系

2005-02-05 10:43:42 | ストリートスナップ
 昨日、最後の暗室用品を買い出しに行き、帰宅してから引伸機をいじっていると、突然プッツン、とハロゲンランプの玉が切れてしまった。何たること。まだ何も焼いていないのに。しかもハロゲンランプはそこらのスーパーで簡単に手に入るような代物じゃないのだ。猛烈に腹が立ったが仕方がない。やむを得ず再び新宿へ。
 だが、不幸中の幸いということもあるものだ。中央線の中でまたまた魅力的な被写体に遭遇したのだから。それも今度は洋モノ(?)である。年の頃は二十代。彫りの深い美形で、身長180くらいはありそうなその体躯はモデルと言われても信じそうなほどである。もっともぼくが興味を引かれたのは単に彼女が美形だったからではない。ぼくの気を引いたのは実は彼女のピアスであった。何と彼女、その可愛い唇に、情け容赦なくピアスを三四本プスプスと刺しているではないか。この一点のみで、この娘はモデルではないな、とぼくは確信した。
 さてどうしたものだろう? ぼくとしては前回の二の徹だけは踏みたくないとの思いがある。けれど急いで出たのでライカはうちに置いてきてしまった。いや待て待て、そうだ、ジャンパーのポケットにGR1を放り込んであるはずだ。慌ててポケットを探ると、確かにそこにはコンパクトカメラのボディーのひんやりとして固い感触があった。
 これで腹は決まった。ぼくが立っている位置からは声をかけられないが、彼女もきっと新宿で降りるはずだ(となぜか勝手に決めつけていた)。降りたところで声をかけてみよう。
 で、新宿駅。思いが通じたのか、彼女も電車を降りて南口へ向かう。そこで、彼女がエスカレーターに乗ろうとしたところで、"Excuse me." と彼女の肩を軽くたたいて声をかけた。
"Can you speak Japanese ?" 
 すると間髪入れずに「ハイ、しゃべれます」と実に明確な日本語で答えが返ってくる。こりゃ幸先がいいぞと思いながら、意を強くしたぼくは今度は日本語で一息に言った。
「写真を撮らせて貰えますか?」
 一瞬、驚きの表情が彼女の顔によぎった。断られるかもしれない。だが、ぼくがそう思った次の瞬間、「ハイ、いいです」とこれまた明確な答えを彼女は返してくれたのだった!
 というわけで彼女には新宿駅の構内で何枚か写真を撮らせて貰った。
「どうもありがとう!!」撮影を終わって声をかけると、彼女はニコッと笑い、それからコートの裾を翻して人混みの中へ消えて行った。もちろん、ハロゲンランプが切れた時の怒りがとうの昔に収まっていたのは言うまでもない。

怒られるよりも……

2005-02-04 19:08:05 | ストリートスナップ
1月24日(月)
 巣鴨・地蔵通りの縁日(通称「4の日」)でお年寄りのスナップ。老人集団をウィリアム・クラインばりのクローズ・アップで撮ったろうかと思い立ったその意気は良かったが、ジジ・ババパワーに押されて思うようにカメラを向けられなかったり、もの売りのおっさんに「勝手に写真を撮らんでくれ!」と怒られたりと、労多くして収穫はなし。縁日は売り手と買い手が妙な一体感で結ばれた空間なので、写真を撮りたいだけのよそ者にはなかなかその場に溶けこむのが難しい。

 早々に巣鴨を引き上げ、新宿のヨドバシカメラで引伸機の物色をしてから中央線で帰途につく。

 ところが列車に乗りこんだところで、二人連れの中国人の女の子たちに出くわした。背の低い方はごく普通の格好だが、もう一人の背の高い子の方はお下げにした長い髪を腰までたらし、ピンクのコートにピンクのブーツという、まるでセーラー・ムーンにでも出てきそうないでたちである。
 「アリス」もそうだけれど、どうしてこの手の女の子に興味が引かれるのか自分でもよく分からない。別にコスプレの趣味があるわけじゃないし、どちらかと言えばこの手の女の子は苦手な方であるにもかかわらず、何故かカメラを持つとこうしたファンシー系の女の子に激しく興味を引かれてしまうのだ。さらにこの子の場合、その奇抜な格好とは裏腹に顔立ちにはどこか田舎娘風の純朴さが漂っている。そのミス・マッチがとても新鮮で、この娘を撮りたい、とぼくは痛切に思った。
 ところが、である。さてどうしたものかとぼくが逡巡しているうちに、連れの子の方が、ちらりとぼくの方に視線を送ってきた。しまった! 先に気づかれた! こういう場合、構わず話しかければいいのだろうが、とうに気づかれているところへさらに声をかけるのは普段の倍以上に勇気がいる。そんなわけで、躊躇しているうちに車内は乗客でいっぱいになり、これにてジ・エンド。返す返すも惜しいことをした。

 写真を撮った結果として誰かから怒られるのはさほど気にならない。なぜならそれは確かに被写体と対峙した証でもあるわけだから。けれど、撮りたくても行動に出れなかった時は苦々しい思いだけが澱のように胸の中に居座ってしまう。たぶん彼女とは二度と再び出会うこともなかろうが、あの時の鮮烈なイメージは、いつまでもぼくの心に大きなわだかまりとなって残ってゆくだろう。