Feel Free ! アナログ・フォト・ライフ Diary

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バライタ

2005-07-27 00:49:06 | 暗室にて
昨日あたりからようやく重い腰をあげてバライタプリントを始めた。このところすっかり頭がカラーモードになっていて、どうにもモノクロプリント、中でも一段と手間ひまのかかるバライタが面倒くさくてしかたなかったのだ。

だが、モンゴル展に提出するブック用にどうしてもバライタが欲しかった。カラーは本数をさほど撮ってこなかったのでカラーだけでブックをまとめるには点数が少なかったし、そうかと言ってモノクロのRCプリントを混ぜたのではカラープリントに力負けしてしまうように感じていたのである。

で、バライタ紙を使って冬のモンゴルを焼き直していったのだが、一枚目を焼き、暗室の電気をつけたところで驚いた。RCでは決して出せなかったトーンがバライタ紙の上に溢れるように出ているではないか。いや、自分のプリントであんなに驚いたのは始めてだった。

もともと冬のモンゴルはその出来映えを師匠に褒めて頂いたものだった。後にも先にもモノクロを褒められたのはその時くらいのものだが、それはともかく、冬のモンゴルがもともと豊かなトーンを持ったプリントだったことは確かだ。

だが、悲しいかな所詮はRCプリント。その紙としての存在感、銀量が豊富なことによる豊かな質感という点ではバライタプリントに一歩も二歩も劣ってしまう。

もっとも、このことは逆の言い方をするなら、バライタの美点を最大に生かすには、現像したもともとのネガフィルムが豊富なトーンを持っていなければならないということだ。それが証拠に、これ以前にバライタで焼いた東京シリーズは師匠にはやっぱカラーだね、と言われるし、ワークショップ仲間のIさんに到っては「海野さんってさあ、モンゴルのモノクロは良かったのに、なんで東京はぱっとしないんだろうねえ」などと言われる始末。

その時は「うーむ……」とひたすら唸っているだけだったけれど、冬のモンゴルを焼いた今、東京シリーズがてんで話にならん、ってのは良く分かります。もっとも、「なんで」っていう部分については未だにこっちが聞きたいくらいなんだけど(笑)

というわけで、ここしばらくは東京シリーズをカラーで撮りながら、モンゴルシリーズをバライタに焼き直してゆく作業を続けてゆこうと思っている。

ローライナー

2005-07-22 21:17:00 | カメラ
スペイン、モンゴルと立て続けにローライコードでカラーネガを撮り続けているうちに、すっかりローライでカラーネガプリント、というスタイルが気に入ってしまった。何より6×6というフォーマットが「カラーはシンプルに」というコンセプトを後押ししてくれるし、ローライのスローな操作性もシンプルな絵作りにはもってこいという気がするのだ。

さて、そうなってくるとがぜんローライをもっと愛用したくなってきた。今まではどうせ四万以下のカメラだし、と買った時のままフードもフィルターもつけずに使っていたのだが、やっぱ逆光にはフードは必需品だよなあ、とか、モンゴルみたいに埃っぽいところには保護フィルターもマストアイテムだし、などとあっさりと考えを改め、いそいそと中古カメラ屋めぐりに出かけてしまった。

ところが、インターネットで目星をつけておいた喜久屋カメラに行く前に、たまたまふと立ち寄ったマップカメラで、

「ローライB-1用 フード、ローライナー1.2、フィルター セット 31,500-」

というのを発見、胸の高まりを押さえつつ、即店員に声をかけて商品を見せてもらうことにした。

話は少しそれるけれど、ローライの欠点の一つとして、最短撮影距離が1mである、というのがある。つまりローライは(その時代のカメラの常として)接写が苦手なわけだが、この欠点を補うべく出されたアクセサリーが「ローライナー」で、ビューレンズと撮影レンズにこれを装着することによってローライでも何とか近接撮影が可能になるのである。

ちなみにこの「ローライナー」、ローライ二眼レフのバヨネットタイプに応じてBay1からBay3までの型があり、さらにそれぞれの型ごとに撮影可能距離に応じて1~3までの3タイプがラインナップされている。例えば、ローライコードはBay1型であり、そのタイプ1は100~45cmまで、タイプ2は50~31cmまで、タイプ3は32~24cmまで接写できるというわけだ。

で、さっそくぼくは皮ケースをあけて中味を見せてもらったのだけれど、ケースに整然と収められた商品を見てまずは驚いた。ぼくはローライナーの1.2というのをBay1のタイプ2のことだろう、と勝手に解釈していたのだけれど、ケースの中にはローライナーが二つ収まっている。つまり、ローライナー1.2とはローライナーのタイプ1とタイプ2のことだったのだ。おまけにフィルターの方は無色のH-1フィルターを含む各種フィルターが5枚セットになっているという優れもの。フード、ローライナーのタイプ1&2、フィルター5枚、そしてそれらがすべて収まる皮ケース。それが三万ちょっとの値段なのであった。

ローライナー一個で1万2千円前後することを考えれば、これはかなりお買い得と言えるし、ローライコード用のアクセサリーをこれだけ揃えるのにかかる労力と時間を考え合わせれば格安とも言ってもいいくらいだ。

とゆーわけで、今はこのアクセサリーセットは無事手元にあって、もちろんぼくの気分は最高である。何だか、ローライコードを使い倒せと写真の神様から啓示を受けたような(笑)。もちろん、ローライは二眼レフであるから、接写時のピント精度は怪しいものだけれど、何より小型軽量格安のローライコードにこれまた小型軽量なレンズを取り付けるだけでまがりなりにも接写が可能になるのが何だか嬉しいではないか。

今では、懸案だった東京シリーズを、ローライコードのみで撮り切ってみようかなどと画策している次第だ。

2Bワークショップグループ展VOL3は本日より……

2005-07-19 11:32:09 | 写真集・写真展
本日から2Bワークショップグループ展Vol.3が始まります。

昨年7月から始まったグループ展だが、だんだん人数も増えるにつれて作品も多種多様になってきた。一度の作品展でこれだけ色々なテイストを楽しめるのだから、考えようによってはこれはずいぶん美味しい写真展とも言える。ぼくもVol.2に参加したが、毎日他の人の作品を眺め、来場してくれた方々の感想に耳を傾けているだけでずいぶん勉強になったものだ。写真好きの方はぜひぜひご来場をお願いします。

さて、かくいうぼくも、今回のvol.3の作品群に負けないような作品をモンゴル展に向けて作らねばと張り切っているところ。展示用の作品セレクトは終わったので、後はブック用のモノクロプリントをバライタで仕上げるかRCでお茶を濁すか迷っているところだ。

モンゴリアン・ブルー、そしてグループ展

2005-07-17 00:18:46 | 暗室にて
ようやく体調がそこそこ回復したので昨日からプリントを始めている。
まずは今日の午前中までモノクロのワークプリント作り。20本撮ったうち、何とかモノになりそうなもので十枚ちょっとか。まあ、今回はあまり気合いを入れてモノクロを撮っていなかったのでこんなものだろう。

で、午後は師匠のところでカラープリント。全部で二十枚近く焼く。出来映えは……ふふふ、結構好感触。

グループ展で皆の写真に触れ、スペインでのカラーの試し撮りを経てたどり着いた結論は、カラーは極力シンプルに撮るべし、なのであった。

青空をバックにして、そこに人物か建物だけを配して写真を撮る。ただそれだけのことなのだが、カラーだと色が付いているというだけで強い訴求力を持ち得るのだ。おかげで、見事なまでに青色で色調が統一されてしまったが、実際に青はモンゴル人にとっても最も神聖な色。俗にモンゴリアン・ブルーなどと言うけれど、決してゆえ無きことではないのである。グループ展ではモンゴルの青さを堪能して頂ければと思っている。

さて、というわけで、そのグループ展のお知らせです。来る8月2日(火)から8月7日(日)までモンゴルをテーマにした合同写真展が開催されます。金・土には師匠渡部 vs.弟子海野のトークバトル(?)も開かれる予定ですので、皆様ふるってご来場下さいますようお願い申し上げます。

詳細は以下の通り。

「Off Road Journey ~旅するモンゴル」(2005.8.2 Tue. ~8.7 Sun. 11:00~20:00)
於:ギャラリー・ニエプス
トーク&スライドショー 5 Fri., 6 Sat. 19:00~ 入場料 2,000円(各回定員15名)
お申し込みはmongolmongol@mac.comまでe-mailでどうぞ。
参加者:渡部さとる 海野未来雄 石川圭花 大川貴之 小松晃 但馬毅紀 田地浩之

内容:2005年6月、写真家渡部さとるを中心に集まった総勢7名がモンゴルへと旅した。
モンゴルは、中国とロシアにはさまれたところにある。日本の4倍もの国土があるのに、人口はわずか250万人だ。
400キロの道を走破しても、1度も道は交差しない。見渡す限りの大草原に見えるのは、羊、山羊、馬、牛そしてラクダ。牧民は羊と乳製品だけを食べて生きている。虹が大地から半円を描いてアーチを作る。夕暮れの草原を背景に旅芸人の一座が馬頭琴とホーミーを奏でる。
8日間で出会ったモンゴルは想像を超えた場所だった。モンゴルは近くて遠い国だ。

帰国

2005-07-12 18:21:55 | モンゴル
11日の朝起きたときに何だかお腹の調子がおかしいと思っていたら、昼頃には熱っぽくなっていた。関節の痛みもあるので風邪だろうと思い、その日はできるだけアパートで安静にしていることに。何しろ、帰国便は12日の午前1時20分発、つまり11日の夜中には空港についていなければならないのだ。

そんなわけで、その日の間中、ぼくはひたすらベッドで横になっていたのだが、実は悪夢はその後にやって来た。

12日午前一時。ぼくはすでに出国審査を終えて大韓航空に乗りこんでいた。ところが発熱してから半日経つというのに熱っぽさは収まるばかりかますます激しさを増すばかり。おまけに頭はくらくらするし、何だか指先の感覚がなくなってきたではないか。さすがにこれはまずいと思い、客室乗務員を呼んでビジネスクラスで休ませてもらうよう交渉する。しかしその間も症状は悪化の一途をたどり、指先のしびれがやがて麻痺に代わり、さらにはそれが全身症状に。I can't move. と必死で言おうとするのだが、口まで麻痺しているので言葉が出てこないのだ。

幸い、水を飲ませてもらい、ビジネスクラスに落ち着くと手足のしびれも徐々に取れて何とか出発することができた。いやー、こんなことは生まれて初めてだった。まあ、大韓航空の客室乗務員には飛行中ずっと気にかけてもらい、ビジネスクラスにも乗れて何だか得したような気がしないでもないけれど(断っておくけど仮病じゃないよ)。もっとも、出発に際して、万が一途中病状が悪化して緊急着陸した場合にはその費用を全額負担するよう念書を書かされてしまったのは、今考えると笑い事ではないな。

さて、そういうわけで、完全無事とはいかないまでも、何とかモンゴルから戻って参りました。8月1日からはモンゴル・ツアーに参加した2B関係者によるグループ展も予定されているし、しばらくは日本の生活に身体に馴染ませつつ、プリント作業に勤しもうと思っている。


モンゴル便り(8)~妖しくも本格的なマッサージはいかが……

2005-07-10 17:03:20 | モンゴル
先日、午前中に予定していたインタビューが急遽中止になってしまったので、アパートから歩いて五分ほどのところにあるリフレクソロジーの店に行ってきた。

社会主義時代にはそんな店はまったくなかったし、民主化後にちらほらできたマッサージ系の店はどれもうさんくさい感じで今ひとつ入る気にならなかったのだ。今回新しく見つけた店はなかなかにおしゃれな雰囲気で、これは期待できるかもと値踏みしたのだった。

そして、結論から言ってしまうとこれが実に大当たりだった。日本や海外で何度となくマッサージはして貰っていたが、これほど本格的かつ念入りにマッサージをして貰ったのは初めてのことだ。

この店のマッサージは、中国式やタイ式、英国式などをミックスしたような感じで、まずはうつぶせになっての頭部マッサージに始まり、首、肩、背中、腰、足と念入りに揉みほぐした後に、さらにストレッチや足踏みに移行、そして仰向けになってからも顔面マッサージから腕、腹部、太股のマッサージ、下半身の軽いストレッチへとなおも続いてゆく。すべての施術が終わるまで正味一時間ちょっと、お値段は実に15000トゥグルク(約1500円)という安さである。

もっとも、そんな風に非常に充実した一時間を過ごさせてもらったのはありがたかったのだけれど、実はひとつだけ困ったことがあった。

それはこの間、若いマッサージ師の女性と完全密室状態という環境の上に、その密着度が極めて高いこと(笑)。なにせうつぶせ状態で馬乗りになられた上に、なかなかにハスキーな声で背後から耳元に話しかけてくるのだ。仰向けになってこれをやられたんじゃたまんないよなあ、などと期待半分思ったが、さすがにそれはなくて何だか拍子抜けしたようなほっとしたような(笑)。

もっともこの彼女、こっちのそんな気を知ってか知らずか、さかんに例のハスキーボイスで話しかけてくる。いわく、彼女はもともと看護士だったが、給料が安いので三年前からマッサージ師をしているのだとか。溶接工の夫がいるんだけど、あまり仕事がないもんだからあたしの方が仕事してことになるわよねえなどと屈託なく笑う。訊けば現在28歳の彼女にはすでに5歳の息子がいるのだそうである。モンゴルの早婚傾向は昔も今もあまり変わりがないようだ。

そして、彼女の話はまだまだ続く。ウランバートルからはほとんど出たことがなかった彼女が、二年前に初めてゴビに行って感動したこと。去年初めて馬に乗ってみたのだけれど、最初は何だかとても怖くておっかなびっくりだったのよと言って、彼女はまた笑い声を立てた。優秀なマッサージ師である彼女は実は文字通りの都会っ子だったのだ。

やがて一時間の施術を終えて外に出てみると、久しぶりに身も心も軽くなった気がした。いくらモンゴルに行きなれていると言ってもそこはやはり外国である。きっと知らぬうちに疲労がたまっていたのだろう。あとはいかにこのリフレッシュした気持ちのままにモンゴルを後にできるかだな。

いよいよ帰国日が二日後に迫ってきた。


モンゴル便り(7)~ダルハン編

2005-07-07 10:44:27 | モンゴル
ふと気が向いて、先週末にウランバートルの北に位置するダルハン市に行ってきた。一応、調査も兼ねてということだが、十数年会っていなかった知人を久しぶりに訪ねるためというのが主な目的ではあった。

ダルハン市までは舗装道路が通っているので、車で普通に走っても三時間くらいで行ける距離にある。だが、そこはモンゴルでは珍しく鉄道が通っている地域でもあるので、どうせならというわけで今回は久しぶりに電車で行くことにした。

ところが、この鉄道、特急で行っても五時間、鈍行で行けばなんと八時間はかかるというとんでもない路線。それじゃあ電車で行く意味がないじゃないかと普通は思うものだが、何しろ運賃がきわめて安いので地元の利用者が結構いるのである。

どのくらい安いかと言えば、自由席であれば210円程度、ぼくが利用した一等寝台でも670円くらいしかかからない。走行時間を考えれば、670円程度で旅行気分を五時間から八時間もたっぷり味わえるのだから、ある意味新幹線などよりよほどリッチな気分を満喫できるともいえる。

そして実際、今回の鉄道の旅はとても素晴らしいものだった。旅の大部分を占めるのどかな草原風景。たまさか通りかかる村々では子供たちが列車に向かって手をふり、とびきり素敵な笑顔をふりまいてくれる。だが、そんな中でぼくの心を何よりも引きつけたのは、停車する駅がどれもロシア風の昔のたたずまいを、今の時代にそのまま留めていてくれたことだった。

思えばウランバートルはこの十五年の間に大きく様変わりしてしまった。当時は社会主義的なスローガンが掲げられているだけだった素っ気ない町並みには色とりどりの看板広告が所狭しと建ち並び、わずか50万人だった人口はいつの間にか二倍に膨れあがって、車の渋滞とともに町の混雑に拍車をかけている。かつてのモンゴルを忍ばせるものは、今のウランバートルには皆無だ。

ウランバートルを出発してから五時間後、ぼくたちを乗せた緑色の車体はようやく旧ダルハンに到着した。人口九万三千人のダルハン市は旧ダルハンと新ダルハンに分かれていて、旧ダルハンには昔の市街地が、そして新ダルハンには新興住宅地が広がっている。

その旧ダルハンと新ダルハンを、丸二日に渡って久しぶりに歩いてみた。
懐かしかった。旧ダルハンの少し朽ちかけた洋館風の建物と新ダルハンの近代的で無機質な高層アパート群。そして、各所に建てられた旧社会主義時代のモンゴル・ソビエト友好を記念したモニュメントの数々。ダルハンは炭鉱の発見にともない、ソ連のてこ入れで1963年に誕生した新興工業都市であることをふと思い出した。

ここには渋滞もなければ、目にわずらわしい看板もウランバートルに比べればほとんど無いに等しい。人の流れは相変わらずゆったりとしていて、新しい時代の流れにまるで無頓着であるかのように見えた。ぼくは人の流れに身を任せるようにふらふらと町をさまよい歩きながら、やがて新ダルハンの町はずれに位置する小丘に行ってみた。そこには真っ白な仏像が祭られていて、民主化後のダルハンの新しいランドマークになっていたのだ。それだけが、唯一ダルハンにできた、新しい変化といえば変化であった。

その丘を、ぼくは心地よいそよ風に吹かれながらゆっくりと登ってみた。傍らを町から遊びに来ていた子供たちの一団が一気に抜き去り、丘の頂目指してかけあがってゆく。ぼくは、彼らの後に続いてなおも丘を登りながら、ふと眼下に広がるダルハンの市街地に目をやった。そして、ここに来てやはり良かったと、ぼくはそのとき心底そう思った。昔は無機質だと感じられたアパート群が、15年の歳月を経て資本主義へと移行した今となっては妙に暖かみを持って感じられるのだ。そこには、まるで時がそのまま封じ込められてしまったかのように、ぼくが良く見知っているモンゴルがあった。