Feel Free ! アナログ・フォト・ライフ Diary

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トマトジュース、ブラックペッパー、タバスコ!!

2006-02-24 10:28:35 | 写真全般
 トリノで荒川選手が金メダルを取りましたね。今季日本人初メダルだし、人気のフィギュア女子での金メダルなので、今日は日本中が大フィーバーになりそうな予感(笑)。

 個人的には国を背負って云々という言い草は大嫌いだが、それぞれがベストを尽くしてそれでメダルがついてくるのであればそれは本人にとってもやっぱり嬉しいだろう。あの大舞台であれだけの滑りができたことにはやはり素直に賞賛を送りたいと思う。

 ところで、先日書いた「あわあわ」論が何だかミクシィにも飛び火しそうな気配。まあいいんだけど、皆で他人の意見を共有するという意味から言えば、できればオープンな場所でやってもらいたい気はしている。

 ちなみに、前回紹介した『21世紀における芸術の役割』の中で造形作家の岡崎乾二郎氏が紹介しているのだけれど、あのヨセフ・ボイスはトマトジュースにブラックペッパーを5ミリくらい厚くかけて、さらにタバスコを半分くらいかけたものを毎朝仕事の前に飲んでいたのだとか。それを飲まない限りは癒しの作品を作りたくなっちゃうそうで。やっぱり「癒し」への誘惑は強いということか。でも、いくらなんでもトマトジュースとブラックペッパーとタバスコを一緒に飲みたいとは思わないわな(笑)。それを飲めば傑作が撮れる、というなら話は別だけど。うーん、アンチ「癒し」への道は険しいですね……。

 さてさて、ここのところ七面倒くさいことばかり書いていたので、何だか頭がうまく回ってませんが、「あわあわ」論議はこの辺までとして、唐突ですが、明日からひょっくら気分転換にチェコに行ってきます。戻りは3月5日になる予定。よって、次回更新は5日以降ということになります。ご了承下さい。

「心の限界を突破する」ということ

2006-02-21 11:02:02 | 写真全般
 「あわあわ」写真について数日前にブログに書いて以来、何だかアクセス数が増えている。写真仲間のprivateeyeさんはご自分のブログでこの話題を取り上げてくれたりして、これこそブログ冥利(?)に尽きるなあ、なんて感じている次第である。読んで頂いた方、そしてコメントを頂いた方、本当にありがとう。

 何度も言うようだけれど、ぼくがこの話題についてあえて取り上げたのは、別に「あわあわ写真」を全否定したいがためではなくて、それをきっかけに皆に写真についてもっと考え、それをフィードバックしてもらうことで、ぼく自身も写真についての思考をさらに深めたいとの思いがあったからだ。その意味ではぼくの意見に対して否定的であろうとなかろうと、本来そんなことはどうでもいいことなのだ。議論のための議論をするのではなく、一人一人がそれについて考え、他人の意見を皆で共有することこそが大事ではないかと思う。インターネットという場が、そんな建設的な論議の場になったとしたら、それは結構すごいんぢゃないか、などと夢想しているところだ。

 「あわあわ」についても、このブログを読んだからと言って、そうした指向性を放棄する必要などはさらさらない。ちょっと人に言われたぐらいでやめるのなら最初からやらない方がなんぼかましだ。それよりもむしろ、「いや、あんたはそう言うけど自分はこの道を行くんだ!」と、そのくらいの確信を持って「あわあわ」道(?)に邁進するのであれば、それはそれで凄いことだし、ぼく自身も最大限のリスペクトを持ってそれに応えよう。

 ところで、最近買った『21世紀における芸術の役割』(未来社、2006)の中で、今回の論議にも関連する癒しと芸術の関係について触れられていたので簡単に紹介しておくことにする。編者の小林康夫氏は芸術に癒しの機能があることを認めた上で、次のように述べている。

「しかし、芸術の役割はそれだけなのか。癒しだけなのか。そう考えてみますと、実は本当の癒しというものが起こるためにすら、何かひとつ自分の心の境界を超えなければならないと思うんです。われわれが普通に生き、傷ついた悲しい心の状態でいたとして、そんな心の中で見つかるような癒しであれば、人間は別に芸術を求めなくてもよいのかもしれません。確かにとても純粋な魂ならば、空の色を見ただけで十分癒されるのかも知れませんし、海のせせらぎの音を聞くだけで十分に心が癒されるのかも知れません。
 だけれども、本当の癒しということが起こるためには、自分がもっている心の限界というものがどこかで爆発的に突破されないと、本当の働きというのは出てこないと思います。可愛いとか綺麗とか、ちょっといいとか、感じがいいとか、そういうものは世の中にたくさんあります。いまの商業主義のなかでは、ほとんどすべてのものが、皆さんの心地よいように、気持ちがいいように作られています。いいデザインがあり、いい商品があります。そういうものでいっぱいわれわれの生活は満たされています。
 しかし、それだけでは届かない何かがある。ですから、私がここで最初に言おうと思ったのは、芸術が癒しやヒーリングのような役割を果たすということがあったとしても、しかしそこでもなおかつ、本当に深いヒーリングということがもし起こるとすれば、そのためには、自分の心の限界が突破されなければならない、ということなのです」(p.200-201)

 話はそこから芸術にとっての過激であることの使命、といった方向に進んでいくのだが、その先は皆さんが実際に本書を手にとってお読み頂ければと思う。本書は神奈川県立音楽堂で開かれた連続シンポジウムの記録ということもあって読みやすく、写真についての直接的記述は少ないが、アートに携わろうという人にとっては参考になることも多いはず。お勧めの一冊である。

そう言えば……

2006-02-20 10:38:34 | もろもろ
……日頃ほとんど忘れかけていることだけど、実はぼくには6つ上の兄貴がいるのだったりする。デザイナーをしているこの兄は山好きが高じて長野に引っ越してしまった人なのだが、先日、その兄から珍しくメールが届いて自分もブログをやっているとの由。へー、兄貴もブログやってたんね、と思って覗いてみたが、結構面白い。日頃我々はめったなことでは会うことがなく、電話すらしないから(そう言うと仲が悪いんですかと良く聞かれるけど、別にそんなことはありません)、お互い何を考えているんだかは、実はこういうブログを通じて何となく分かるのであったりして(笑)。

ちなみに兄貴は某美大にいたときから授業で写真をやっていて、実はぼくが最初に持ったちゃんとしたカメラは兄譲りのPENTAX MXであった。その意味ではいまぼくが写真をやっているのも、(まあ回り道はしたけれど)兄貴の存在が多少は影響したのかも。

なお、我が兄のブログはこちらから。80年代に撮られたモノクロ写真とかもあったりして(実は兄貴のモノクロ写真は始めて見た)このブログをご覧の皆さんにとっても興味深いのでは。

あわあわしさにふと思ふ

2006-02-18 13:16:50 | 写真集・写真展
昨日はICHYS GALLERYにて開催中の2Bグループ展vol.5を見に青山へ。

全体的にはとても若々しくて爽やかだなあ、という印象で、正直言って師匠の写真のところだけ空気感が違って何だか妙に浮いていた(笑)。でも、それぞれに個性的だが真摯に写真と向き合っていることが感じられて、どれも安心して見れる作品に仕上がっていると思う。後はブックにも展示と同じだけボルテージが高い作品を集められれば言うことなしというところか。

ところで、今回カラーでとてもあわあわ(淡淡)しい写真を撮っている人が二人いたので(どちらも若い人ね)、そうした今時の写真について前から気になっていたことを一言書いてみたい。

これは決して批判して言うのではないのだが、こういう写真を見るたびに、どう評価すべきかでぼくの心は微妙に揺れてしまう。

確かに、あわあわしい写真は今の時代の空気感を表していると思うし、そうした写真に惹かれるものが自分の中にもあることは疑いない事実だ。しかし、それと同時に、そうした写真に惹かれる自分自身の感性に抵抗したい衝動もまた、自分の中に確実に存在しているのだと思う。

そうした抵抗の衝動は、恐らくは自分自身の年代意識と密接に関わっている。

ぼく自身は64年生まれだが、実際に自分の人格形成がなされたのは70年代的空気の中でであって、従ってぼくは自分自身を70年代世代だと見なしている。

少々乱暴なことは承知で世代的な分類をして見ると、まずは現代資本主義社会を中心とする社会システムに否を突きつけたのが60年代、そしてそうした社会運動の挫折感から70年代には無力感が支配してゆくが、80年代のバブリーな時代を迎えて、既存の社会システムを当然のこととして受け入れる新しい世代が育ってきた、ということになるだろうか(これがいわゆるホリエモン世代なのだと思ふ)。

そうして考えてみると70年世代というのは非常にビミョーな世代だ。なぜなら、その世代は時代が熱かった60年代に対して一種の憧憬を抱きつつもそこに走る勇気を持てず、さりとて80年代(以降の)世代のように、はっきりと現状を肯定することにはどうしても抵抗感を感じてしまうからだ。

ここで再び写真の話に戻るならば、確かにあわあわしさには癒しの効果があって、そうしたものを時代は求めているのだとも思うし、それに抵抗感を感じないことはある意味幸せなことではあるだろう。だが、ぼくがどうしてもそうした写真を素直に肯定できないのは、写真そのものの問題というよりも、そうした写真を増殖させ氾濫させるシステムが人々の感性を麻痺させて、(権力や主流なものという意味での)マジョリティーに対する抵抗意識を奪ってしまうのではないか、という懸念があるからだ。そうした現代的感性の底流に、逮捕後のホリエモンにエールを送った若者たちと同質のナイーブさを感じると言ったら、あるいは言い過ぎだろうか。

思えば、60年代というのは時代意識に抵抗すること自体が時代意識たりえた幸福な時代だったのだろう。だが、我々は抵抗することそのものさえが、商品化され、自然化されてしまうポストモダン(この言葉自体、すでに手垢にまみれているが)の時代に生きている。そうした時代にあって、時代意識を自然なものとして日向で生きてゆくのか、あるいはそうしたものに抵抗を覚えながら日陰で生きてゆくのか。森山大道の「いま時代は一見静かに見えている。しかし実体はさらに凶悪になってしまったと思う。あの新宿の暗い夜は完全に予行演習であった。そして、僕は、相変わらず夜の来るのがとても恐ろしい」(『犬の記憶』)というフレーズに激しく共感してしまうぼくには、後者の道しかないような気がして暗い気分に陥ってしまうのだ。

P.S.最後にもう一度断っておくと、この文章は決してあわあわな写真を批判するために書かれたものではなく、あくまでも自分自身の中にある抵抗感を素直に述べたものに過ぎません。その辺をお間違えないようお願い致します(笑)。

P.S.2 この件に関して皆様のご意見・ご感想を募集します。ご意見はこの直後の「コメント」からどーぞ。

2月という月。

2006-02-14 09:41:46 | 写真集・写真展
今日は何の日かと言えば。バレンタイン、いやもとい、ちょうど二年前にWorkshop 2Bの第一回目の講義があった記念すべき日、なのであった。バレンタイン・デーだというのに、なんだって野郎ばかり(午後組は全員男だった)集まってカメラ&写真談義に花を咲かさなけりゃならないんだとふと疑問に思わないでもなかったが、実際には師匠の人柄も手伝って楽しく過ごすことができ、おかげで毎日週末が来るのが待ち遠しくなったものだった。

それにしても、よくよく考えるに、自分にとって2月は妙に節目の月になっているようだ。二年前の2月14日に2Bに参加したのもそうだし、一年前の2月1日にこのブログを開設したのもまたしかり。そして、もちろん、今月の2日には個展も決まった。

もちろん、こうした一連の事実は単なる偶然だが、それでも一年ごとに何かが起こるというのは、ちょっとずつではあるけれど、確実に毎年前に進んでゆけているようで何だか嬉しい。しかも、その中心にあるのは常に写真だ。その意味でも、2Bに参加したのは本当に大きな財産だったと思う。

その2Bのグループ展も今回で5回目。今週16日より青山のICHYS GALLERYにて開かれる。毎回、お世辞ではなくレベルの高い作品が展示されるので、写真好きの人はぜひ足を運んでみて下さい。

翻訳権

2006-02-04 11:08:03 | 写真全般
 先日このブログで"Living with His Camera"という写真論を紹介したけれど、その著者であるジェーンに日本語の翻訳権についてメールで問い合わせたところ、すぐに返信をくれたのでとてもありがたかった。

いわく、「私の知る限りでは日本語の翻訳権はまだどこも所有していないと思います。ただ、私も詳しくは知らないのだけれど、翻訳権は私にあるわけではなく、出版社であるデューク大学出版が所有しており、本来は日本の出版社と大学出版の間でやりとりがされるものだと思います」そしてまた、「この本が日本で翻訳出版されることになるとすれば、それは私にとってもとても嬉しいことです」とも。

 もちろん、ぼくが彼女に翻訳権のことを尋ねたのはおおよその所が知りたかったからであり(翻訳権がよそで取られていると分かっているものを訳してもしかたないので)、彼女のメールで十分自分に必要な情報は得られた。そして、何よりも、日本語版の出版にご本人が前向きであることがとても嬉しかった。

 これで安心して試訳に取りかかれる。とりあえずイントロダクションと第一章のみ翻訳し、出版社に持ち込んで、もしOKということになればそれから正式な翻訳権の取得、ということになるかと思う。さてどうなるか。個展同様、こちらの方もブログ上で経過報告をしてゆこうと思っている。

6月に個展を。

2006-02-02 23:58:24 | 写真集・写真展
 現在、わが師匠渡部さとるさんの個展「da・gasita-43年目の米沢」がギャラリー冬青にて開催されている。今日は個展を見に、新中野まで行ってきた。

 今回の展示作品は冬を中心とした米沢の町をモノクロで捉えたものがコアになっている。このところ、割と黒みが多いモノクロ作品にばかり接していたので、雪の白みが多いモノクロ作品もまた良いものだと再認識。何気ない風景だが、モノクロという色のない世界に渡部さんの思いが凝縮されている、そんな気がした。感傷的になりすぎず、かといって突き放すでもない独特の距離感に強く惹かれるものを感じた。個展は今月いっぱい開催されているので、写真に興味のある方はぜひ一度足を運んでみて欲しいと思う。

 さて、ここで話は少し変わって表題の件を少々。今日ギャラリー冬青まで出向いたのは、もちろん師匠の個展を見るためでもあったのだけれど、実は同時に、再春館ギャラリーのプロデュースをしている写真家の田村彰英さんにお会いするためでもあった。プレゼンをして、問題なければギャラリーで個展を開催できるという有り難いお話だったので、正直少々緊張した。

 で、結論から言うならば、一緒にプレゼンをしたワークショップ仲間のYさん共々OKが出て、Yさんは6月の前半に、ぼくの方は(モンゴルでの調査もあるので)同じ月の後半に、それぞれ二週間個展をさせて貰えることになった。それも二週間5万円で、サイズによってはフレームも貸して貰えるという破格の条件で。

 いやー、ワークショップ2Bに参加してからちょうど二年が経つが、何しろ最初は師匠に居残りを命じられてしまったほどの不肖の弟子だったから(後で師匠に聞いたら後にも先にもプリントで居残りさせられたのはぼくだけなのだそうな)、ワークショップに参加した当初はまさかこうした展開になるとは予想もしていなかった。きっと、終了後に暗室開放という場と師匠の存在がなかったらここまで写真を続けて来られなかったのではないか。それを考えると、つくづく人と人の出会いというのは不思議なものだと思う。良い師匠と良い仲間たちに恵まれたのはとても幸運だったと(お世辞抜きに)今さらながらに思っている次第である(……というわけで師匠、リスペクトが足らんと怒られてしまったけれど、決してそんなことはないのですよ。ふふふ)。

 ちなみに田村さんも非常に気さくな方で、その後、師匠やYさん共々飲みに行ったのだけど、フェラーリ買っちゃおうかな~と思ったというバブル時代の夢のような(というか、儚い夢のようなと言うべきか)話とか、色々聞けて面白かった。やっぱり団塊の世代っていうのはみんな味があるよなあ、というのが本日の率直な感想でありました。