中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第2日目(1):いよいよ安中宿

2013年03月23日 06時55分04秒 | 中山道六十九宿

                                                <早朝の高崎;ホテルの窓から>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第2日目(1):いよいよ安中宿
             (五十三次洛遊会)
       2012年10月12日(金)~14日(日)

※本稿の初出は2012年10月22日である.
 初稿の地図の差し替えと本文の加除修正を行って再投稿する.

2012年10月13日(土) 

<安中宿地図>



<2日目の朝>

■バイキング形式の朝
 例によって,4時頃早々と目が覚めてしまう.外はまだ真っ暗.旅行中はなるべく荷物を少なくしたかったので,肝心のパソコンも持参していないので,なんとも手持ちぶさたである.長い間の習慣で,私はパソコンが手許にないと禁断症状が起きるらしい.
 そうは言っても,もう少し眠ろうかと思っても,眼がピンシャンパッチリなので,どうにもならない.仕方がないのでテレビでも見ながら時間を過ごすしかない.私が,何時,死ぬか分からないが,残された時間が刻々と過ぎ去っているのは確かである.そう考えると,貴重な時間をボンヤリと過ごすのは如何にも勿体ないが,どうもままならない.
 でも,そんなどうでも良いことをしている内に,漸く時間が6時半を回っている.朝食は6時45分からである.私は少々早めに食堂のある2階ロビーへ降りる.ロビーでは同行の3人がもう降りてきて朝食を待っている.
 静かだなと思われたホテルにも結構沢山の宿泊客が泊まっていたようで,食堂は案外混雑している.中には首に名札を付けた集団の方々が結構居られる.
 食事はバイキング形式である.和食が中心だがパンを主体とした洋食を選択することも可能である.平素,家では朝はパンを主体とする食事をしている私は,旅に出ると好みが日本食に変わってしまう.今朝も,ネーベンを取りすぎないように,またブロイラーにならないように注意しながら適当に食べ物を選択する・・・が,やっぱりカロリーオーバーのようである.でも,まあ良いかで全部を平らげる.
 そして,ユックリと食後のコーヒーを賞味する.

<ホテルルートイン高崎駅西口の朝食>

■沢山の生徒さんに混じって安中へ
 今日は同じホテルに連泊するので,歩行中不必要な荷物は自室に置いたまま,7時40分にホテルロビーに集合する.遅刻する人は居ないので,とても気持ちがよい.
 昨日1日のそぞろ歩きで通い馴れた道を辿って高崎駅に向かう.高崎はさすがに大都会である.朝から沢山の通勤客や若い人で賑わっている.
 ここはJR東日本の中なので「スイカ」が使える.切符をいちいち買う必要がないので,とても助かる.
 信越本線高崎7時59分発横川行の電車に乗車する.今日は土曜日なのに結構沢山の高校生が乗っている.通学する生徒さんの姿を見ていると,昔,昔,私が旧制中学,新制高校に通っていた頃のことを懐かしく思い出す.あの頃,私は小諸から上田まで通学していた.ここと同じ信越本線である.
 旧制中学(男だけの学校)の1年生は一番前の車両の一番前の乗車口.女学校(勿論,女子だけ)の1年生は一番後ろの車両の一番後ろの乗車口から客車に乗る.そして2年生になると,それぞれが前から2両目,後ろから2両目,さらに3年生ともなると中学生,女学生がほぼ同じ車両に乗るというしきたりがあった.そんな昔のことを思い出しながら車内の様子を見ると,男女が屈託なく同じ車両に乗っている.
 車内は混雑しているが,何とか座れる.私は敢えて座らなくても良いのだが,そこは今回の参加者の中では最長老である.どうも私が席に座らないと示しが付かないようである.“人を年寄り扱いするな・・・”という気分もかなりあるのだが,致し方ない.
 私達が乗車した電車は,8時11分に安中駅に到着する.昨日1日掛けて歩いた距離を電車はわずか12分で走ってしまう.何とも呆気ない.
 幅が狭い跨線橋は,地元の生徒さん達で一杯である.私達は急ぐ旅でもないので,跨線橋が空くまで,しばらく待つことにする.

<安中駅の跨線橋>

■安中駅から歩き出す
 駅前で軽くストレッチをしてから,8時17分,安中駅前から歩き出す.
 どうやらお祭りがあるらしく,駅舎の軒に紅白の提灯がぶら下げられている.
 如何にも長閑で,伸び伸びとした雰囲気の駅である.それでも,人影がチラホラ,決して寂しすぎる駅でもない.

<安中駅前>

■久芳橋を渡る.
 駅前のロータリーを回り込んで,高架道路の下を潜ってから左折して西へ向かう.駅前の一見閑静な雰囲気と異なって,高架道路を潜る辺りは何とも気ぜわしい感じがするが,まあそれは仕方がない.
 8時22分,久芳橋に到着する.大きな橋である.橋の彼方には榛名山など群馬の名峰が屏風のように見えている.
 子野橋を渡ると,中宿が終わりになり,いよいよ江戸日本橋から15次の安中宿に入る.

<久房橋>

<安中宿に入る>

■安中宿の概要
 資料1(p.38
)および資料3(p.96)によると,安中宿は第15次の宿場で,宿内人口348人.内,男162人.女186人.宿内惣家数64軒.内,本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠17軒だった.
 「安中藩3万石の城下町で,上位段丘に安中城,下位段丘に安中宿があった.城近くの大名小路に,武家屋敷が残る.宿から西に数百本の杉並木があったが,今は十数本にまで減少している」(資料1,p.38).


■安中宿の由来
  資料5によれば,「安中宿は東山道の「野尻の郷」と呼ばれていた要衝であった.伝承によると,現在安中市街地がある段丘の中央部に安中忠親の弟,忠清が1559年に城を築いた.そして野尻という名称を安中に変え,安中城とした.なお,安中忠親は松井田城を修築した人物でもある.また忠清は原市榎下の城主でもあった.忠正は武田信玄の攻撃に備えて,安中城を長子忠成に守らせ,みずからは松井田城に戻り,城を改修し,守備を固めた.
 その後,安中城は,武田信玄に攻略され落城.安中氏は降伏し,武田氏に賊することになったが,長篠の戦い(1575年)で全滅状態になり滅亡.城主不在で廃城になった.それから40年ほど後,1603年(慶長8年)に中山道が整備され,板鼻宿を抜け,碓氷川を渡り安中宿を通る主街道となる.
 1614年頃,初代高崎城主井伊直政の適男直勝が,碓氷の関所と渋川の杢の関を警護するため,安中城跡地に,城廓のない陣屋形式の大名館を忠親とした城廓を構築.翌年,直勝は分家して,3万石の安中城主となった.
 以後は.直勝,直好,水野元綱,元知,堀田正俊,板倉重形,重同,内藤政森,政里,板倉勝清,勝暁,勝尚,勝明と続く.勝明は,今から150年以上も前に,今の安政遠足侍マラソン大会の元なる「安政遠足」を行ったことでも知られる名君であった.」
 なるほど!
 でも,まあ,この程度の予備知識があれば,安中宿の核心部分を見逃すこともなかろう.
 資料11には,私たちがこれから散策する安中城趾について,次のような説明がある.
 「1559年
永禄2年)安中氏の安中越前守忠政によって築城された.安土桃山時代になり徳川家康が関東の地に入封すると安中城も本格的に築城をしなおされ,井伊家がまず入封した.安中藩藩主としては井伊家2代(3万石),水野家2代(2万石),堀田家1代(2万石→4万石),板倉家2代(2万石),内藤家2代(2万石),再び板倉家6代(2万石→3万石)で板倉主計守勝股の時明治維新を迎えている. 歴代藩主の中で著名なのは堀田正俊と板倉勝清であり老中を勤めている. 遺構としては専門家の検証はなされていないが,市内熊野神社に城門が1棟,民家に城門が都合それぞれ2棟,そして市内民家に武器庫が現存している.」

■安中宿主要部分案内図
 以下は安中市内で見掛けた観光案内図である.紙面の都合で2分して掲載する.以後の散策記録は,この図を参照にすれば位置関係が明確に分かる.
 



<安中宿要部分明細図>

<絆祭り賑わう安中>

■沢山のボンボリに迎えられて・・・
 8時31分,安中市街地と市街地をバイパスする道路のY字型交差点に到着する.私達はこの交差点を左折して市街地の方に向かう.
 遠藤にはズラリとボンボリが並んでいる.辺りは閑静な住宅地だが,ボンボリだけがヤケに目立っている.
 私達は人通りがほとんどない市街地を西へ向かう.

<ボンボリが飾られている市街地に入る>

■正龍寺
 8時39分,正龍寺に到着する.山門脇の石柱には上野国第弐拾五番札所千手観世音と刻字された石柱が立っている.少々殺風景な境内の奥に本堂が建っている.
 本堂脇の石塔はどうやら馬頭観音のようである.手許の資料では,これ以上のことは不明.
 資料7には,「上野国,第25番札所で,千手観音を本尊とする寺.境内には,馬頭観音の碑も建っている.」と説明されているが,下の写真を見ると青色のトラックの右に立っている碑が馬頭観音の碑であろう.

<正龍寺>

■あんなか祭「絆」
 街中のあちこちに「あんなか祭絆」と書いたポスターが貼られている.どうやら,今日(10月13日)から明日まで「あんなか祭」が開催されているようである.
 8時43分,進行方向右手に「あんなか祭本部」と大きな字で書かれた看板を見付ける.四方をビニールシートで囲んだ掘っ立て小屋の中で祭りの関係者が忙しそうにしている.
 「お祭りですか・・・?」
と伺うと,威勢の良さそうな兄ちゃんが,
 「どうぞ見て下さい・・・」
と言いながらビニールの垂れ幕を開いてくれる.
 中には偉く立派な山車が置いてある.山車の両側には「下之尻」と太い墨字の提灯が取り付けられている.圧倒されるほど大きな山車である.
 「山車はいつ頃から,引き回すんですか・・?」
 「お昼過ぎからだよ・・・」
 「残念だな・・・それまで待っているわけにもいかないんで・・・」
 「これから未だ先にも山車があるよ.そっちを見ていって下さい・・・」
 怖そうな兄ちゃんも,意外と親切である.私はすっかり嬉しくなる.
 余談になるが・・・
 私は昨年来「絆」に興味を持っている・・・と,言うのも私の専門はコンピュータや通信を利用した情報システムの研究である(「・・あった」と過去形で言うのが正しいかな).昨年,横浜で開催された某学会の研究会で「絆の構造と情報システムの関連」について研究報告をしたばかりである.そんな関係から,「絆」のありようについては,少なからぬ興味がある.
 資料10には,「あんなか祭りは安中地区6地区と各団体が一同に会し,子どもからお年寄りまでが楽しく一緒にふれあえる2年に1度のお祭りです.伝統あるお祭りの継承,そしてお祭りの準備やお囃子の練習を通じて地域の親睦と活性化を図ることを趣旨としています.」という説明がある.「安中地区6地区って・・・?」,まあそこまで詮索しても,安中には余所者の私には細かすぎる話だろう.
 こんなことを書き出すと,際限なく議論が続いてしまうので,このブログには相応しくないので割愛する・・・が,頭の片隅に「絆」のことがあると,ついつい妙なことを考え続けてしまう.こんな拘りが私の長所でもあり欠点でもある.
 まあ,それはともかく,話を先へ進めよう.
 
<あんなか祭「絆」と山車>

<上位段丘へ>

西広寺
 8時47分,中山道から右折して坂道を登る.この道は,坂の上にある熊野神社の参道でもある.坂道の突き当たりに,西広寺という名刹がある.この一角には,安中宿の史跡や社寺が集まっているので,中山道からは外れるが是非見ておきたかった.
 階段を登って西広寺を詣でる.鬱蒼とした木々に囲まれた境内は静まり返っている.
 西広寺の由来などは,手許の資料では不明である.
 資料8には,この寺について「読み方:サイコウジ(saikouji),
宗派 真宗大谷派,本尊阿弥陀如来」という簡単な説明が記されている.

<西広寺>

■西広寺のツバキ
 西広寺の境内に大きなツバキの木がある.
 傍らにある案内板の説明によると.「このツバキは「ユキツバキ」といわれる品種で,深紅の一重唐子咲きで,花弁は5~7枚.花形は優美で美しい・・・」ということである.
 花のことはからきし分からない私には,唐子咲きなどと言われても何のことか分からない.でも,まあ,立派なツバキには違いなさそうなので,デジカメに収めておく.
 資料9によれば,この木は「樹齢推定300年,高さ約6.5m,目通り1.2m.花は真紅の一重唐子咲きで,花弁は5~7枚」とのことである.

<西広寺のツバキ>

■太子堂
 西広寺境内に入って左側に太子堂が建っている.
 資料6によれば,「太子堂(たいしどう)は、聖徳太子の像を祀った仏堂の呼称。聖徳太子は仏教を厚く敬い保護したとされることから、日本仏教興隆の祖として、宗派を超えて信仰の対象となっている。このため様々な宗派の仏教寺院に聖徳太子像を安置した堂があり、聖徳太子像は仏像同様、篤く信仰されている。また、「太子堂」が地名になったケースもある。」という.

<太子堂>

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課,発行年代未詳,「旧道日和(パンフレット)」安中市観光協会
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AD%90%E5%A0%82
資料7;http://www.jinriki.info/kaidolist/nakasendo/itahana_annaka/annakashuku/syoryuji.html
資料8;http://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E5%BA%83%E5%AF%BA
資料9;http://www.city.annaka.gunma.jp/gakushuunomori/bunkazai/shousai.html
資料10;http://www.city.annaka.gunma.jp/kanko_spot/annaka-maturi24.html
資料11;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%B8%AD%E5%9F%8E

[加除修正]
2013/3/23 地図の差し替えと,本文の加除修正を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f2c504db3e3cd72c5eeeb2afdd91942e
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e1956a461dfc7f4df0eb58197d1b96bc
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e

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