中高年の山旅三昧(その2)

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閑話休題;あの東芝が株式市場2部に転落とは! 悲しい!

2017年08月02日 03時32分31秒 | 閑話休題:日々雑感

      閑話休題;あの東芝が株式市場2部に転落とは! 悲しい!

                2017年8月1日(火)  曇後大雨

 月日のすぎ去るのは早いもので,今日からもう8月である.
 今日から,あの東芝が東京株式市場第1部から第2部に降格である.それだけではなく上場廃止になる可能性もあるという.
 私は東芝とは縁もゆかりもない人間だが,妙に悲しい.あの土光さんは草葉の陰でどんな思いで居られるだろうか.
 私も,長い人生生活の半生を東芝さんと同業他社のサ
ラリーマンだった.そのころの東芝は私などの手の届かない光り輝く会社だった.
 ”あんな素晴らしい会社に勤務できたら,さぞかし幸せだろうな”
 私はいつも羨望の眼で見ていた.
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 昭和20年台後半から10年ほどの間,私はラジオ制作に凝っていた.
 切っ掛けは,こうである.
 その昔,終戦の年,私は長野県内の某旧制中学入学した.中学は学制改革で新制高校になった.高校を出て東北地方の新制大学(駅弁大学と揶揄された)に進学した.
 親元を離れて寂しい私は,せめてラジオ(当時はラヂオと書いた)ぐらいは聞きたいなと思った.
 ところがラジオは高嶺の花.買うなんて無理,無理!
 そこで,最初に自作したのが鉱石ラジオ.
 いまでも鮮明に覚えているが,鉱石の商品はFOXTON.鉱石,バリコン,エナメル線を巻いたスパイダーコイル,バリコン,イヤホーン(クリスタル)をつければ鉱石ラジオは完成する.このラジオに数メートルの針金のアンテナをつければ完成である.これでナントから放送を聞くことができる,当時はまだ民間放送なく,ラジオと言えばNH第1と第2だけ.
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 さて,ここからが東芝さんの関わりの始まりである.
 すぐに鉱石ラジオでは飽き足らなくなる.
 次はいよいよ真空管ラジオである.
 まずは並3を作る.すぐに飽きて今度は並4.でも混信が気になって高週波1段,高週波2段へと進化する,そしてついに5球スーパーへたどり着く.さらに.HiFiのオーディオの世界へ.興味は際限なく広がっていく.
 私は学校から帰ると,すぐに半田鏝を暖めてラジオを作る.作ってもすぐに気に入らなくなって,すぐバラしてしまう.そして一寸回路を変えてまた作り直す…こんなことを際限なく繰り返していた.
 そこで何時も気になるのが,どこのメーカーのラジオ部品を何を使うかである.
 コイルはトリオ,電源トランスと出力トランスは山水,ダイナミックスピーカーはパイオニアか三菱(でも初期はリケンのクリスタルスピーカーかどこのメーカか忘れたがマグネットスピーカーだった).
 そして真空管.
 貧乏学生だった私は家庭教師などのアルバイトで稼いだなけなしの金を,ラジオ部品に注ぎ込んだ.
 真空管は東芝製が最高級品だった.「マツダ」真空管という.一段と高級品.高くて手が出ない.
 最初はダルマ管,6WC5,6D6,6ZDH3A,42,80…,6C6,12F…さらには2A3,807・・・・懐かしい.次いでLT管,6L6など懐かしい.
 私がラジオに夢中になっていた頃,ダルマ型真空管(ST管)からミニチュア管へと急速に進化し,さらにトランジスター化していった.
 その頃,真空管に馴染んだ私の頭ではトランジスタはピンと来なかった.それが,ラジオ制作との縁の切れ目になった.
 その頃から,私のラジオ作りの興味がだんだんと薄れていった..
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 その頃,私は社会人になり,東京オリンピックが開催された年に所帯を持った.
 オリンピックを見たかった.でも会場へは行けないので,是非テレビで見たいと思った.
 でも,当時の日本のサラリーマンなんて皆ビンボー.食うや食わず之毎日で,とても,とてもテレビは手が出ない高嶺の花だった.
 とはいえ,東京オリンピックだけはテレビで見たい.
 私はテレビを作ろうと決意した.当時のことだからもちろん真空管(ミニチュア管)の白黒テレビである.
 そこで,私は,秋葉原の電気街へ行って,真空管,抵抗器,コンデンサー,トランス,ブラウン管,シャーシなど諸々の細々した材料を,せっせと買い求めた.買い求めた真空管は,どこのメーカーのものだったかは覚えていないが,多分東芝製ではなかった.
 部品を買いそろえてから,勤務先から帰宅後,1ヶ月ほどの間,毎夜半田付けに終始した.4.5畳の部屋は部品やリーマー,半田鏝,ラジオペンチ等々細々としたものが広がって手がつけられない乱雑な状態が続いた.
 やっと,完成しても手元にある測定器はテスターだけ.ろくな測定器もないので.なかなか調整ができない.探りで四苦八苦した末に,やっと,何とか白黒テレビ受信機が完成した.
 本当は屋根に受信アンテナを立てたいところだが借家なので無理.しかたなく室内アンテナ.
 でも,こんなお手製のテレビながら,何とか写る.新婚生活を彩る貴重なものとなった.以後,数年間は辛抱してこのテレビを使い続けた.
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 あれから幾星霜.
 サラリーマン時代の大半は,東芝さんと同業種の会社でコンピュータ関係の仕事とをしていた.東芝さんはTOSBAC.
 他人の芝生はきれいに見えたのかもしれないが,とにかくうらやましかった.
 そのうちの土光さんが東芝の社長になられた.東芝がますます輝いているように思えた.
 特に,家電の分野での東芝のブランド力は最高.まさに王様の風格のある会社だった.
 私の青春時代の一角で常に輝いていた東芝さん.
 一日も早く,再ぼび光り輝く日が来るのを,心の底から期待している.
                                            (おわり)
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(なし)



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