中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(第6回);第3日目(1);鶴瀬宿

2013年10月30日 09時24分49秒 | 甲州道中四十五宿

                                <観音堂から急坂を下る>

    歩いて巡る甲州道中四十四次(第6回);第3日目(1);鶴瀬宿
            (五十三次洛遊会)
       2013年9月28日(土)~30日(月)

第3日目;2013年9月30日(月)  晴

<ルート地図>

■第3日目ルート地図


■ルート地図


<上野原の朝>

■真夜中の胃痛
 夜中に,胃痛で目が覚める.何が原因か全く見当も付かないが,とにかく苦しい.トイレに頭を突っ込んで,胃の内容物を吐き出そうとしたが,どうやっても吐き出せない.水を飲んでみる,でも,胃の痛みは一向に治らない.
 これはもう,薬を飲むしかないなと思って,常時携帯している漢方薬の中から,ツムラ17を取りだして,白湯で服用する.すると,服用してから2~3分で,胃の痛みが嘘のように消えてなくなる.どうして,痛みが消えたのか,そのメカニズムを知りたいが,私は薬の知識が全くないので訳が分からない.とにかく,結果として胃の痛みから解放される.
 改めて時計を見る.2時を過ぎている.こんな真夜中に,どたばたとトイレに駆け込んだり,薬を飲んだりで,ザワザワと過ごしたのは,一人部屋に宿泊している気安さがあったかもしれない.とにかく,飛んだ騒ぎで目が覚めてしまう.もう,眠れないので,余り面白くもないテレビの深夜放映を眺めながら,時間が過ぎ去るのを待つ.
 6時に旅支度の最終チェックを済ませる.そして,何時でも外へ出られるように衣服を整え,リュックの整理を済ませる.

■朝食はバイキング
 6時35分,1階ロビーへ降りる.
 もう,先ほどの胃痛からはすっかり解放されているが,用心して朝食を抜こうかとも思ったが,今日も長距離歩行をしなければならない.とても朝食抜きというわけにはいかないので,軽く朝食を摂るつもりである.
 ロビーには,もう大半の仲間が顔を揃えている.皆が心配するといけないので,今朝方,胃痛でドタバタしたことは,一言も話さず,内緒にしておく.
 6時45分,食堂が開店する.食堂の従業員が笑顔で,
 「…どうぞ…」
と客一人ひとりに挨拶をしながら,食堂へ迎え入れる.
 今朝もバイキングである.
 私は戦争末期から戦争直後の“ひもじい時代”に育った人間.先ほどまでの何時など“今泣いたカラスがもう笑う”だか,“喉元過ぎれば熱さを忘れる”だか知らないが,やたらと色々な食材を拾いたくなる.それを“グッ”と堪えて,まあ,この程度なら,良く噛んで食べれば,私の胃も何とか許してくれるだろう…と,ついつい気楽になる.ただ,今朝に限って,コーヒーだけは飲まないことにする.
 私たちは他の客に迷惑にならないように,食堂の片隅にまとまって座って,朝食を美味しく頂く.
 
<ホテル1階の食堂にて>                  <私の朝食>

<甲州街道の出発点へ>

甲斐大和駅から歩き出す
 ホテル前のバス停本町2丁目から7時38分発の富士急山梨バスの路線バスに乗車して,中央本線上野原駅に向かう.
 8時05分,上野原駅に到着する.
 今朝は下り電車が7分ほど遅延している.ホームに入ったものの,電車の到着まで,かなり時間がある.リーダーが私に,
 「…待ち時間の間に,ウオームアップのストレッチをしましょう…」
と提案する.勿論私に異論はない.幸いなことにホームは広くて長いので,他の乗客に迷惑を掛けずにストレッチをする場所と時間がある.私が音頭を取って,頭の先から足の先までの筋肉や筋をほぐす.
 やがて,下り電車が到着する.7分遅れの電車は,8時26分,上野原駅を発車する.車内は意外に混雑している.
 9時07分,甲斐大和に到着する.まだ通勤時間を少し過ぎた時間なのに,駅の周辺は閑散としている.
 私たちは,9時13分,甲斐大和駅から歩き出す.
 昨日と違って,駅近くのコンビニに立ち寄る必要がないので,裏道を通って,昨日の甲州街道終着点まで歩く.緩やかな下り勾配の道である.

<甲斐大和駅に到着>

諏訪神社
 9時20分,諏訪神社の前を通過する.立派な社殿である.
 境内に立つ案内板によると,本殿は延享元年(1744年),南巨摩郡下山村の棟梁,土橋文蔵により改築されたもの.県指定文化財.
 本殿の裏手に朴の木があるという.ご神木である.日本武尊が杖につかっていたものが,この地で発芽したものだという伝承があるようだ.

<諏訪神社>

<鶴瀬宿とその周辺>

■鶴瀬宿の概要
 資料2(p.323)によると.鶴瀬宿の宿内人口は242人.内,男125人,女117人.宿内惣家数58軒.内,本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠4軒の規模である.
 江戸日本橋から35番目の宿場である.
 問屋業務は駒飼宿と交替で行っていたという.資料1によると,「毎月朔日より20日までは鶴瀬宿,21日から晦日までは駒飼宿が相務めた」ようである.
 「ひる石」は鶴瀬宿の名産で,「日蓮上人がヒルを石に封じ込めたものと言われている.火に入れると長く変化する.近くの沢から産出する黒雲母の風化石」である(資料1).

■今日の出発点に到着
 9時25分,昨日の終点に到着する.
 昨日は気がつかなかったが,「笹子峠」と大書した案内板が建っている.この辺りから鶴瀬宿が始まる.

<笹子峠への三叉路>

金岡自画地蔵尊碑
 9時28分,県道から左折して枝道に入る.
 9時35分,金岡自画地蔵尊碑に到着する.尖った三角形の石碑が金岡自画地蔵尊かなと思ったが,資料1によると,この地蔵尊は明治40年の洪水で像は流失したという.

<金岡自画地蔵尊碑>

鶴瀬関所跡
 9時35分,鶴瀬関所跡に到着する.ここには関所跡を示す案内杭が1本立っているだけ.
 ここが鶴瀬宿の境界のようである.

<鶴瀬関所跡>

■常夜灯
 9時35分,鶴瀬宿入口にある常夜灯の前を通過する.
 常夜灯の柱(って言うのかな?)には「石尊大権現」と刻字されている.立派な常夜灯である.
 常夜灯の周辺は閑静な聚落が続く.

<常夜灯>

■鶴瀬歩道橋
 9時39分,鶴瀬歩道橋を渡る.
 歩道橋の下を流れる川は大菩薩峠から流下している,この先で笛吹川と合流するようである.

<鶴瀬歩道橋>

■真竜寺
 9時46分,真竜寺の前を通過する.
 今回は時間がタイトな旅なので,沿道の社寺に立ち寄る時間がないので残念である.どうやら曹洞宗の寺のようである.
 帰宅後,インターネットでこの寺のことを調べたが,今のところ,これ以上の情報は見つかっていない.

<真竜寺の案内杭>

古跡鞍懸
 9時54分,整然と積み上げられている真新しい石垣の前に「古跡鞍駆」という案内杭が立っているところを通過する.
 案内書の記事によると,どうやらる長坂長閑という人物が,ここから逃亡するときに,
土屋惣蔵に追われる.そのとき落とした鞍が路傍の桜の木にひっかかった所のようである.
 資料3によれば,「勝頼が信長に大敗した長篠合戦で,重臣が相次いで討死したのち,跡部勝資と並んで勝頼に徴用された人物」のようである.だが
「武田家を滅亡に導いた佞臣」で「武田家の滅亡に際し,信長により甲府で誅された」といわれる.
 資料4によると,「土屋惣蔵は武田氏の家臣.長篠の戦いで敗走する武田勝頼にしたがう.天正10年3月天目山で勝頼が自害したとき,織田方の兵と戦い戦死した」人物のようである.
 このように歴史の襞は深くて,にわか勉強では良く分からないが,まあこの辺で先へ進むことにしよう.


<古跡鞍駆>

<断崖の観音堂>

■観音堂隧道脇の険しい階段道に入る
 9時55分,観音堂隧道入口に到着する.
 トンネル右脇の狭い階段道に分け入る.急な断崖沿いに作られた急勾配の階段である.少し登ると,階段道は左右に分岐する.先頭を行く2~3人が,誤って右の道を登り始める.
 「お~ぃ…,そっちは違うよ.こっちの道ですよ…」
と呼び止める.呼び止められた皆さんは不思議そうな顔をする.もう一度地図を確かめる.そして,左側の道が正しいことを再確認する.
 「此の道で良いかどうか確かめます…」
ということで,私が先頭に出て,大急ぎで断崖沿いの階段道を登り詰める.そして,10時丁度に立派な観音堂の前に到着する.

<急な階段道を登る>

よこぶきのくわん道
 資料2(p.324)によると,この坂道は「よこぶきのくわん道」といい,ここは旧甲州道中の道でもあった.
 階段の下で待っている仲間に,
 「ここに観音堂がありますよ…どうぞ登ってきて下さい」
と声を掛ける.
 後ろの方は,息も絶え絶えに,ハアハア言いながら登ってくる.
 “マイペースでもっとユックリ登ってくれば良いのに…”
とまたしても私は思う.
 “どうして,自分のペースでユックリ登ることができないんだろう”
 正直に言えば,余所様のことながら,なぜ自分のペースを自己管理できないのか,苛立たしくすら思う.
 「どうして,自分のペースでユックリ登らないんですか」
と,ついつい荒い言葉で注意してしまう.反省!

<急な階段道を登る>

■立派な観音堂
 階段を登り切った所に,驚くほど立派な観音堂が建っている.私たちは観音堂前の広場でしばしの休憩を取る.
 資料1によると,この観音堂は京都清水から移設したものと言われているようである.この辺りの風景を広重は「右には山にて山の腰を行く,左に谷川,高山に巌石そびえ樹木茂り,向ふに白根ヶ嶺,地蔵ヶ嶺,八ッヶ嶺など高峰見えて,古今絶景地」と讃えているようである.
 では,なぜこんなところに立派な観音堂があるのか?
 勿論,私には分からないが,昔はトンネルがなかったので,この道を通るのが当たり前だったから,ここに観音堂があっても不思議ではない.でも,武田と織田の合戦と何か関係がありそうな気がしてならない.でも,今更そんなことどうでも良いか…

<立派な観音堂>

断崖の道を下る
 境内広場に2基の常夜灯がある.その常夜灯の間から,急な下り階段を下る.階段は半ば朽ちていて,足許が余り良くない.
 いくら山歩きが好きな私でも,高い所や,急な下り坂は苦手である.でも,ここでは多少とも山歩きになれている私が先頭に立つしかない.もっとも山歩きに弱い方に私のすぐ後ろに付いて頂く.そして,一同にお互いの間隔を空けて一歩一歩慎重に下るようにお願いする.
 下の写真でも分かるように,一部には斜度が30度ほどのところもある.昔の人は,こんなところを歩いていたのか,ここもれっきとした5街道の一部だと思うと正に驚きである(冒頭の写真参照).

<急坂を下る>

車道に合流
 10時15分,断崖沿いの道を下って,ようやく舗装道路に降り立つ.
 丁度そのとき,走ってきた軽トラックが下山口で停車する.男性が車から出てくる.
 「…皆さん,ここを下ってきたんですか」
と私たちに話しかける.
 この方は地元にお住まいである.彼は,最近,この崖道を通る観光客がかなり多いので危ないなと思っているとのこと.早くこの道を改修するように,関係筋に話しているが埒があかないとこぼす.
 「崖道から何か落ちてくると,ここを通るのが危ないんで…」
 私はこの話を伺いながら,
 “ありゃ~っ…,安全って…,崖道を歩く人の安全ではなく,自動車道への落下物を防ぐ方の安全だったのか!”
と,ほんの少し裏切られたような気分になる.
 もちろん,自動車道の安全も極めて大切である.同時に,甲州街道という折角の歴史的遺構を安全に保全してもらいたいなという感想を持つ.

<車道に合流する>

<共和>

■武田不動尊跡
 舗装道路へ降りた所で,どちらへ行くのか少々迷うが,トンネル出口付近から右折して旧道に入る.この辺りの地名を共和という.
 10時16分,古跡武田不動尊跡に到着する.
 資料1には「勝頼が共和で休息して,村人に不動尊を託した」という簡潔な説明がある.

<武田不動尊跡>

共和地区を行く
 10時21分,「共和地区」という石碑の前を通過する.
 この辺りから,緩やかな登り坂になり,道の両側に民家が建ち並ぶ共和の聚落が続く.
 
<共和地区石碑>                             <共和の聚落を行く>

旧甲州街道標識
 11時20分,旧甲州街道碑を通過する.
 この碑の手前辺りで,共和の聚落を通過して,野趣豊かな街道歩きになる.やがて,進行方向左手の視界が開けて,遙か遠くの山々まで見通せる素晴らしい道になる.

 
<旧甲州街道碑>                             <展望が開ける>

<甲陽鎮撫隊古戦場>

近藤勇像と柏尾橋跡
 10時30分,近藤勇像に到着する.ここは勝沼町柏尾というところである.
 資料2(p.324)によると,ここは近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が板垣退助を参謀とする官軍に敗れた古戦場である.
 古戦場の舞台となった柏尾橋跡は,近藤勇像の前を右折して公園風に整備された道を,ほんの1~2分入った所にある.辺りは柵で囲まれていて,柏尾橋跡まで近付くことはできないが,途中の散策路には,沢山の資料類,写真などが展示されている.
 
<近藤勇像>                                     <道祖神?>

■柏尾戦争を伝える資料
 柏尾橋跡までの取り付け道路の両側に沢山の資料が展示されているが,そのなかの1枚,「柏尾戦争を伝える資料」を記録のために掲載しておこう.
 此の資料の内容は,通りすがりの私には,余りよく理解できない.

<柏尾戦争を伝える資料>

記念写真
 私たち一行の内,わざわざ取り付け道を入って,柏尾橋跡まで北方方の記念写真を撮る.この写真に写っていない方々は,入口付近で休憩を取っている.
 カメラのシャッターを押した私が写っていないのは当然.

<柏尾橋跡で記念写真>

大善寺
 10時40分,近藤勇像の前から歩き出す.
 10時41分,直ぐ近くにある大善寺に到着する.禅寺である.
 木造薬師如来と脇侍は重要文化財である.資料2(p.325)の説明によれば,薬師は普通右手で茶壺を持っているが,ここの薬師は右手にぶどうを持っている.
 薬師堂は国宝に指定されている.山門,行者堂も江戸時代の建築物だという.
 残念ながら大善寺をゆっくりと見学する時間がないので,外から寺を眺めただけで通過する.

<大善寺>

[参考文献]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%9D%82%E9%95%B7%E9%96%91
資料4:http://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%98%8C%E6%81%92?dic=nihonjinmei
                                         (つづく)

「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0f9009ea6a8c0a1d0812d91d842aad8a
「甲州道中」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c05ca1cefd2140df1b5c4e9f0828345a

「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58
「甲州道中」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/583886c80d2ce6bd9956f000f9258589

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