中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(第11回);第2日目(1):須原宿

2011年12月15日 05時33分11秒 | 中山道六十九宿

                                <紅葉が見事な定勝寺の境内>

     中山道六十九宿巡り(第11回);第2日目(1):須原宿
             (五十三次洛遊会)
         2011年11月11日(金)~14日(月)

第2日目;2011年11月13日(日) 

<第2日目のルート地図>



<第2日目の行程>

<JR恵那駅から須原駅へ>

■ビジネスホテルの朝
 私たちは,昨夜から,JR恵那駅近くのビジネスホテル「エナプラザホテル」に宿泊している.もともとは中津川のビジネスホテルに宿泊したかったが,何か大きな大会が中津川で開催中らしくて,どこのビジネスホテルも満杯.やむなく恵那のビジネスホテルに宿泊した次第である.これも,リーダーのM岡さんの機転で,恵那に宿泊することになった次第である.
 ビジネスホテルは,部屋は狭いながら,1人部屋である.誰にも気兼ねなく自由な時間が過ごせるのが何よりである.
 例によって,私は4時頃から目が覚めてしまうが,テレビを見ながら時間を過ごす.
 6時頃,身支度を調える.
 今夜も,このホテルに連泊である.今日の行動に不必要なものは,スタッフバッグに詰め込んで,部屋に置いておけるので,有り難い.
 6時30分から朝食である.
 6時25分頃,1階の食堂に向かう.20人ほど座れる食堂は,ほぼ満席になっている.
 初老の女性が懸命に食事を運んでいる.私たちは入口近くの席に纏まって座る.
 朝食はサンドイッチ,ヨーグルト,サラダ,コーヒーまたは紅茶だけの簡素なもの.でも,これで十分.美味しく頂く.

<エナプラザホテルの朝食>

■JR恵那駅
 7時00分,ホテル前に集合,出発.
 ほんの1~2分歩いただけで,JR恵那駅に到着する.昨夜,暗くなってから歩いた感じとは随分違って,駅がやたらに近く感じる.
 早朝のせいか,駅周辺の人影は疎らである.
 この辺りは名古屋の通勤圏らしく,電車の本数も30分に1本程度あるようだ.

<JR恵那駅>

■JR須原駅に到着
 恵那駅発7時23分の下り中津川行の電車に乗車する.
 7時33分,中津川駅に到着する.ここで,7時38分発松本行の電車に乗り換える.列車は3両編成,ずいぶんと短くなり,ローカル色が濃くなる.
 8時33分,昨日の終着点,JR須原駅に到着する.

<JR須原駅に到着>

<須原宿>

■須原宿の概要
 須原宿は江戸から39番目の宿場である.
 宿内人口748人(男377人,女371人),宿内惣家数104軒(本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠24軒)であった(資料1,p.215).
 資料2(p.96)によれば,「須原宿は江戸中期に水害に遭う.その後,計画的に宿場町として再建されたために,街道は5間の広さを持っている.宿場用の水が流れ,街道に置かれた水舟に,季節の花が添えられるなど,宿のぬくもりが伝わってくる」という.
 資料1(p.215)によれば,「須原宿が木曽川大洪水で流されたのは1715年(正徳5年)のことであった.その後,一段高い現在の位置に移転した」という.
 1866年(慶応2年),大火があり,このしゅくばの80戸が消失してしまい,昔の面影はかなり失われてしまったという(資料1,p.216).
 宿場の位置は,JR須原駅から南南西に約300メートルである.

<須原宿詳細図>

■須原駅から歩き出す
 まずは,駅広場にある須原の一里塚をもう一度確認する.この一里塚は江戸日本橋から75番目の一里塚である.昨日,写真に撮ったので,今日は撮影を省略する.
 8時45分,須原駅前から歩きだす.
 資料3(p.39)を山行にして,一旦,駅の西側の低いところを通り路地に入る.舗装された路地の両側には民家が建ち並んでいる.

<駅の下の路地を行く> 

■本陣兼問屋跡
 8時56分,本陣兼問屋跡に到着する.
 何となく「カナ釘流」を思わせる文字で「本陣跡」と書いてある木札が立っている.しかし,そこにある家屋はそれほど古いもののようには思えない.
 道路を挟んで反対側が脇本陣問屋跡のようである.
 しかし,これ以上のことは,手許の資料だけでは良く分からない.

<須原宿本陣跡>

■水舟と歌碑
 8時55分,広いとおりに面して飾られている水舟の歌碑に到着する.
 写真の下部に映っているのが太い木の幹をくりぬいて作った水舟である.
 歌碑には正岡子規の詩が刻まれてる.歌碑には,
    寝ぬ夜半を
     いかにあかさん
      山里は
        月出つるほとの
          空たにもなし
と彫ってある.
 正岡子規は須原宿で一夜を過ごしたという(資料2,p.97).
 傍らの案内板には,『日本名勝写生紀行』(注1)の中の文章が書かれている.一部読めないところがあるが,以下の通りである.
「須原に至りし頃は□に入りて空さめたる山霧深く朧々の月は水汲人の影を照らして寂寞たる古(?)駅の趣いふ□なく静かなるに道の中央には石にて囲ひし古風の井戸有りて淡島神社の灯籠其の傍に寂し□立てり」


<木舟と歌碑>

■明治天皇須原行在所碑
 9時00分,明治天皇須原行在所碑の前を通過する.定勝禅寺参道入口の向かって左側に立っている.


<明治天皇須原行在所碑>

■定勝禅寺
 定勝禅寺を参拝する.臨済宗妙心寺派に属し,山号は浄戒山(資料1,p.216).桃山様式の庫裏,本堂,山門(国重文)が美しく,木曽三大寺のひとつである(資料2,p.118). 
 境内にある説明文によると,創建は嘉慶年間(1387~1388年),開基は木曽家第11代右京大夫源親豊の古刹のようである.
 紅葉が美しい境内を散策させて貰う.

<定勝禅寺>

■鍵屋の坂を下る
 定勝禅寺の前で右折して,鍵屋の坂を下る.辺りはいかにも宿場らしい雰囲気がある.
 
やがて,宿場を通り抜けて,郊外に出る.
 9時17分,中仙道第9号踏切を渡る.


<中仙道第9号踏切を渡る>

                             (つづく)
(注)

1)中西栄著,1906,『日本名勝写生紀行』中西書店
http://books.google.co.jp/books/about/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%90%8D%E5%8B%9D%E5%86%99%E7%94%9F%E7%B4%80%E8%A1%8C.html?id=wsvZGwAACAAJ&redir_esc=y

[参考文献]

資料1;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;五街道ウォーク事務局『ちゃんと歩ける中山道六十七次』

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/dd1a1ed0fdd34aacaf1576bcf8e745b5
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2d97085047881f208833ba33f819cfca

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[編集後記]

2011年12月15日(木)

 今,朝,5時過ぎ.まだ外は真っ暗だ.
 今朝は3時30分に起床して,この記事を纏めた.間に合った! この記事は,出掛ける前に仕上げたかった.
 今日は五十三次洛遊会の皆様約20人を鎌倉紅葉の旅にご案内する日である.
 昨日午後,大船まで出掛けた.どこをどのように歩こうか.コースの細部を決めるために,大船の某コーヒー屋に入り込んで,1杯200円也のコーヒーを賞味しながら,ウンウンと四苦八苦.ああでもない,こうでもない・・と,地図を眺めた結果,やっと纏めた.そして,帰宅後,糊と鋏という原始的な道具を使って,何とか配付資料を間に合わせた.それで,昨日はあっと言う間に過ぎてしまった.
 さて,これから,出掛ける前の暫くの間,絵のことでも考えて過ごすことにしよう.
 そして,朝食後,集合時間の10時に間に合うように,家を出る予定である.
 この記事を纏めた途端に,また,眠くなってきた.こりゃダメだ.
                         (愚痴おわり)



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