<沿道の梅が見頃>
[修正版] 歩いて巡る中山道六十九宿巡り(第5回);(2)深谷の社寺探訪
(五十三次洛遊会)
2010年3月13日(土)
※本稿の初出は2010年3月16日である.
初稿の地図を改訂し,本文の加除修正をおこなった,
<ルート地図>
<深谷宿の続き>
■JR深谷駅集合
幸いなことに天気が良さそうである.
何時も遠出をするときのように,4時に起床する.ただ,塔ノ岳詣でをするときに比較すると,出発時間が大分遅いので,朝の時間,大分手持ちぶさたになる.時間を持て余して,ついつい早く家を出る.自宅近くのバス停からバスに乗って,6時40分に大船駅に到着する.今日は,大船7時39分発湘南新宿ラインの電車に乗る予定である.まだ,かなり時間があるので,駅前のマクドナルドで,1杯120円也のコーヒーを賞味しながら時間つぶしをする.
湘南新宿ラインの電車は,結構混雑している.たまたま乗車した場所に空席があったので,これ幸いと座ったが,立ち席の方々が随分と居られる.私が山歩きを始めてから,かれこれ10年以上になるが,何時の頃からか,長時間立っていても,全く疲れない身体になっている.電車の中で1~2時間くらい,立っていても,ただ退屈なだけで,疲労感は全くない.それでも,まあ,座れたので,遠慮なく座ることにする.
座るとたちまちの内に眠くなる.これもまた,私の仕方のない性癖である.
今日は赤羽で快速アーバンなんとか高崎行の電車に乗り換える予定である.居眠りをして赤羽駅を通過すると面倒だなと思いながら,ついつい居眠りを始める.もっとも,赤羽駅を乗り越しても大宮で乗り換えれば良い.まあ,大宮までには目覚めるだろうと気楽に考える.
8時42分に赤羽駅の到着する.8時49分発快速アーバン高崎行に乗り換える.車内の雰囲気が,湘南電車の雰囲気と何となく違うので,若干の違和感を感じる.
9時47分に高崎線深谷駅に到着する.
<深谷駅から歩き出す>
■本陣遺構案内板
一部の方が,10時の集合時間に遅れたので,予定より少し遅れて,10時11分に深谷駅を歩き出す.まずは,駅前の道路を真北に向かって数分歩く.そして旧中山道との交差点を左折して,旧中山道に入る.この辺りには歩道がないので,歩いていても何となく落ち着かない.
10時23分,進行方向右側に本陣遺構案内板がある.案内板には,
「・・飯島家は宝暦2年(791年)より明治3年まで本陣職を務めた.上段の間,次の間,入側が古色を帯びてこの奥に現存している 平成8年 深谷上杉顕彰会第31号」
と記されている.
“古色を帯びて・・”を,ちょっと拝見したい気もするが,そんなことを言い出しては,どれだけ時間があっても,この先の行程が消化できなくなりそうなので,言い出すのを控える.
<深谷本陣遺構案内文>
■“七ッ桜”造り酒屋
旧中山道は,道幅がやや狭い平凡な道である.道の両側には住宅地と商店が混在している.私たちは,深谷町通りに沿って真西の方向に歩き続ける.
10時24分,「七ッ桜」造り酒屋の前を通過する.古い2階屋である.一階の屋根の上に「七ッ桜」と右書きの立派な看板が飾り付けられている.
外からちょっと覗くと,薄暗い店舗が奥の方まで続いているようである.
<“七ッ桜”造り酒屋>
■常夜灯
真西に向かって歩き続けると,道は左に曲がり始める.10時31分,この曲がり角の右側にある常夜灯に到着する.ここまでが深谷宿である.常夜灯は,白くて大きな建物の前に立っているが,何となく哀れな感じがする.
常夜灯の近くに立っている案内板によると,この常夜灯は1840年(天保11年)4月に建立された.高さ約4メートルで,中山道では最大級だという.深谷宿の発展を祈願して天下太平,国土安民,五穀豊穣という銘文が刻まれている.
「これを建てたのは,江戸時代中頃から盛んになった冨士講の人たちで,塔身に透かし彫りになっている“○の中の三”はこの講の印.毎夜の燈明料として,永代田3反が講の所有になっていた」という.
さらに「1843年(天保14年)には深谷宿は約1.7キロメートルの間に80軒もの旅籠があって,近くに中河岸場をひかえ中山道切手の賑やかさだった.東の常夜灯は稲荷町にある」(深谷上杉顕彰会第28号より).
<常夜灯>
<社寺が集積する地域>
■呑龍院
常夜灯と道を挟んで反対側に呑龍寺の本堂が見えている.この寺の故事来歴は,事前に調べていないので,全く分からない.
境内には入らずに,写真を1枚撮っただけで,先を急ぐ.
資料5には,「太田の呑龍さんがここへ来て,2~3年教えたと云う,呑龍上人の木像が安置されている.」という説明がある.他のサイトにも,この説明と同じ記事が散見されるが,これ以上の情報は,そう簡単には得られない.
<呑龍院>
■清心寺
呑龍寺を過ぎると,旧中山道は右に曲がって,再び真西の方向になる.旧中山道の直ぐ南にJR高崎線の線路が並んでいる.
10時35分,JR高崎線の踏切の先に清心寺の本堂が見えている.遠くから線路越しに清心寺本堂の写真を撮る.寺には立ち寄らずに,そのまま通過する.
資料6によると,「浄土宗寺院の清心寺は,石流山八幡院と号し,萬誉玄仙(慶長10年1605年寂)が開山,上杉氏の老臣岡谷加賀守清英(法名皎月院円誉清心居士,天正12年1584年寂)が開基となり,天文18年(1549)に創建したという.当寺には,源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が,平忠度(たいらのただのり)を弔ったという供養塚がある.」という説明がある.
清心寺には,平家一門の武将平忠度(たいらのただのり)の供養塔があるという.
平忠度について,資料7には以下のような記述がある(一部の記述を省略).
「平安時代の平家一門の武将.平忠盛の六男.平清盛,教盛,経盛らは兄.子に忠行がいる.熊野の地で生まれ育ったとの伝承がある.歌人としても優れており藤原俊成に師事.一旦,都落ちした後,都へ戻り俊成の屋敷へ赴き自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した逸話がある.源頼朝討伐の富士川の戦い,源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣.一ノ谷の戦いで,源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死.彼が討たれた際,文武に優れた人物を…と敵味方に惜しまれたという(戦の後、忠澄は忠度の菩提を弔うため,埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立している).
<清心寺>
■萱場稲荷
道路はまっすぐ西へ伸びている.地図を見ると萱場というところらしい.暫くの間は,まっすぐな道をひたすら歩き続ける.やがて,道路が緩やかに右にカーブする場所に近付く.手許の地図を見ていると,そろそろ萱場稲荷が近いことが分かる.
10時40分,石造りかコンクリート造りか良く分からないが,白い鳥居が印象的な萱場稲荷の前を通過する.
ここも境内には入らずに,道路から写真を撮っただけで通り過ぎる.
資料8によると,「総本社は伏見稲荷大社(京都市伏見区),祭神は稲荷神(推定),[同類]宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ),[別称]倉稲魂命.稲荷神は五穀豊穣の神」である.
<萱場稲荷>
■瀧宮神社
10時45分,国道17号線と斜めに交差する.交差点を渡ると直ぐに瀧宮神社の前に出る.境内の入口に総鎮守龍宮神社と刻字のある立派な石塔が建っている.白い立派な鳥居に,大きな注連縄が取り付けられている.境内の突き当たりに,やや小ぶりな社殿がある.
ここから,暫くの間,閑静な裏道を歩く.
資料9によると,「深谷上杉氏が康正2年(1456)に深谷城を築いた際には,城の西南に位置する瀧宮神社を坤門(裏鬼門)の守護神として崇敬するとともに,この地の湧水を城の堀に引き込み,歴代の城主も信仰し続けていた.寛永11年(1634)深谷城は廃されたが,深谷は中山道の宿場町として栄え, 瀧宮神社は仲町・本町・西島の鎮守「瀧宮大明神(たきのみやだいみょうじん)」あるいは「大神宮瀧宮(だいじんぐうたきのみや)」 として心の拠り所とされてきた.」という説明がある.
<瀧宮神社>
■正明寺
閑静な裏道も,すぐにまた元の国道17号線に合流する.途端に自動車の騒音がうるさくなる.国道17号線は,少し右に曲がって,進路が西北西になる.
10時56分,正明寺参道入口を通過する.静かな参道がまっすぐ奥へ延びているのが見えるが,本堂の所在は分からないまま通過する.
この寺の由来などをインターネットで調べてみるが,確かな情報は得られない.どうやら曹洞宗の寺だということだけが分かる.
<正明寺>
■源勝院
11時01分,源勝院参道入口を通過する.入口に曹洞宗源勝院という刻字のある大きな石柱が建っている.
参道入口から覗き込むようにして写真を撮る.
この辺りには,源勝院の他にいくつかの社寺が集積しているようである.
資料10には,「当院は曹洞宗にして,玉鳳山源勝院千手寺と稱す.天正18年(1590年)徳川家康公関東入国のとき,その旗本として武蔵国(埼玉県東京都の一部)岡部,下野国(栃木県)梁田の地,合わせて5250石を与えられた安部弥一郎信勝が亡父,大蔵元真追福のため,慶長4年(1599年)深谷市人見,昌福寺8世,萬室賢達大和尚を請じ創建し,千手観音菩薩を勧請,本尊となし,寺領50石の地を寄進す.よって安部弥一郎信勝を開基となし,萬室賢達大和尚を開山となす.文政10年(1827年)火災により,堂塔,伽藍ことごとく焼失せるを,天保と安政の両度にわたり,領主安部家により再建せらる.これが現在の諸堂である.」という説明がある.
<源勝院>
■高島秋帆幽囚地跡
道路脇に,「是ヨリ100米高島秋帆幽囚地」と刻字した石碑が立っている.ここで左折して,閑静な道路を南へ進む.郵便局の前を通過し,次の交差点を右折する,そして,11時05分,高島秋帆幽囚地跡に到着する.石碑にしたがって,通りから少し中に入ると,高島秋帆幽囚地を示す大きな石碑と説明板がある.辺りは民家と田園が混在している閑静なところである.
説明板の記事によると,「高島秋帆は,1798年(寛政10年),長崎の町年寄の家に生まれた.蘭学と砲術を研究し,高島流砲術を創始.幕府の命により西洋式の兵術,砲術を普及させた.その後,中傷により投獄,岡部藩預かりの身になる.この石碑の辺りに幽囚されていた.幽囚中,岡部藩は客人扱いをして,藩士に兵学を指導した・・・ペリー来航により幕府は近代兵学の必要性から急遽秋帆を放免,幕府の砲術方教授になる.1866年(慶応2年),69才で没.日本の西洋式兵学の先駆者である」という(一部省略.略記).
余談だが,『ウィキペディア』(資料11)で高島秋帆を引くと,ランドセルに関する面白い記事が載っている.記事によると,当時,歩兵が背負った背嚢のことを,ランドセルと読んでいたようである.これが後世の小学生のシンボルになって親しまれているというから面白い.
<高島秋帆幽囚地跡>
■岡部神社
秋帆幽囚地跡から,往路を引き返して,再び旧中山道に戻る.そして西北西に向かって,再び歩き続ける.
11時18分,岡部神社に到着.参道を進むと,右手奥に源勝院の墓地と本堂が見えている.
資料12には,「江戸時代の宝永2年(1705),岡部城の城主となった安部摂津守以来,代々の城主の崇敬があった.明治の居城返還に際し,城主より金馬簾・陣太鼓・保良貝などが奉納された.鎮座地の小字「上」は,もとは「城上」といっていたのが省かれたものである.旧称は「聖天宮」(聖天様)といった.祭神伊弉諾尊 伊弉冉命 (合祀)大山祇命 建御名方命」という説明がある.
<岡部神社>
<岡部神社から源勝院を望む>
■馬頭観世音・普済寺
11時24分,曹洞宗普済寺入口と書いてある大きな立て看板の前に到着する.境内に入ると大きな馬頭観世音など数基の石碑がある.
参道の先には,山門が見えている.遠くから山門の写真を撮っただけで,ここを通過する.
インターネットで普済寺を調べたが,これといった情報は得られなかった.
<普済寺>
■岡部六弥太の墓
近くに岡部六弥太の墓があることが分かっていたが,旧中山道から少し離れているので,参観を省略して先を急ぐ.
『ウィキペディア』の「岡部六弥太」(資料12)には,「岡部 忠澄(おかべ ただずみ)は,平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将,御家人.武蔵七党の猪俣党の庶流・岡部氏の当主.保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として,熊谷直実,斉藤実盛,猪俣範綱とともに従軍して活躍した.源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが,治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると,それに従うこととなった.木曾義仲追討戦の後,源義経の指揮下に入り,寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは平忠度と組み討ち,討たれそうになるも郎党の助太刀によって忠度を討ち取った.平家滅亡後は源頼朝に従い,その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付きあった.建久8年(1197年)没.」という説明がある.
この記事を読むと,源頼朝や義経とも関連があり,さらには東京の杉並区の由来にも関連があることが分かり,歴史の襞の面白さがだんだんを分かってくる.
(つづく)
[加除修正]
2013/2/12 ルート地図の追加と本文の加除修正を行った.
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www.jinriki.info/kaidolist/nakasendo/kumagaya_fukaya/fukayashuku/donryuin.html
資料6;http://www.tesshow.jp/saitama/fukaya/temple_kayaba_seishin.html
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%BA%A6
資料8;http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=5312
資料9;http://fukapedia.com/wiki/%E7%80%A7%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
資料10;http://www.ohaka-plaza.com/c0530.php
資料11;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86
資料12;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%BF%A0%E6%BE%84
(つづく)
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/dd6ad4ae4790e80cd36f121b636898f0
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a51a6666c6485b43566b772ae6596bf7
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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