<久下の長土手:浅間山方面を望む>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第4回):(2)吹上間ノ宿・久下の長土手
(五十三次洛遊会:単独歩行)
2010年1月27日(水)
※本稿の初出は2010年2月2日である.
初稿の地図を差し替えて,本文を加除修正した.
<ルート地図>
<吹上間ノ宿>
■吹上間ノ宿の概要
資料には,「吹上宿は,江戸時代の街道上で,旅人の休憩場所として利用されていた集落が発展して形成された宿場町の1つ. 当時最も重用されていた道路・五街道の1つ,中山道で非公式ながら利用された間ノ宿(休憩用の町場)であり,同時に,主要街道・千人同心街道道の正規の宿場である.所在地は,江戸期には武蔵国足立郷?吹上村.現在の埼玉県鴻巣市にあたる.」という説明がある.
■まずは吹上駅へ
五十三次洛遊会(以下洛遊会と略す)の例会は,来る2月13日に開催さえる予定である.ところが残念ながら,同日,私は先約があって,皆さんとご一緒できない.したがって,この区間は,どうしても1人で歩かなければならない.
今年になってから,天候を見ながら,何時歩こうかと迷っていたが,やっと決心がついて,今日,独り歩きを実施することに決める.私は,何時も塔ノ岳に出かけるときと同じ時間,5時10分に家を出発する.
大船駅6時11分発湘南新宿ライン高崎行に乗車する.今日は平日なので,こんな早朝から電車は案外混雑している.結局,横浜まで立ちんぼで過ごす.席に座れると,すぐに居眠りを開始する.そして,8時丁度に高崎線吹上駅に到着する.
電車から降りる.やけに寒い.やっぱり内陸に入ると,朝は厳しいなと実感する.今日は一人旅,気まま旅である.誰に気兼ねする必要もない.私は,簡単にストレッチをして手足の筋肉をほぐしてから,8時06分に吹上駅前から歩き出す.
<吹上げ駅前から歩き出す>
■明治天皇御駐輦址
地図を確かめながら駅前の道を進む.途中から右折することになっているが,実際に現地に行ってみると,同じような十字路が並んでいて,一寸,戸惑う.所定の十字路を10メートルほど通り過ぎた所で,おかしいなと気が付く.
十字路を左折する.左折してすぐに明治天皇御駐輦址があるはずである.私はそれなりに左右を注意して歩くが見当たらないまま左折しなければならない十字路に到着してしまう.
「おかしいなあ・・・何処にあるんだろう?」
私は今来た道を引き返して,また,駅前の十字路まで戻る.そして,再び眼を皿のようにして,左右を凝視したまま,件(くだん)の碑を探す.
途中で「軍馬頭■(読めない)」と刻字した石柱がある.
でも明治天皇御駐輦址は,やっぱり見当たらない.おかしいなと思いながら,探す幅を少し広げてみる.すると,駐車場奥のブロック塀の向こう側の私有地の中に碑が立っている.
漸く目的の碑を見付けることができたが,ここで5分余りのタイムロスが出てしまう.
<軍馬頭■の碑> <明治天皇の碑>
■東曜寺
ホッとして,十字路を左折する.郊外の閑静な住宅地にある.
「やれ・・やれ・・」と思いながら,ついついうっかりと東曜寺と吹上神社の前を通過して,東海道本線を渡る行田東松山道路陸橋の前に来てしまう.
「しまった・・!」
私は,再び,今来た道を200メートルほど引き返して,東曜寺と吹上神社を参拝する.ここでまた,10分ほどタイムロス.
「こんなことしていたら,今日中に深谷まで歩くのは無理だな・・」
と反省する.
ここからは,もっと注意深く地図を見ながら歩くことにする.
資料6によると,「真言宗豊山派寺院の東曜寺は,瑠璃光山寶壽院と号し,僧宥覚による開山とのみ伝えられ,創建年代は不詳」とのことである.
<東曜寺>
■吹上神社
東曜寺の隣に吹上神社がある.簡素な印象の神社である.
資料7によると,吹上神社は旧吹上町の旧村社であった.村内の鎮守合社のようである.これ以上の情報は,今のところ得られない.
<吹上神社>
■ロスタイムが増える
これまでのロスタイムは合計で19分に達してしまった.
8時38分,行田東松山陸橋下にある吹上間の宿碑に到着する.デジカメで碑の写真を撮ってから,陸橋の階段を登る.
東海道本線の線路を陸橋で跨いでから,暫くの間,住宅地の中を歩く.
<間ノ宿の碑>
■代田仙三郎翁顕彰の碑
8時47分,榎戸堰公園に到着する.道路のすぐ脇に小奇麗な外観のトイレがある.トイレの先へ進むと,旧荒川が流れている.小さな空き地に代田仙三郎翁顕彰の碑が立っている.
事前調査が不十分な私には,この代田仙三郎という人がどのような貢献をしたのか知らないが,碑の傍にある説明碑の記事によると,荒川の治水,つまり榎戸堰建設に尽力をした人のようである.
<代田仙三郎翁顕彰の碑>
<久下の長土手を歩く>
■権八延命地蔵
榎戸堰公園から,再び,住宅地の中を歩く.曲がりくねった道を進むと,進行方向左手から狭い道幅の道が合流する.8時56分,三叉路近くの権八延命地蔵尊に到着する.
<権八延命地蔵>
■素晴らしい眺望の久下の長土手
8時57分,大きな堤防に突き当る.堤防下の道路は工事中で通れない.作業員の誘導で,大きな堤防の上に登る.ここは「久下(くげ)の長土手」といわれる大堤防である.
高い堤防の上は,舗装された広い道路になっている.堤防の上に登った途端に周囲の展望が開ける.進行方法左手,つまり南西には,眼下に川幅がどれくらいあるのか分からないほど広い河川敷が広がる.枯れ草や灌木が群生しているのが見下ろせる.私が,今,歩いている堤防道は,左に大きな弧を描きながら,どこまでも続いている.
堤防のはるか向こうには,雪を戴いて白く光る浅間山,赤城・榛名山,谷川連峰が聳えている.何という広い風景なのだろう.時間さえあれば,ここで昼寝でもしていたいところである.
暫くの間,見晴らしの良い堤防道を歩き続ける.
<久下の長土手>
■馬頭観音と「決壊の跡」の碑
9時05分,堤防下に何か石塔のようなものが見える.私は草だらけの堤防の急斜面を下って,石塔に近づく.どうやら馬頭観音のようである.何時頃,造られたものか,事前に調べなかったので,良く分からないが,表面の刻字はすっかり風化していて読めない.
少しの間,堤防下の道を進む.ところが,前方の堤防上に大きな石碑が飾られているのが見える.近くの堤防へ登る道がある.堤防を登ったり下りたりするのは少々面倒だなと思ったが,折角,ここまで来たのだからと思って,また堤防を登る.
この石碑は「決壊碑」と呼ばれるものらしい.石碑の隣に立っている説明文には,荒川の水害が如何に大規模かつ重大な損害を与えたかが記述されている.
先ほどから気になっていたが,所々に小さな看板が立っている.そこには,「いろはカルタ」を模した文章が書いてある.どうやら熊谷市の観光案内兼宣伝を目的としたものらしい.
この石塔の近くには,
(こ)“洪水の
怖さ伝える
決壊碑”
と書いた看板が立っている.
このカルタから,この石塔が「決壊碑」であることが分かる.
<馬頭観音> <決壊の跡>
■久下一里塚
堤防の上によじ登る.そしてまた,堤防道を先へ,先へと歩き続ける.
やがて,進行方向右手に市街地が広がり始める.地図で確かめると行田に近づいているようである.そろそろ久下一里塚が近い.私は見落とさないように注意をしながら,ひたすら歩く.
やがて,堤防際に5~6階建ての団地が見え始める.
<堤防沿いの集合住宅と稲荷神社>
■小さな稲荷神社
団地の建物のすぐ近くに,小さなお社のような建物が見える.
「・・・あのお社のような建物,一体何だろう・・?」
私は好奇心から,道でもないところを,堤防沿いに降りる.こんなところを降りたら,団地の人たちに見とがめられるかなと思ったが.このお社を見ないわけにはいかない.
お社は稲荷神社だった.ほんの一握りの敷地しかないが,小さいながらも立派な鳥居があり,その奥に可愛いお社が建っている.
<稲荷神社>
■久下の一里塚
お社のすぐ脇に一里塚の説明板が立っている.ここは江戸日本橋から18番目の一里塚である.つまり,日本橋から18里のところを歩いていることになる.
<久下一里塚跡>
■馬頭観世音
道はないが,団地のフェンス沿いに,枯れ草を踏みながら歩く.すると,間もなく,堤防の土手を少し登ったところに,大きな石塔が立っている.もちろん周囲には道はないが,土手を登って,この石塔を拝観する.馬頭観世音である.
なぜ,こんな中途半端なところに石塔が立っているのか,大変興味深いが,私には調べるすべがない.
<馬頭観世音>
■放物線を描く
馬頭観音の場所から,枯れ草を踏み分けながら,土手を登って,再び堤防道に戻る.
見渡す限り堤防道が延々と続いている.私は小用がしたくなった.左右どちらを見ても人影がないので,堤防の片隅から荒川の河川敷に向かって,放物線を作る.
このときの気分が良いこと.この非日常的な解放感は筆舌しがたい.私は自分が作っている放物線を眺めながら,
「やっぱり,一人旅って良いな・・良くぞ男に生まれけり・・・」
と幸福感に浸る.
私の放物線は,近くの雑草の肥やしになるだろう.私の肥やしで大きくなった雑草は,種子を増やしてあちこちに飛散するだろう.これらの種子から芽生えた雑草は,やがて枯れて,他の植物の肥やしになるか,あるいは動物に食べられる.その動物の肉が巡り巡って誰かの食糧となるかもしれない.巡り巡って,私の放物線は,高名な方の血となり肉となるかもしれない・・・こんな連想は実に楽しい.
■元荒川
9時35分,堤防脇に白く塗装された柱が立っている場所を通過する.柱には「海まで72km」と書いていある.随分と内陸まで歩いてきたなと実感する.
まだ,まだ,堤防道が続く.
9時38分頃,進行方向右手,つまり堤防の北東側に,大きく蛇行して流れる川が良く見える場所に到着する.この川が元荒川である.地図を見ると,この蛇行する川によって,太井地区と久下地区が区分されている.
9時40分,堤防を北から南へ横切る舗装道路と交差する.私は地図で現在地を確認しながら,この歩道道路に沿って,緩やかな下りを進む.そして,間もなく,久下の集落の中に降り立つ.
■久下神社
集落に入ると,すぐに久下小学校に突き当る.9時49分,この小学校に隣接する久下神社に到着する.
立派な鳥居のある大きな神社である.社殿の脇には大きな石碑が立っている.事前の下調べが不十分なので,この神社の由来は全く分からない.
私が調べた範囲では,資料8に「付近の鎮守.16社が合祀されて現在の形になっている」という1行の説明しか見つからなかった.
神社から小学校の校庭に,そのままずるずると入り込めるようになっている.最近の小学校は,警備が厳しくなっていて,そう簡単には学校の敷地に入れないようになているが,ここは幾分大らかな感じがする.
授業中なのだろうか,小学校には人気が感じられない.
<久下神社>
[加除修正]
2013/2/4 地図入れ替えと本文の加除修正
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E4%B8%8A%E5%AE%BF
資料6;http://www.tesshow.jp/saitama/konosu/temple_fukiage_toyo.html
資料7;http://www.tesshow.jp/saitama/konosu/shrine_index.html
資料8;http://www.jinriki.info/kaidolist/nakasendo/konosu_kumagaya/kugejinja.html
(つづく)
「中山道六十九次宿場巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6f1d717a4cad253ed6c24ebd95970bcf
「中山道六十九次宿場巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/86689ca1646f0df7ab93f334da05efe2 「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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