首塚らしく、周辺光量が落ちるトイフォトで撮ってみました・・・
現在放送中の大河ドラマ『平清盛』より少し前の時代に、平将門が関東で、藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こします。日本史では二つを合わせて「承平天慶の乱」と呼んでいましたが、覚えている人がいるでしょうか? もちろん、ニワトリさんは忘れていました。
関東全域を制した平将門は、自ら親皇を名乗り朝廷からの独立を宣言しますが、これに驚いた朝廷が追討軍を派遣し、将門が矢に額を射抜かれて討死すると、反乱軍は蜘蛛の子を散らすように霧散しました。
平安京の都大路に晒された将門の首は、三日後に故郷へ飛んでいき、力尽きて数ヶ所に落ちました。大手町にある首塚も、その一つです。茨城県坂東市には、将門の胴塚があります。
平将門は祟り神でした(日本の神様は概ねそうですが)。首塚の周囲で天変地異が頻繁に起こったことから、鎌倉時代の終わりに神田明神に合祀され、神と称えられます。江戸幕府は「将門は朝敵に非ず」として、神田明神を江戸城の鬼門に相当する現在の地へ移転させ、将門を江戸の守り神にしたことを周囲に宣言しました。しかしながら明治維新が起こると、将門は再び朝敵とされ、恐れをなした神田明神は将門を祭神から外してしまいました。終戦後は復帰の機運が高まり、1984年に再び神田明神に合祀され今日に至っています。
大手町の首塚は所謂パワースポットで、都市伝説がたくさんあるのですが、自分はそうした側面よりも前述した経緯から、「生きた」歴史を感じます。そしてこの首塚の前に立てば、かつて平将門が生きた時代や、それからどのように時代が変わっていったのかを、ほんの少しでも追体験できるような気がするのです。遺跡や遺構はその時代にトリップするための装置で、言わばタイムマシンなのだ、と言ったら、わかり易いでしょうか?
数年前に宮島を訪ねたとき、平清盛と後白河法皇が厳島神社に参詣したときの松の切り株というのがあって、その瞬間に、単なる切り株が特別なものに変わってしまいました。飛鳥の天樫丘を歩けば、自分と同じように聖徳太子や蘇我馬子が歩いたかもしれない、と感慨に浸ります。単なるミーハーなのかもしれませんが・・・。
敷地内には蛙の置物が沢山あります。将門の首が故郷へ飛んでいったことから、「必ず帰る」とひっかけて蛙を置くようになったそうです。オフィス街になった現在では、左遷された人や、海外出張を命じられた人が「無事戻ってこられる」ようお参りしていくそうです。
この日も、わずかの時間にサラリーマンが何人もお参りしていきました。ニワトリさんも、この記事を最後に、一泊二日の旅に出ることにしましょう(今晩はGHで泊まりです)。
実を言うと、GHに来る前に谷保天神にお参りしてきたのですが、神田明神に参詣する人は(初詣や豆まきで有名な)成田山新勝寺にはお参りしてはならないことをご存知でしょうか?
これは(ここで将門に勝利するための祈祷が行われたという)成田山新勝寺の縁起からきています。神田明神と成田山新勝寺は敵味方の関係だったのです。
ニワトリさんはこうしたことを全く知らなかったのですが、新勝寺には一度もお参りしたことがありません。江戸っ子の血が流れているから? 不思議です。
ちなみに、谷保天神の神様は菅原道真です。反=藤原という点では将門と道真は「同志」になるから、谷保天神をお参りしても将門が怒ることはない筈・・・。それでは、行ってまいります!
菜の花と桜・・・絵になりますね。後方の国会議事堂も(中にいる人は論外でも)建物は素敵!
長男にも連絡してみます。
この4月からマニラ支店勤務になってしまい心配していた所だったのです。
一応住まいを決めて今は戻って来ていて
今月末に本格的な赴任となります。
今週末家に帰ってくるので話してみます。時間があれば行くように。
ありがとうございました。
平将門と言うと昔清水邦夫の戯曲『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』が氏の演出、自らが結成した「風屋敷」という劇団で上演される予定でした。
ところが直前に中止になったのです。
劇団そのものが解散してしまって。
出演予定の緑魔子さんや石橋蓮司さんが
ゴールデン街で喧々諤々やり合っていたのを思い出します。
その後蜷川幸雄さんの演出で上演されました。
緑魔子&石橋蓮司さん! 大好きな俳優です。そうですか、ゴールデン街で……そのやりとり、聴いてみたかったなあ~♪