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飯島一孝ブログ「ゆうらしあ!」

ロシアを中心に旧ソ連・東欧に関するニュースや時事ネタを分かりやすく解説します。国際ニュースは意外と面白い!

今年の夏は、日露友好のシンボルになっている沼津市の「戸田(へだ)港祭り」を見に行こう!

2011年06月20日 08時49分03秒 | Weblog
 新幹線・三島駅で下車して車で山道を約30分走ると、穏やかな戸田港が見えてくる。ここが156年前の幕末期、安政の大地震で沈没したロシア軍艦に代わる洋式帆船を日露の船大工らで建造した歴史的場所である。梅雨の晴れ間の19日、建築業を営みながら日露交流を実践している戸田文化協会会長の山口展徳さんに戸田を案内していただいた(写真は「ヘダ号進水式の図」を前に語り合う山口展徳さん(左)と中村喜和さん)。

 案内してもらったのは、来日ロシア人研究会元代表の中村喜和・一橋大学名誉教授、中尾千恵子・マルナカインターナショナル社長と私の3人。中村さんは約50年前から戸田に関係する日露交流史を研究しているが、中尾さんと私は初めてこの地を訪れた。中尾さんは今は近くの熱海市に住んでいるものの、私は戸田についてにわか勉強をして東京から駆けつけた。

 その昔、戸田は人口約3千人の漁村で、豊かな漁場をバックに静かな生活を満喫していた。ところが、1854年12月23日朝、マグニチュード8・4(推定)の東海大地震が発生、それに伴っておきた津波と併せて甚大な被害を被った。そればかりか、ロシアからプチャーチン提督率いる外交団を乗せた軍艦ディアナ号が伊豆下田に停泊中、津波の直撃を受け大破。修理のため戸田に移動させようとして津波に続く暴風雨で駿河湾内で沈没してしまった。

 困ったロシア側は戸田で代用船を建造することを決意し、日本側の協力を求めた。当時江戸幕府は鎖国を実施していて、大型船の建造は御法度だったが、開明性のあった老中阿部正弘はロシアの洋式船の建造を許可した。このため村にはロシア人の乗組員約500人がバラックを立てて住んだほか、日本のあちこちから船大工ら100人が集まり、一大造船基地になった。ディアナ号の沈没で設計図面はすべて失ったが、たまたま軍事科学雑誌に帆船の設計図が載っていて、造船に詳しい軍人らが100トンの洋式帆船を設計。これを元に日本人の船大工らが建造にあたり約100日で完成させた。

 その頃、戸田の現場を訪れた米国人が「まさしくこれが造船所だ」と驚くほど活気づいていた。なんといっても日本にとっては初の西洋帆船の建造で意気が上がったのだろう。このあと同型の船が戸田で6隻、石川島で4隻建造され、日本各地で活躍した。この間、プチャーチンは江戸幕府と日露修好条約の交渉を続け、北方4島を日本領とする条約を締結した。そしてプチャ-チンら士官50人は新造の帆船「ヘダ号」に乗って帰国、そのほか水兵らはドイツ船などに分乗して祖国へ帰還した。

 我々一行は山口さんに造船郷土資料博物館へ案内してもらい、ヘダ号の模型やディアナ号で提督らが使っていた食器類などの遺品を見学した。我々の目を引いたのは、当時の日本人画家が描いた「ヘダ号進水式の図」と題された大作。ロシアの提督ら要人の姿と名前が書き込まれ、当時の様子を知る貴重な資料と言える。また、安政の大地震の状況や被害がよくわかる資料もいくつか展示されていた。

 このほか、プチャーチンが宿泊していた宝泉寺、日露修好条約の追加交渉が行われた大行寺、幕府側の宿泊所の蓮華寺などを見学した。この日はあいにく厚い雲が垂れ込め、霧があったため富士山は見れなかったが、戸田港から見る富士山は最高だと山口さんが説明してくれた。港内は直線距離で8百米といい、外洋と遮断されていて波がなく、天然の良港だった。この港を造船の適地として選んだのはロシア人自身と聞いて二度びっくりした。

 戸田港では7月23日(土)、にぎやかに「戸田港祭り」が行われる。今年は東日本大震災で自粛ムードが強いが「がんばれ日本人。 東日本大震災復興応援イベント」として行うことになったという。メーンイベントは、プチャーチンに扮したロシア人の行列やロシアの民族楽器バラライカの演奏会で、ロシア色が強い祭りになりそうだ、戸田観光協会の川合健次会長は「出来るだけ多くの方に来ていただいて戸田の良さを知ってもらえたら」と話していた。我々も何らかの形で協力したいと申し出た。この夏は戸田に出かけて、暗い日本を吹っ飛ばそー!!

 

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