しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <イエスの御名によって>

2017-09-10 | みことば静想

マーガレット昨日のこと、教会の葬儀に出席した。かつて私が大変お世話になったH兄が91歳で召されたのである。家族だけでなく、教会員からも慕われていた兄の葬儀だけあって、大勢の方々が悲しみ、涙を流していた。もちろん私も同じであったが、献花が終わったその時、「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15:54新改訳)とのみことばが響いて来た。▼やすらかなお顔とはいえ、死の力におおわれた亡骸(なきがら)であることに変わりはない。目を泣きはらした顔、顔、白い花々と棺、別れの賛美とエレクトーンの音色、どこを見ても「死は勝利にのまれた」とまでいえるしるしはない。▼むろん、慰めと希望はたしかにある。でもそれで勝利が死をのんでしまったといえるだろうか。そう思っていると、また一つのみことばが臨んだ。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31同)▼会場が死一色に見えようとも、ただひとつはっきりしていることがある。その葬儀が「イエスの御名によって」おこなわれていることだ。ならば、そこに復活のいのちが厳然と存在しているではないか。なぜならいのちはイエスの御名と共にある、とヨハネが言うのだから。そのときあらためて心に迫って来たことは、イエス・キリストの御名によって人生を最後まで営むことの大切さであった。なぜならキリスト者とは、イエス・キリストの御名を呼ぶ人々を指すのだから。「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(使徒22:16同)