しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 詩篇137篇 <バビロンの娘よ>

2017-08-02 | 詩篇

吊り橋「バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。」(詩篇137:8新改訳)

ユダ王国とエルサレムを滅亡させたバビロンに対し、神の復讐を願う詩である。しかしこれは単に人間的な仇返しを求めるものではなく、創造主とその宮であるエルサレム神殿まで犯し、破壊した罪に対する審判を預言したもので、その証拠に、預言者イザヤもエレミヤも、バビロンが徹底的に破壊され、永遠の廃墟となることを繰り返し語った(イザヤ13、47、エレミヤ25、50、51の各章参照)。▼バビロン精神とは、神をあざ笑い、偶像を賛美し、神の選んだ国や民を憎む精神のことで、サタンから来ていることはあきらかだ。この潮流こそ、現代文明を形作りつつ、終末に至って淫婦バビロンとして結晶化する。これはローマ精神でもある。ユダヤ総督ピラトは、主イエスが連行されて来たとき、裁判長として判決を下す座に着いていたのに、神の子をあざ笑った。「私はこの人に罪を認めません」(ヨハネ19:6同)と言明しながら、真理をあかしするために来られた方を軽蔑し、虫けらのように殺すことを何とも思わなかった。御霊は信仰者たちに、この精神から遠く離れるよう命じておられる。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示録18:4,5同)▼ローマはユダヤの神とそのキリストを憎み、迫害を加え、歴史の後半においては国教の名のもとに囲い込み、二千年間利用してきた。この精神の本質は、我こそ神であり、最高至上の存在である、との自負心であり、他のいかなる存在も自分の前にひざまづかせずにはおかないのである。まことの神は、尊大さに満ちたこの精神を容赦しない。仮借なき怒りの火に焼かれるバビロンの姿が黙示録に描かれている(黙示録17~19章)。そしてそのあと、ひとすじに主を愛したこひつじの妻の婚姻が開かれる。天も裂けんばかりの喜びのうちに。