今日から新しいカテゴリーをひとつ加える。エスペラントにまつわる雑学である。文献にあたる余裕がないので、エスペランティストの方で間違いを発見されたら、教えていただけるとありがたい。
エスペラントで krokodili(クロコディーリ)という言葉がある。エスペラントで話すべき場所で自国語で話すことをいう。その自国語を理解できない人が同席している場合などで、マナー違反である。エスペラントは語尾を変化させることで品詞を変えられる。krokodilo はワニであり、krokodili はその動詞形ということになるが、ワニを動詞にしてそんな意味が生ずるのはいくらエスペラントでも奇妙である。
どこかで「しいて言えば『ワニ語を話す』という意味だ」とあったが、これも変である。「日本」や「人間」を直接動詞にしても、「日本語を話す」「人間語を話す」にはならない。Mi krokodilas. (-as は動詞の現在形)といえば、「私はワニしている」「私はワニである」くらいの意味であろうか。
実はこの言葉は、ある若者の気まぐれから生まれたものである。あるエスペラントの集まり、若者たちが談笑している近くで、老人たちが自分たちの言葉でしゃべっていた。それを見た一人が「なんだあのワニたちは!」と叫んだ。自分の発したその言葉がよほど気に入ったのか、彼は「ワニ」の動詞形まで作り出し、「エスペラントの会でワニらない」キャンペーンまではじめる。そして、ワニはエスペラント界に新しい居場所を獲得したというわけである。
krokodili の語源についての笑い話がある。日本を旅したどこかの国のエスペランティストがお別れの席で、日本語で感謝の意を表したいと思った。ところが、「ありがとう」という言葉を忘れてしまった。たしか「ワニ」(aligatoro:アリガトーロ、アメリカワニ)だったと思いだして、「クロコディーロ」と言ってしまった。これがその語源になったというものである。
ついでながら、エスペラントでは aligatori に、エスペラントを使うべき場で、自分の母語以外の 民族語で話すことを意味する(エスペラント会で日本人が英語で話すとか)が、あまり使われてはいないようだ。
写真はハノイ(ベトナム)のホアン・キエム湖、亀の塔
エスペラントで krokodili(クロコディーリ)という言葉がある。エスペラントで話すべき場所で自国語で話すことをいう。その自国語を理解できない人が同席している場合などで、マナー違反である。エスペラントは語尾を変化させることで品詞を変えられる。krokodilo はワニであり、krokodili はその動詞形ということになるが、ワニを動詞にしてそんな意味が生ずるのはいくらエスペラントでも奇妙である。
どこかで「しいて言えば『ワニ語を話す』という意味だ」とあったが、これも変である。「日本」や「人間」を直接動詞にしても、「日本語を話す」「人間語を話す」にはならない。Mi krokodilas. (-as は動詞の現在形)といえば、「私はワニしている」「私はワニである」くらいの意味であろうか。
実はこの言葉は、ある若者の気まぐれから生まれたものである。あるエスペラントの集まり、若者たちが談笑している近くで、老人たちが自分たちの言葉でしゃべっていた。それを見た一人が「なんだあのワニたちは!」と叫んだ。自分の発したその言葉がよほど気に入ったのか、彼は「ワニ」の動詞形まで作り出し、「エスペラントの会でワニらない」キャンペーンまではじめる。そして、ワニはエスペラント界に新しい居場所を獲得したというわけである。
krokodili の語源についての笑い話がある。日本を旅したどこかの国のエスペランティストがお別れの席で、日本語で感謝の意を表したいと思った。ところが、「ありがとう」という言葉を忘れてしまった。たしか「ワニ」(aligatoro:アリガトーロ、アメリカワニ)だったと思いだして、「クロコディーロ」と言ってしまった。これがその語源になったというものである。
ついでながら、エスペラントでは aligatori に、エスペラントを使うべき場で、自分の母語以外の 民族語で話すことを意味する(エスペラント会で日本人が英語で話すとか)が、あまり使われてはいないようだ。
写真はハノイ(ベトナム)のホアン・キエム湖、亀の塔
「I have no idea what are you talking!」が運転手の反応。
その中国人が立ち去った後乗客の一人が「日本語でThank you をどう言うか知っている?」と隣の人に聞きました。そして「アリゲートーって言うのよね」
Arigato の英語読みです。つまりこの人は日本語で有難うと言うのを耳で聞いたことは無いのだと判りました。離れていたので私は何も言いませんでしたが、可笑しかったです。
エスペラントを習い始めた頃、集まりに遅れてきた友人が「Mi mang^is s^au'mon(私は泡を食べた)」(遅刻しそうで泡食っちゃった、のつもり)と言ったり、舞台に上がって合唱した時だったか、「Mi estas tre Hazukasii(とても恥ずかしい)」と言った友人のことなど。。。
こんなどうでもいいことは良く憶えているものですね。
どちらも意味は「共通語(エスペラント)で話すべき場面なのに、自国語ですらない言語で話すこと」で、よろしいでしょうか?
逆に、ヨーロッパの人がギリシャ神話やヨーロッパの歴史を知らないとわからない表現をするのも困りものです。
「Hazukasii」・・・これはkrokodiliの一種ですね。その集まりは日本人だけだったのでしょう。
parenteze pardonon pro ke mi cxiam aligatoras sur mia blogo, sed mi ne povas cxesigi gxin por mia ekzercado de franca lingvo.