エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて18年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

蜂と蛇

2017-02-13 | エスペラントな今日


 私の感覚では「針を持つ昆虫で、羽があって、刺されると痛い」というのが「蜂」である。これは人によってちがうかも知れない。私の少年時代には蜂の巣を見つけると採ってきて中の幼虫をフライパンで炒って醤油をかけて食べた。直径5〜10cm程度の丸い灰色の巣で、たぶんごく普通のアシナガバチだった。我が家の軒下にも時々巣がぶら下がっている。
 この地方で「蜂の子」といえば「地蜂」である。やっぱり幼虫を食べるのだが、栄養豊富な高級食材である。
 「蜂」をエスペラントでどういうか。とりあえず「日エス辞典」で調べると、abelo, vespo, burdo, polisto が出てくるが「蜂」一般ではない。別の辞書で調べて、krabro というのも見つけた。
 PIV で abelo を調べると、himenopteroj の一種だとある。そこで「エス日」でこいつを調べたら「膜翅類」とだけある。これでは何のことか分からないから国語辞典で調べる。しかし「新明解国語辞典」には載っていない。「広辞苑」には「膜翅目」で載っていた。「類」なのか「目」なのかは別にして、どうやら蜂や蟻を含む昆虫の一種らしい。範囲が広すぎて一般的な「蜂」には使えそうにない。ついでに PIV で formiko を調べたら、やっぱり himenopteroj の一種である。
 「昨日蜂に刺されたんだ」をエスペラントに訳すには、自分を刺したハチの種類を見極めなければならないというわけだ。

 我が家の周囲で年に数回、蛇を見ることがある。妻はパニックになってしばらく庭に出られなくなる。蛇には krotalo, pitono, vipuro, kolubro, bungaro, cerasto, elapo, konstriktoro, koronelo, krotalo, najo, tropidonoto, boao, anakondo などなどがあるが、「ヘビ」一般は serpento でいいらしい。エデンの園にいたのも serpento である。

   
写真はインドで見た大きな蜂の巣
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些細なこと

2017-01-31 | 読書ノート


 今月2冊目の読書ノート。「Bagatelaro」は1951年にノルウェーで発行されたエスペラントの読み物である。オスロのエスペラント事務所に泊まったときに頂いてきた。袋とじになっていて、読み進むに従ってペーパーナイフでページを開いていくのが楽しい。
 最初に、もはや「pura komencanto」ではない人たちに比較的易しい様々な読み物を提供することがこの本の目的とある。
 巻頭の短編「Bagatelaro」をはじめ、十数行の詩から40ページほどの中編まで20ほどの作品が収録されている。havi fermitan vizagxon といったあまり見たことのない表現もまれに出てくるが、おおむね読みやすい。全体に軽快で皮肉な作品が多いのだが、ナチスドイツの残虐な行為を描く数編がとくに印象に残った。
 「Mozaiko」はこの本では最も長い小説である。列車のコンパートメントに偶然乗り合わせた人たちが、お互いに相手がどんな人なのかを推理し合うゲームを始める。その中の何人かが、それぞれに異なる立場でナチによる迫害の経験を語る。中でも若いユダヤ人女性は腕と乳房に収容所で施された入れ墨を持っている。彼女の語るその経験は具体的で迫力がある。最初は職業や出身を推理し合いながら、次第にその人の人生の一コマを語っていく構成もなかなか面白かった。

 中にはユーモラスな短い詩もある。以下は私の拙訳。
 Historio el Vermlando (虫の国のお話)
  草の下で若い虫がおいしく腐った落ち葉を食べていた
  その間、明るい光の世界に旅をしようと考えた。
  若くて美しい虫がいつまでも一人ではいられないから
  彼は一寸ほど頭を持ち上げた。
  彼の頭は黒い土の皮を突き破り、
  わが勇敢なる虫は周囲を好奇心一杯で眺めた。
  ほら、別の虫の頭が黒い土からでてきて、
  わが友人の心は希望でときめいた。
  彼は首をもっと伸ばして頭を高く上げて、
  今や細くなってさらに1インチ。
  その美しい頭を見つめて、うめき、あこがれ
  とうとう勇気を出してていねいに言いました:
  素敵な虫さん、私と婚約しませんか?
  だめです、相手はいいました、だって私はあなたの尻尾だから!
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2つのシベリア鉄道の旅

2017-01-27 | エスペラントな今日


 今年はエスペラント世界大会が韓国・ソウルでおこなわれる。この大会にヨーロッパからシベリア鉄道経由で参加しようという企画がある。過去にもこのような旅行は実施されてきた。その一つは実績のある Esperanto-Karavano が組織するもの。ロシアの Tatjana Loskutova が中心に運営する。
 7月4日から、サンクト・ペテルブルグ、モスクワ、イルクーツク、ウラジオストックで観光や地元のエスペランチストと交流しながら旅をして、最後は飛行機でソウルに行く。Esperanto-Karavano で検索すればそのサイトがあり、この旅行の趣旨や過去の記事,今年の計画などを見ることができる。参加者名簿もあり、Novaj aligxoj PLU NE estas akceptataj. とあるから、参加申し込みはもう締め切られたようだ。



 もう一つは、韓国で最も優れたエスペランチストの一人、SO Gilsu さんの企画である。Esperanto-Karavano との大きな違いは、北朝鮮から板門店に行くという点である。大きく3つの部分がある。
 1部:7月1日ベルリン集合(ホテル1泊)、鉄道でモスクワへ(車中1泊)。モスクワで観光(ホテル2泊)、その後イルクーツクへ鉄道で(車中4泊),イルクーツク・バイカル湖観光(ホテル2泊)、モンゴル・ウランバートルへ(車中2泊)ウランバートル観光(観光用キャンプ・ホテルなど3泊)、北京へ(車中1泊)、北京観光・万里の長城(ホテル1泊)。
 ここで2部から参加する人たちと合流。

 2部:7月18日、北京出発平壌へ(車中1泊)、平壌観光(ホテル3泊)、21日には板門店を訪れ、第3部参加の人と軍事境界線を間にして向き合う。最終日22日は、可能なら軍事境界線を越えて韓国に入る。それが実現しない場合は、平壌〜北京経由でソウルへ。大会会場までバスで移動する。

 3部:7月21日、ソウルから板門店観光。

 以上が概略である。日本や中国からの参加者は、2部または3部への参加が想定されているが、もちろん1部からの参加も可能である。1部の参加申し込みは1月31日が期限だから関心のある人は急ぐ必要がある。2部の申し込みは2月28日まで。申し込みは SO Gilsu さんへメールで。
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Vulpo

2017-01-18 | el mia vivo


Kiam mi konstruis mian domon antaux 38 jaroj, cxirkauxe estis suficxe da naturo kaj kamparo. Mi vidis sovagxajn bestojn, ekz. niktereuxto, mustelo.
Pli kaj pli multigxis domoj kaj malaperis naturo, lastatempe mi ne vidis sovagxajn bestojn krom birdoj. Sed tuj najbare de mia domo ankoraux restas kampoj de kasxtano, rizo.
Hieraux mi vidis vulpon. Dum mia 38-jara logxado cxi tie unuafoje vidis gxin. De kie kaj al kie gxi venis?

昨日、我が家のすぐ近くでキツネを見ました。この辺りでは初めてのことです。
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死と隣り合わせの日常

2017-01-11 | 読書ノート


 読書ノート・Maskerado cxirkaux la morto の最終回である。写真は2001 Humphrey Tonkin が注をつけて出版された第2版である。手元にはないのだが、作者の息子たちによる前文や Tonkin の注を読んでみたいと思う。

 1944年4月初めには米英空軍の空襲が始まり、ブダペストでも防空壕が作られる。8月には連合軍のフランス侵攻が始まり、ドイツ本国への爆撃も始まる。ソ連とルーマニアが停戦し、領土分割(ルーマニアの一部がソ連に編入され、ハンガリーの一部がルーマニアへ)がおこなわれる。これはソ連による新しい植民地主義の始まりだったと作者はいう。
 10月、政府はこれ以上ドイツに追従せず、連合国側について国を守るという方針を出す。多くの国民はこの決定を歓迎する。作者自身も、この日が好天で紅葉が美しいことに気づく。しかし、ナチズムの矢十次党がすぐさまクーデターを起こし、Szalasi 政権が誕生する。ユダヤ人への迫害・虐殺がますます激しくなる。
 この頃までに、地方に住んでいたユダヤ人はほぼドイツに連れ去られ、ガス室に送られていた。その数は40万人以上である。首都ブダペストには10万のユダヤ人が残っていた。キリスト教徒と混住している場合が多く、市内に作られたゲットーの中にさえキリスト教徒も住んでいた。そのため矢十次党側もユダヤ人を見つけ出して殺すには一定の困難があった。その上、少なくない一般市民や警察官でさえユダヤ人に同情して助けた。

 そんな状況下でも生きていくための営みがある。作者の自己を客観的に見つめる目はその生活をユーモラスにさえ描き出す。
 あるとき壁を這うシラミを見つける。間借り人の不潔さがもたらしたと大家さんに思われたくなくて、シラミ退治を始める。それはマッチでシラミを焼いてしまうというものである。何日かの闘いでついにシラミはいなくなったが、壁にその痕跡が点々とついていた。

 逃亡生活を経験したことで、作者はあらゆる迫害を自分自身のこととして考えるようになる。日本政府の残虐な行動を恥ずかしいと思い、南アフリカの黒人差別に傷つく。あたかも世界の動きに自分が責任を持っているかのように。
 1945年1月12日、ソ連軍がブダペストに侵攻し、作者のニセキリスト教徒の生活は終わる。ロシア人による占領は人々に新たな危険をもたらし、新しい形での仮面生活を要求したが、これはまた別の物語である。
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第二次世界大戦末期のブダペストで

2017-01-08 | 読書ノート


 読書ノート「Maskerado cxirkaux la morto」の続きである。
 第二次世界大戦でハンガリーはドイツ側で戦った。ハンガリー政府はドイツへの妥協を重ねることで、その占領を避けていた。しかし戦況がドイツに不利になってきて極秘に連合国側と交渉を始め、それを察知したドイツ軍がハンガリーを占領した。
 作者はハンガリーのユダヤ人に迫る死の危険を察知するが、多くのユダヤ人はまだそれを感じていなかった。
  Ni sentis nin proksime kiel la optimisto, kiu falis el sesa etagxo kaj cxe la unua etagxo konstatas; Gxis cxi tie cxio iras bone.
 ユダヤ人に対する略奪が始まり、行方不明になる人も出る。作者は「ニセのキリスト教信者」を装って生き延びることを決意する。そのためにあらゆる種類の書類を手に入れることに奔走する。彼の弁護士としての経験や人脈を最大限に活用する。身分証明書・住民登録・兵役証明書・雇用記録などなど。中には包茎手術証明書まである。ユダヤ教徒は幼いときに割礼を受けているので、男の場合は裸にしてみればすぐに分かってしまう。その場合の逃げ道である。
 苦労して手に入れた書類を、ある時は無料で他人に渡すこともあり、相手が金持ちの場合は高く売りつける。生きている限りお金は必要なのだ。ある女性がブレスレットを持ってきて6,000 pengoj で買ってくれという。彼は手持ちの金が少ないのでこれをフランス人たちに12,000 pengoj で売り、女性には 7,000 pengoj を渡す。道徳的正直さが+1,000を要求したからだが、商人としては失格だと彼は考える。
 原則として、危険を少しでも避けるために家族は一緒に住まない。妻や息子たちもバラバラになり、他人として暮らすが、置かれた境遇に納得がいかない義母を説得するのに苦労する。困難な状況の中でまだ若い子供たちへの親としての責任も果たそうともする。作者の生活を支えたのは、ドイツの支配は長くは続かないという確信であった。家族・親族の固有名詞が出てくるが、誰が誰だったか分からなくなってきたので、読み始めからきちんとメモしておくと良かった。
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死の周りでの仮装

2017-01-05 | 読書ノート


 読書ノートの新年度第一号。エスペラント原作文学である。作者の Teodoro SxVARC(SCHWARTZ、別名はSOROS Tivadar)は1894年生まれのハンガリーのユダヤ人弁護士である。1968年、ニューヨークで死去。
 第一次世界大戦の東部戦線で兵士からエスペラントを学んだ。シベリアで捕虜生活を送り、逃走中に立ち寄ったモスクワでソヴィエトエスペラント協会の創立に関わった。1922年、ブダペストでカロチャイやバギーとともにエスペラント文芸誌「Literatura Mondo」を創刊、1924年までその編集に携わった。1924年、第一次大戦の経験を書いた自伝的小説「Modernaj Robinzonoj 」を発表。

 Maskerado cxirkaux la morto は1944年3月19日のドイツによるハンガリー占領から1945年1月12日、ソ連軍がブダペストを占領するまでの間を生き抜いた作者の自伝的小説である。1965年発行だから作者が自己の経験を振り返ってこの小説を書き上げるのに20年近くを要したことになる。2001年にはHumphrey Tonkinが編集し注をつけ、作者の2人の息子による前文を収録した新版が出ているが、私が読んだのは旧版である。英語・ハンガリー語・チェコ語・イタリア語に翻訳されている。

 J.REGULO による前文では、ヨーロッパにおけるユダヤ民族迫害の歴史が1215年の「第4ラテラン公会議」から簡潔に記されていて勉強になる。ここでは16〜19世紀のアフリカ奴隷貿易に並べて、西洋の恥ずべき歴史としている。
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Kial malfacile?

2017-01-04 | エスペラントな今日


La lernogrupo de Esperanto en nia regiono lastatempe komune legas la libron "33 rakontoj". Unue ni eklegis antauxskribon "Mesagxo de nia originala literaturo", kiun kompreni estas ege malfacile.
Mi ofte vidas, ke kritiko, komento, komentario, recenzo ktp en literatura kampo estas ege malfacile komprenebla.
Unu el valoroj de Esperanto estas gxia facileco, cxu ne?
La libro "33 Rakontoj" enhavas gemojn de Esperato-originala literaturo. Se iu legante unuajn pagxojn de cxi tiu libro forlasos legadon pro ilia malfacileco, tio estas tre bedauxrinda afero.
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La jaro de koko

2016-12-31 | エスペラントな今日
Felicxan Novjaron!
Laux azia kalendaro estas la jaro de kok(in)o. Koko estas tre populara, gxi trovigxas preskaux cxie en la mondo. En la vojagxo en eksterlando mi ofte vidis, sed malofte fotis gxin.
Mi sercxis kokon en mia foto-dosiero, kaj trovis kelkajn.


En vilagxo cxe Araba maro en Barato, 2008. La postkongresa ekskurso de la 5-a Azia Kongreso de Esperanto.



En montara vilagxo en nepalo, 2009. La 8-a Internacia Himalaja Renkontigxo.


En montara vilagxo en Gvatemalo, 2010. La antauxkongresa ekskurso de la 95-a UK.


En la domo de mia gastiganto en Kubo, 2010. La 95-a UK.


En Vjetnamio, 2014.


En la domo de mia gastiganto en Svedio, 2016.

世界各地で撮った鶏です。
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La Unua Libro

2016-12-28 | エスペラントな今日


En la kunsido de la E-societo de Inuyama, kiun mi gvidas, eklegis kiel nomatan "La Unua Libro", Internacia Lingvo de D-ro Esperanto. Ni komencis per esperantigita antauxparolo.

 ザメンホフの「第一書」を犬山エス会の学習会で読み始めました。まだ前文を読み始めたばかりですが、国際的な言語の問題についてザメンホフはけっこう激しい書き方をしていますね。

 ー 多大な時間と労力・物資を消費しても、結局我々は翻訳によって外国の文学の最も無意味な部分を理解するに過ぎない。
 ー 一方では母国語でさえ完全にものにしている人は希であり、他方では言語そのものが十分に完成されていない。
 ー 従って我々はしばしば母語を話しながら外国の言葉の単語や表現を借りなければならなかったり、不完全な言葉でいびつなものの考え方をしなければならない。
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Renovigxo de bancxambro

2016-12-25 | el mia vivo


Mia logxdomo agxas jam 38 jarojn, kaj ne malmulte trovigxas renovendajxoj. Lastatempe mi renovigis necesejan pelvon kaj lavabon.
Kaj nun oni renovigas (modernigas) bancxambron, kies muro estis rompigxema. Dum tri semajnoj ni ne povas uzi bancxambron kaj lavmasxinon.
Ni vizitis memservan lavbutikon kaj publikajn banejejn (varmfontojn). En nia urbo trovigxas kelkaj varmfontoj.

我が家の風呂場を工事しています。
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Mi kantis kun infanoj

2016-12-23 | el mia vivo


Mi apartenas al du lokaj korusoj, en kiuj viroj estas raraj.
Hieraux unu el miaj korusoj vizitis infangxardenon en la urbo Nakatugawa. Ni kantis antaux cxirkaux 50 infanoj la kantojn de la kristnasko, ekz. "Sankta Nikolao venis en la urbon", "La boaco kun rugxa nazo", "Senatentema Sankta Nikolao", "Jingle Bells"...
La infanoj tre gaje auxdis niajn kantojn, ecx kune kantis.
Ni kant-ludis kun la infanoj per sonoriletoj, bildoteatro.
Mi mem iom junugxis!!!

La foto montras koncerton okazintan en la lasta septembro en la urbo Nagoya. Mi kantis sola du kantojn: "La luno super la ruino de kastelo" (esperante) kaj "Torna a Surriento" (per la lingvo de Napolo).

地元の合唱団で保育園を訪問して、クリスマスの歌を歌ってきました。若返りますね。
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Mi kantis, ludis ecx dancis!

2016-12-21 | el mia vivo


Mi aldonis novan kategorion "el mia vivo" al cxi tiu blogo.

En la 18-a, do antaux tri tagoj, en la civitana halo de la urbo Ena okazis opero, en kiu mi kantis, ludis, ecx dancis. Mia rolo estis unu el vilagxanoj, do ne grava.
En la dramoj ludis kvin ge-solistoj, dek ses virinoj, naux infanoj kaj nur kvar viroj, do la rolo de viroj estis ne tre malgrava.
Ni ekzercigxadis dum dek monatoj por la prezentado unu hora. Kaj baldaux komencigxos nova projekto.

En la unua dramo "Aman-jxaku" mi tualetis iom juna.

En la dua (lasta) dramo "Larmoj de Iwana (salvelino)" mi iom maljunigxis.



音楽劇に「村人」役で出演しました。

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La vojagxo al Novzelando

2016-12-02 | 読書ノート


La seria skribacxo pri la vojagxo en Euxropo jam finigxis. Kion mi skribos cxi tie, mi ankoraux ne scias.

 ヨーロッパ旅行記は前回で終了とする。次からこのブログで何を書こうか、まだ思案中である。
 今日は久しぶりの読書ノート。エスペラント原作のニュージーランド旅行記、1972年発行。作者の堀正一(1913〜2005)はいま活躍中の堀泰雄さんの父上である。生物学者で、油絵を描いたが、表紙の絵は本人の作ではない。
 1968年12月から翌年にかけてニュージーランドを訪れた記録である。平易な読みやすいエスペラントと大量の写真で旅行の様子を語る。動植物の名前・学名がたくさん出てくるのは、生物研究が旅行の目的なので仕方がないが、私には少々煩わしかった。ニュージーランドという国の様々な面を垣間見ることが出来て楽しい本だが、ここではニュージーランドエスペラント大会で作者が感じたことを紹介する。

 大会では日本からの参加者、磯部さんが日本語について講演する。開会式では「Espero」ではなく、イギリス国歌が歌われる。作者は外国からの参加者がいることに全く配慮されていないと感じる。カナダなまりの英語でおこなわれた市長のあいさつは全く理解できなかった。その後、磯部さんとその奥さん、娘さんがあいさつし、作者もあいさつをする。

 Mi parolis, ke multaj japanaj gejunuloj nun lernas E-on, precipe post la 50a Universala Kongreso en Tokio kaj mi rekomendis al la kongresanoj la inviton de U.K. al Novzelando. Sed neniu aprobis mian proponon, escepte de s-ro Issobe. Mi poste eksciis, ke por tio hoteloj ne suficxas. Plie, la kongresanoj estis plej parte ne junaj. La rejunigxo estus la plej urgxa kondicxo por la progreso de Novzelanda E-movado, tiel mi pensis.
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En pluvo

2016-11-29 | En Euxropo


La tagoj en Parizo estis pluvemaj. En la 20-a de junio ni promenis en la insulo Cite, vizitis la katedralon Notre-Dame, la pregxejon Sainte chapelle. Cxe la ponto Pont Neuf ni prenis turisman sxipon sur la rivero Seine.
Jam estis 2:20 posttagmeze, kiam ni atingis la muzeon Louvre. Estis longa vico por eniri la muzeon. Ni sekvis la vicon cxe gxia fino. Ni devis movigxi tre malrapide gxis la enirejo. Tuj ekpluvis, kaj do ni staris unu kaj duon-horojn en pluvo.
En la palaco antaux la muzeo multaj junuloj vendadis memorajxojn de palizo, ekz. malgranda Ejfelturo. Ili tuj sxangxigxis al ombrel-vendistoj.
Ni havis ombrelojn.
Tuj malantauxe estis kvar knabinoj tre gajaj. Eble ili senkonscie deziris pli rapide movigxi, kaj ofte premis mian ombrelon per la sia. Tio iom gxenis min, sed ili tute ne rimarkis sian gxenadon.
Tuj antauxe estis juna paro, certe geamatoj, kiuj ne havis ombrelon. Mia edzino kovris sxin per sia omblero. Sxi heziteme kaj cxarme ridetis al ni. Dume li estis tro alta por kovri per mia omblero, do li pli kaj pli malsekigxis. Ni ne havis komunan lingvon. Mi provis konversacii kun ili, sed mi ne povis ekscii ecx ilian naciecon, nur komprenis ilian dankemon. La vico antaux ni pli kaj pli mallongigxis, restos jam mal pli ol 20 minutoj, kiam la paro subite elvicigxis kaj foriris. "Ni jam ne havas tempon", iale mi komprenis ilian esprimon.

ルーブル美術館に入るために1時間半並びました。
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