エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて18年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

La karavano

2017-07-09 | エスペラントな今日


Nun ni estas cxe la lago Baikal.
Post la hejmenreveno mi raportos pri mia spertoj en Berlino, Moskvo kaj Baikal kaj plue Ulanbatoro, Pekino kaj Seulo.
Gxis!
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Ekvojagxo

2017-06-26 | el mia vivo


Baldaux mia edzino kaj mi ekvojagxos al la UK en Seulo, Koreio. Cxi-foje ni partoprenos en la karavano tra Siberio.
La karavano ekvojagxos de Berlino, trairos Pollando kaj Belorusio, turismos en la urboj Moskvo, Irkutsk (kaj la lago Baikal) en Rusio, Ulanbatoro en Mongolio kaj Pekino en Cxinio.
En la komenco oni planis eniri Nord-Koreion, sed pro la maltrankviligxo de la internaciaj politikoj la plano estis nuligita, do de Pekino ni flugos al Seulo. Kaj la ekveturo de la karavano estis prokrastita je du tagoj.
Kiam mi eksciis pri la sxangxo de la plano, mi jam acxetis flugbileton al Berlino, do ni havos du liberajn tagojn en Berlino. Profitante cxi tiun neatenditan sxancon ni turismos en cxi tiu historie grava urbo kaj partoprenos en kunsido de esperantisa grupo.

Ni vizitos aux trairos entute 7 landojn, el kiuj Belorusio kaj Rusio postulas vizon. Akiri vizojn estis iom komplike.
Por akiri vizon de Belorusio, ni devis antauxe akiri vizon de Rusio.
Por akiri vizon de Rusio, ni devis arangxi kopiojn de rezerviloj de la hoteloj, biletoj de la trajno kaj invitletelo. S-ro SO Gilsu, la organizanto de la karavano bone helpis min, kaj mi sukcesis akiri la vizojn pere de turisma agentejo.

La foto montras persxtone pavimita vojo de la malnova sxoseo "KUMANO-KODO", monda heredajxo de Unesko.
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三文小説

2017-06-04 | 読書ノート


 近代演劇界に大きな影響を与えたブレヒトの小説。ドイツ語からの翻訳。有名な戯曲に「三文オペラ」があるが、同じような設定の上にかなり異なるストーリーを組み立てた小説である。極度に惨めな人々(その象徴が表紙の傷病兵)を利用して利益を上げる「実業家」たちの物語。
 正直なところかなり読みにくい。いわゆる翻訳調ではなく、エスペラント自体はそれほど難しくはないし、ストーリーも大衆的で面白いのだが、細部(時には重要な細部)がつかみにくい。たぶんこれは原作がそのように書かれているのだろうと思う。日本語訳とも比較してみたが、単語の選び方がかなりちがっていて分かりやすかった。エスペラント訳の方はもっと原作に近いのかも知れない。どっちにしろ、私の読解力がまだまだだと感じた。

 例えばこんな一文:
 ”Mi scias ion pri la laborforto", gxi diris lauxte. "Se iu enigas sian laborforton en ion, tiam gxi farigxas pli valora. Sxtonoj ne estas multe, sed jes domo, komprenite!"
 これは百科事典の一冊(最初の gxi)が証言しているシーンである。「労働力についてならいくらか分かります」「もし誰かが自分の労働力を何かに注ぎ込めば、それはより価値が増すのです。石にはたいした価値はありませんが、しかし(石で作った)家になれば、分かるでしょう!」(私の拙訳)

 面白かった、または私が初めて知った表現をいくつか紹介しよう。前後関係や PIV などで調べて分かった表現もあるが、日本語訳を参照しないとわからなかったものもある。

 cxiontranslipiganto:弁の立つ人
 cxarpenti ekzistadon por mi kaj vi:自分たちの生存のために工作する
 homereska ridegado:ホメロスのように笑う(大声で、とめどなく笑う)
 kaplikornulo:山羊座の人
 ludi unu partion de damoj:partio には「試合」の意味があり、damoj にはチェッカーの意味がある。
 kovri sian seksan bezonon:kovri 「覆う」だから性的欲求を隠すのかと思ったが、この場合は「埋め合わせをする」「満たす」の意味らしい。
 edzeco pro inklino:恋愛結婚
 fermita mieno:不可解な面持ちで
 blondega viro:栗色の髪をした男
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改造論者の心理

2017-06-01 | 読書ノート


 読書ノート Bourton の "Zamenhof" 最終回。
 1905年、フランスで第一回世界エスペラント大会が行われ、その基礎となる Fundamento が確認された。この大会で登場した Edmond Privat はまだ16才だったが、見事にエスペラントを話して参加者を驚かせ、さらに第2回大会をスイスに招致する。第2回大会はこの Privat と当時18才の Hector Hodler が中心になって運営する。Hodler は1908年に世界エスペラント協会を設立し、1920年32才の若さでこの世を去る。
 順調に発展していたエスペラントだが、改造論者の動きはあとを絶たず、1907年には Ido の騒動が起きる。この時の立役者となった L. de Beaufront がどんな人物であったかという分析は、この本の中でも非常に興味ある部分である。
 ところで、学び始めた初期の頃、エスペラントにちょっとした矛盾を感じてプチ改造をしたいと思ったことはないだろうか? 私もこのブログで人称代名詞に関する改造論を提案したことがある。もちろん冗談だが、賛同者も現れた。こういう感覚は「人工言語」だから起こることで、いわゆる「自然語」ではあまり起きない。現在使っている言葉を改造できるなどと普通は考えないからだ。
 ザメンホフが「作った」言語ならば、それをもっと改良できると考えるのはごく自然なことかも知れない。実際には自然語(民族語)の方がはるかに不規則で非論理的であり外国語の習得を困難にしているのだが、我々はそれをあきらめて受け入れるしかない。いかなる強権的な独裁者でも、自然言語の不規則性を解決するには膨大な年月を要するであろう。しかし、エスペラントは人々が改造提案できる初めての言語だった。エスペラント初期の改造論者たちは、不規則さに満ちた民族語の子供っぽい観点から、エスペラントに不条理さ・不公正さを感じた。言語は簡単に変えられるものではないという事実を破ることが出来るこの改造作業は彼らに満足感を与えるものだった。

 こんな騒ぎもあったが、その後もエスペラントは順調に発展する。世界中にエスペラント会が生まれ、日本でも新しい組織が生まれ「600人以上のエスペランチスト」がいたという。1906年に日本エスペラント協会が設立される。その基礎になったのがイギリス・ウェールズ出身の英語教師エドワード・ガントレットによるエスペラント通信講座であった。その受講者数は677人に達したという。
 フランスの Michaux は自分の生後2日の孫娘をエスペラント会に登録した。その後彼女は順調にエスペランチストとして育ったのだろうか?

 この本の出版は1962年、この本全体にエスペラント発展への希望と確信に満ちている。

   
写真は熊野古道・伊勢路、ツヅラト峠、熊野灘の眺望。
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第66回東海大会

2017-05-29 | エスペラントな今日


 27・28日は東海エスペラント大会だった。参加者は約30人。主催者の企画でなかなか内容の濃い大会になった。配付された資料にはこれまでの大会の一覧表があった。後述のように歴史のあるエス会がひとつ消えてしまったが、現状を見つめ今後の方針を探る内容だった。
 27日:
 まず参加者全員の自己紹介を兼ねてそれぞれのエスペラント体験を紹介。まだ初心者らしき人もいたが、全員がエスペラントで話した。
 アレクサンドラ・綿貫さんの講演。SNSの活用と、東京に出来たエスペラント-菜食カフェについて。
 夕食後は懇親会。ビールとおつまみが用意されて、4つほどのグループに分かれて懇談。
 28日:
 エスペラント体験交流。昨日の自己紹介をもう少し深めた話である。大きく3つのテーマを設定して、たくさんの人がいろんな報告をした。
  学習について:NASK(北米夏期講習)の体験。オーストラリア夏期講習の体験。フランスのグレジオン城の体験。88才、最高齢の参加者のエスペラント歴。国際試験(KER)について。
  国際交流など:ポーランドのエスペランチストとの長年の交流。カナダとの文通を通じて憧れのプリンスエドワード訪問を果たしたこと。碁や折り紙を通じての交流。エスペラントを活用した長期のヨーロッパ旅行。
  運動について:名古屋のワールド・コラボ・フェスタでの活動。歌集出版の苦労話。名古屋エスペラントセンターの出版活動について。仏教エスペラント運動について。
 Yさんの北朝鮮訪問の報告。プロジェクターで貴重な写真を投影しながらの報告でした。
 昼食後記念撮影。
 去年急逝されたTさんの残されたものについて。これからの東海大会について。・・・85年の歴史を持つ名古屋エスペラント会の消滅が確認された。残された資金などは今後の東海大会やこの地方のエスペラント普及活動に使われる。次回の大会はNさんが中心になって行うことになった。
 スライド上映「エスペラント聖書訳の歩み」 ザメンホフ以外にもいろんな人が聖書の翻訳をし、現在も続けられている。
 最後に時間を延長して今後の東海地方のエスペラント運動について討論。
 全体として和やかな雰囲気の中で、活発な発言がおこなわれた大会だった。
 ひとつだけ気になったことがある。プログラムなど配付された資料には漢字でしか書かれていなかったが、大会会場に掲げられた横断幕に、Tokaj としてあったことである。「東海」をこう書いたものだが、エスペラントの単語とは言い難い。固有名詞もエスペラント化する場合はエスペラントの規則に従うべきだから「Tokajo」などとするべきであろう。エスペラント化しないのなら「Tokai」「To^kai」などいくつかの書き方があると思う。JEI からのメッセージには「Tookai」とあった。

   
写真は熊野古道・伊勢路で見た古い常夜灯。木造の常夜灯は珍しい(記事とは関係ありません)。
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ザメンホフに召集令状!

2017-05-26 | 読書ノート


 ボールトン「Zamenhof」の第3回、いろんなエピソードを脈絡なく。
 世界平和を願うザメンホフの希望に反して、世界は第一次世界大戦に向かって進む。1904年には日露戦争が勃発、1905年1月には満州で軍医として務めるようザメンホフが招集される。エスペラント界には大きなショックでもあったが、友人や家族たちはそれ以上にザメンホフ自身の健康を心配する。招集免除の嘆願を当初拒否していたザメンホフも最後には周囲の説得に応じる。軍の医師たちが診察した結果、ザメンホフの健康状態は一週間の入院を命じたほど悪かった。この時、ザメンホフは兵役を逃れることが出来たが、弟たち、Leono、Aleksandro は前線に行かねばならなかった。

 1907年、Ido の騒動が起きたがエスペラントは順調に発展を続けた。1912年にはオーストリア領ポーランドのクラコフで第8回世界大会が開かれた。当時のクラコフはロシアやドイツとくらべて比較的自由であった。
 この大会はザメンホフにとって特別な意味を持った。すなわち、彼が長年求めていた「普通のエスペランチスト」になることを宣言した大会である。大会期間中、サインや一緒に写真を撮ることを求めるたくさんの人にザメンホフは辛抱強く応じていた。大会宴会の会場には照明が不足していた。フランスのエスペランチスト Bourlet がボーイにビールを頼んだら「Certe, sinjoro Bourlet!」という返事が来て驚いた。よく見たら、疲れ切ったザメンホフがボーイの制服を借りて休んでいたのだった。

 1907年、ゴーゴリの「検察官」がザメンホフの翻訳で出版された。ザメンホフは旧約聖書の翻訳をしながら、次々に文学作品翻訳を発表する。「ジョルジュ・ダンダン」(モリエール)、「群盗」(シラー)、「Ifigenio en Tauxrido」(ゲーテ)・・・
 モリエールの戯曲には様々な悪態言葉が出てくるが、当時のエスペラントにはそのような言葉が不足していたので「diablo」が単調に繰り返される結果になった。今日、エスペラントが優雅に、日常的に、ののしったり冒涜したり呪ったりするのにふさわしい言語であるのは、その後の作家たちの努力のたまものである。

   
写真は熊野古道伊勢路・三瀬坂峠。1kmほどの急坂で標高差160mほどを一気に登る。
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トルストイの手紙

2017-05-23 | 読書ノート


 ザメンホフがトルストイにエスペラントの資料を送り、トルストイがそれに対して好意的な回答を寄せたことは知っていた。ボールトンの「ザメンホフ」にはその手紙のエスペラント訳が載せられている。トルストイはザメンホフに直接返事を出したのではなく、その後の出版社の求めに応じて回答を寄せた。
 トルストイはまず諸民族の相互理解と言語の問題とその解決法について簡略にまとめ、国際語の創造が最も理性的で実現可能だとする。そしてエスペラントについての評価をするには自分はふさわしくないとしながら、ボラピュクは自分にはとても複雑だったが、エスペラントは少なくともヨーロッパ人にはとても易しいとする。一方で、真の意味で全世界的であるために、すなわちインド・中国・アフリカ諸国などの人々も一緒にするためにはたぶん他の言語が必要であろうという。
 エスペラントはとても易しくて、文法書・辞書と論文を受け取ってから2時間集中しただけで書くことは出来ないまでも読むことは自由に出来た。私(トルストイ)は相互理解についての機械的な障害から人々が相互に敵対するのを見てきた。少なくともヨーロッパとアメリカの人々にとっては、エスペラントの普及が神の国を打ち立てるキリスト教的な事柄であることは疑いない。

 欧米の人々以外には難しいであろうというトルストイの意見(感想)をその欧米以外の人々はどうとらえるだろうか。ボールトンの脚注には「これはあまりにも悲観主義的な見方であることがすでに示されている」とある。

 
写真は熊野古道・伊勢路で見た茶畑(2017.5.14)
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ザメンホフの家族たち

2017-05-20 | 読書ノート


 ボールトンの「ザメンホフ」にはザメンホフの家族についても一通り述べられている。
 ザメンホフ(Lazaro)は1859年12月15日に生まれた。父の Marko は知識人で理性的、勤勉で冷静、母の Rozalia は愛情深く、感じやすく、献身的で同情心厚く、母親の忍耐と直感的な理解力を持っていた。一見して正反対の二人だが、幸せな家族を作っていた。長男の Lazaro の後に、たくさんの弟・妹が生まれる。
 1860年 Sara、彼女は10才でこの世を去る。62年 Fania、64年 Auxgusta、68年 Felikso、71年 Henriko、75年 Leono、77年 Aleksandro、79年 Ida。
 以下の記述はボールトンの「ザメンホフ」以外の資料にも拠っている。
 Marko は1907年、エスペラント界では Ido 騒動のあった年に亡くなった。Rozalia は1892年、52才でこの世を去った。Leono は熱心なエスペランチストとして活動、第2回エスペラント世界大会(1906年ジュネーブ)で喜劇を演じた。Aleksandro もエスペランチスト。1917年、徴兵を拒否して自殺(ボールトンによる。Vikipedio には1916年、ロシア軍の大佐とある)。Ida はエスペランチストになり、ワルシャワに住むが、1942年、トレブリンカで殺された。Felikso は Lazaro と年の近い兄弟として早くからその思想に触れ、エスペラントで会話をし、「第一書」の普及に尽力、エスペラントの著作活動もして「Fundamenta Krestomatio」にもその作品が収録されている。
 Lazaro は1887年、Klara と結婚、義父の財政援助もあって「第一書」を公刊する。2人の間には Adamo(1888)、Sofia(1889)、Lidja(1904)が生まれる。Klara は Lazaro の死(1917)後もエスペラント世界大会に参加、1924年に死去。Adamo は妻 Wanda とともに父と同じ眼科医に、Sofia は内科医、Lidja は熱心なエスペラント活動家になり、バハイ教に入信する。1925年、Adamo と Wanda の間には息子(Ludoviko)が生まれた。ユダヤ人であった彼らには第二次世界大戦中に苛酷な運命が訪れる。
 1939年、ドイツによる爆撃がザメンホフの家を直撃、貴重な資料が失われた。
 ゲシュタポが家族を逮捕、1940年一月、Adamo と Henriko(Lazaro の弟)が銃殺されたと思われる。他の人たちはいったん自由になるが、ワルシャワのゲットーに住む。1942年8月、Sofia、Wanda、Ludoviko が逮捕されトレブリンカに送られるが、その途中で Wnda と Ludoviko は脱出に成功する。このことについては Ludoviko 自身の著作「ザメンホフ通り」に詳しく述べられている。Sofia は医者としての仕事が待っていると信じていた。2か月後には Lidja もトレブリンカへ。生き延びた Wanda は1954年、交通事故で死亡、Ludoviko は技術者となり、優れたエスペランチストとして活動。

 貧しく狭い家の中で、Lazaro は長男として弟や妹の面倒も見ていた。あるとき、小さな弟の Leono があまりにやんちゃに振る舞うので、思わず「Leono は獣だね」と口にでた。これが Ekzercoj の最初に出てくる「Leono estas besto.」だとか・・・。
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ZAMENHOF

2017-05-12 | 読書ノート


 最近読んだ本、ボールトンのザメンホフ伝。ザメンホフ自身についてももちろんだが、その家族やエスペラント運動自体についてもかなり詳しく描かれている。興味深いエピソードが盛りだくさんである。以下まとまりのない私のメモである。
 ザメンホフが生まれ育った土地はロシア領ポーランドである。ポーランドのユダヤ人はポーランド文化になじんではいたが、ロシア語を話しポーランドの民族統一主義には疎外感を持っていた。しかしロシアへの忠誠は実を結ぶこともなく、根本的には国を出てどこかに自分たちの国を建てるしかない、というのがシオニズムである。若い時のザメンホフもこの考えを持ったが、建国の地としてはすでに居住民がいるパレスチナは適切ではないと考える。そして、お金を集めてアメリカに土地を買おうと提唱する。ごく短い間ではあったが、ザメンホフはモスクワのユダヤ人学生のリーダーであった。
 幼い頃から言語に関心があったザメンホフである。若い頃雑誌に投稿するペンネームには「Gamzefon」「Gofzamen」など、Zamenhof のアナグラムに近いものがあった。後にエスペラントを発表したときのペンネームは D-ro Esperanto である。エスペラントで「希望する人」であるが、この名前は Zamenhof の控えめな楽観主義を表しているだけでなく、彼の家族名を暗示しているという説がある。すなわち、Zamenhof の -hof は短母音の -hoff に近く発音され、これがドイツ語の hoffen (esperi) に通じるというわけである。
 ポーランドのユダヤ人が使うヘブライ語・ユダヤ語には特有の傾向があり、しばしば、例えば S と Sx の混乱がからかいの対象にされたという。ザメンホフ自身、エスペラントでさえこの混同が見られたという。民族語の癖がエスペラントにも現れる・・・R と L などに苦労している我々をいくらかほっとさせるエピソードではないか。
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第30回緑の学校(2)

2017-05-08 | エスペラントな今日


 4日は鹿嶺高原へのドライブ。ここから目の前に眺める千丈岳・甲斐駒ヶ岳の姿は迫力がある。展望台から梵天岩まで散策、往復1時間少々の山歩きである。午後は韓国語講座など。夜の集いではハーモニカ演奏・手品・紙芝居・三味線演奏・ピアノ演奏などなど、みなさんなかなか達者である。私も「帰れソレントへ」(ナポリ語)・「宵待草」(エスペラント語)を独唱。参加者の3才の息子さんが近くで本を見ていたが、私の歌う声を聞いて聞きに行くと部屋の外まで来た。母親が「歌っているときに中に入るのは失礼だから」と部屋に入らせなかったら泣き出してしまったという。
 5日は近くの千代田湖までハイキング。私は数人の参加者と途中で引き返して東尾根遊歩道を歩いた。帰ってきて、昨日の子供のために「オーソレミオ」(エスペラント)と「ふるさと」(日本語)を歌ってあげたが、感激して聞いてくれたかどうかは良く分からない。午後は「バーベキュー」の昼食。焼きそばと具だくさんの汁など。午後2時過ぎに解散。スタッフなどはもう1泊して掃除・後片付けをする。
 この「学校」は受け身でなく自分から積極的に楽しめるのが良い。外国人参加者だけでなく、日本人にも達者なエスペランチストも多いからその気になれば勉強にもなる。少しずつ高齢化してきて人数も減ってきているのが気がかりである。

   
写真は青少年の家入り口の桜
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第30回緑の学校

2017-05-06 | エスペラントな今日


 5月2日から恒例の「緑の学校」に参加してきた。今年は第30回記念である。
 2日は夕食後の「開校式」で始まった。今回はオーストラリアとスイスからのお客さんが参加している。
 夜はおしゃべりだが、翌日に備えて10時半頃には寝てしまう。参加者のみなさんが持ち寄るお菓子や酒類・おつまみはなかなか豊富である。
 毎朝、何人かが早朝散歩・探鳥会を自由にやっている。私も朝6時頃から付近を歩いて自然を満喫する。今年は桜の開花が遅く、まだ咲きはじめの木もある。
 会場が「青少年自然の家」で、広い施設内にはいろんな団体や家族が宿泊し、それぞれに活動している。「朝の集い」では各団体の紹介もあり、信州大学の「YOSAKOI祭りサークル和っしょい」が迫力ある集団演舞を披露してくれた。
 3日の午前中は入笠山登山。登山道には雪がかなり残っていた。頂上から360度の大パノラマで八ヶ岳・中央アルプス・南アルプス・北アルプスを見渡せる。今年は好天で、いつもはシルエットが薄く見えるだけの富士山もくっきり見えた。午後はエスペラント会話などの講座があり、私は例年のように折り紙講座を開いた。夕食後はスイスやオーストラリアについての話や剣舞・福引き大会など。

   
写真は入笠山頂から富士山を遠望する。
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フランスからお客さん(3)

2017-04-25 | エスペラントな今日


 3日目からは日本人5人とフランス人4人で奈良旅行に出かけた。レンタカー(10人乗りのハイエース)を私が運転した。まずは半日かけて石舞台古墳まで、続いて高松塚古墳。高松塚古墳は我々日本人エスペランチストにとっても初めてだった。この日は岩盤浴などもある大きな「健康ランド」に宿泊、温泉を充分に楽しんだ。
 翌日はあいにくの雨模様だったが、奈良中心部を散策した。興福寺(阿修羅像など)〜東大寺〜春日大社という典型的な観光コースである。春日大社では結婚式の風景を見ることができた。昼食は軽めに「万葉粥セット」。宿泊は平城京のすぐ隣にある温泉付きホテル。屋上からライトアップされた大極殿が見えた。朝には、はるかかなたに大仏殿や興福寺の五重塔が見えた。
 最終日は好天。まず平城京へ。資料館で歴史を学んで、大極殿から東院庭園まで歩く。雨の後で足元の悪い場所があった。この後は宇治の平等院を見学。京都のゲストハウスへ午後3時半頃に着いた。ここでお別れして、我々は恵那に帰った。
 息子さん夫婦にとって初めての日本旅行であり、短い日本滞在で出来るだけバラエティに富む旅行を計画したつもりだが、たぶん喜んでもらえたのではないかと思う。少なくとも、日本人エスペランチストたちは満足していた。彼らは京都に2泊した後、G.G. 夫妻は岡山から鳴門に周り、福島・仙台・前橋・東京・横浜などを旅行する。5月2日頃には八ヶ岳エスペラント館にも来る予定である。息子さんたちは充分な休暇が取れず、宮島を訪問して、すでに帰国した。

   
写真は高松塚古墳。
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フランスからお客さん(2)

2017-04-22 | エスペラントな今日


 2日目、4月15日。朝食はパンにしたが、ここではフランスのようなおいしいパンは入手できないからコンビニで買ってきた食パンで我慢してもらう。一緒に出したゴマ豆腐・ジーマーミ豆腐・生湯葉や手作りの柿ジャム、ブルーベリージャム、ドライマンゴーを入れた上質のヨーグルトなどはどれも好評だった。
 今日はまず H さん宅でお茶会である。今までにずいぶん何回もお茶会に出ているが、その度に違った趣向がある。お茶の世界も奥が深い。今回は昼食付きのお茶会で5人限定。エスペランチストの K さんに主客を務めてもらい、お客さん4人で満席。あぶれた3人の地元エスペランチストは近くの道の駅で昼食。
 お茶会が終わって、日本人5人・フランス人4人で岩村の町へ。古い雰囲気を残しながらひどく観光化されてはおらず、しっとりとしたいい街である。地元の人とも気さくに話が出来る。フランス人と会話する我々に目を丸くする人も。古い商家などには自由に入って見学できる。名物のカステラ店で試食したり、地酒の工場見学、試飲なども楽しい。
 今日の宿は築120年を超えるという古民家を活用した宿泊施設「かやの宿」である。何人でも一軒を借り切るので気楽に使える。自炊も可能である。今回は2食付きにした。地元の女性たちが野菜中心の料理を出してくれる。食後は交代で風呂に入りながら、囲炉裏の火を囲んで雑談である。
 明日からは奈良旅行である。

   
写真は奈良・興福寺三重の塔
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フランスからお客さん

2017-04-19 | エスペラントな今日


 4月14日、フランスから4人のお客さんがやってきた。去年の私のヨーロッパ旅行でずいぶんお世話になった G.G 夫妻とその息子さん夫婦である。息子さんたちの家でも夕食をごちそうになった。G.G は数回日本に来ていて、私の家に泊まったこともあるが、息子さんたちはこれが初めての日本旅行である。彼らは日本の文化にとても関心があるという。
 9日に羽田到着の後、横浜のエスペランチストのお世話で東京・鎌倉・箱根・富士五湖などを巡った後、14日の昼過ぎに恵那に到着。まずは我が家で昼食。どんな食べ物がいいのかいつも考えるが、今回はウナギをメインにした。素焼きにしてワサビ醤油と蒲焼きを用意したが、彼らには蒲焼きの方が好評だった。日本に何度も来ている G.G 夫妻もウナギは初めてだという。以前来たベトナムやスイスの人もウナギは喜んで食べてくれた。
 昼食後は中山道広重美術館へ。特別展の「名所江戸百景」をずいぶん熱心に観賞し、「版画重ね摺り体験」を楽しむ。喫茶店で一休みした後、恵那峡へ。「芝桜と花桃の公園」はちょうど今が見頃で大喜び。さらにさざなみ公園の桜も例年より2週間ほど遅く、まさに満開。夕食はレストランで。
 何とかふとんを4組用意した。セミダブルのベッドは幅も長さも足りないので、箱の上に板を乗せて奇妙な臨時拡大ベッドをこしらえた。
 息子さんは若いときにエスペラントを学習したことがある。フランスで会ったときはほとんど話せなかったが、今回はほぼ理解できて、話すこともかなり出来る。フランス語と共通する単語が多くてその気になれば習得は早い。明日は H さん宅でお茶会である。

   
写真は15日に泊まった「かやの宿」付近の風景。「日本一の農村風景」といわれる地域である。
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Bedauxrinda novajxo

2017-03-07 | el mia vivo


 ベルリンからシベリア鉄道を経由して北京にいたり、その後北朝鮮に入って北から板門店を訪れるという SO Gilsu さん企画の旅行団について以前ここに書いた。旅行はベルリンのポツダム広場にある「統一亭」(写真)から始まる。
 しかしマレーシアでの金正男氏殺害や在日米軍攻撃を想定したミサイル発射など、最近の北朝鮮情勢はあまりにも悪く、残念ながら北朝鮮への訪問は取りやめになってしまった。北京から平壌への列車で1泊、平壌で3泊が予定されていたが、その分は出発を2日遅くし、モスクワと北京で1泊が加えられた。最終日には南から板門店に行くことになる。
 とても残念なことではあるが、最近の情勢からは仕方がないかも知れない。
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