平安夢柔話

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斎王の森 ~斎王に逢う旅6

2010-01-13 11:50:30 | 旅の記録
*斎宮歴史博物館は、平成21年12月から平成22年3月まで耐震補強工事のため臨時休館されるそうです。詳しくは、斎宮歴史博物館のホームページでご確認下さいませ。

 特別展「伊勢物語 ー狩の使と斎宮」を見終わった時は、すでに午後2時を少し回っていました。
 ここで、このあと用事があるというE先生とお別れ。お忙しい中、私たちのために時間を作って下さり、貴重なお話をたくさん聞かせていただいて本当にありがとうございました。

 こうして斎宮歴史博物館をあとにし、E先生が手配して下さった地元のボランティアガイドのSさんのご案内で斎宮の史跡巡りに出かけます。外は今朝の雨が嘘のようにすっきりと晴れ上がって鋳ました。ありがたいことです。

 現在の斎宮は、町全体が史跡になっている雰囲気です。自然も豊で、人もあまり歩いていませんでした。斎王として下向してきた皇女たちの歌碑が並んでいる道もありましたし。少し気になったのですが、時間もあまりないのでさあっと通り過ぎることになってしまい、残念でした。こうして15分くらい歩いたでしょうか。最初の目的地、「斎王の森」に到着です。

 「斎王の森」、心引かれる名前です。ここは長いこと、斎宮跡であると言い伝えられていた場所なのだそうです。そして、昭和40年代になって、この近くから斎宮の遺跡が発見されたのですから、伝説は真実だった…ということですよね。しかし、斎宮の森の東側を発掘した結果、大きな建物は出てこなかったのだそうです。どうやらこのあたりは、斎宮の乾の守りである祭禮の場ではなかったかということです。(「伊勢斎宮と斎王」)による)

 では、斎王の森に近づいてみましょう。


  


 緑の森と鳥居のコントラストが美しいです。うっそうとした森からは、今にも白い装束を着た斎王が現れそうな雰囲気です。

 斎王の森のかたすみに大伯皇女の歌碑が建っていました。


  


 歌碑には次のような歌が刻まれています。

 わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし

 大伯皇女(大来皇女とも)は正史に現れる最初の斎王で、大海人皇子(のちの天武天皇)の皇女として、(斉明七年(661)に誕生しました。母は中大兄皇子(のちの天智天皇)の皇女の大田皇女です。同母弟に大津皇子がいました。

 大伯皇女はまだ幼いとき、母と死に別れました。母と子の絆の強いこの時代、母がいないということは致命的なことでした。彼女は、弟の大津皇子と肩を寄せ合うようにして成長したものと思われます。よって、二人は普通のきょうだいに比べてずっと強い絆で結ばれていたのでしょうね。

 天武二年(773)、前年の壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原の都にて即位します(天武天皇)。大伯皇女が斎王として伊勢に遣わされたのはその翌年のことでした。
 天武天皇は壬申の乱に勝利できたのは、伊勢の大神側が身を護ってくれたためであり、そのことに感謝し、あわせて天皇の身に備わっていた深い敬神の念をこめて、娘を伊勢に送ったのでした。

 ところで、天武天皇の皇后に立てられたのは、大伯皇女・大津皇子姉弟の母の妹に当たる菟野讃良皇女(のちの持統天皇)でした。そして、皇后の一人息子、草壁皇子が皇太子に立てられます。
 しかし天皇は、才気があって頭も良く、有能な大津皇子を惜しみ、「皇太子の次の位の皇子」として政治に参加させたりもしていたようです。つまり、皇后にとって大津皇子は、我が子草壁皇子のライバルとして脅威の存在だったとも言えそうです。

朱鳥元年(686)、天皇が病に倒れ危篤となると、皇后は天皇に代わって政治を執り行い、大津皇子を遠ざけるようになります。
 大津皇子は身の危険を感じたのでしょうか。それともこれから起こりうる自分の運命を悟ったのでしょうか。密かに都をあとにし、大伯皇女のいる伊勢に下ります。

 伊勢斎宮にて、十数年ぶりに会った二人はどのような会話を交わしたのでしょうか。おそらくつもる話で会話がとぎれなかったのでは?しかし、この逢瀬が生涯最後のものであることもわかっていたのかもしれません。

 斎王の森のかたすみに建てられた歌碑に刻まれた歌は大伯皇女が、飛鳥浄御原の都に帰る大津皇子を見送ったときに詠んだ歌です。夜あけの露がしっとりと身をぬらすまで、私はいつまでもいつまでも、あなたの立ち去った彼方を見送っていましょう。」という意味です。その後の大津皇子の運命を考えると、この歌はとても哀切な響きがあります。

 大津皇子が都に帰って間もなく、朱鳥元年(686)九月、天武天皇は崩御します。そして、それから一月も経たないうちに、大津皇子は謀反の疑いで捕らえられ、斬首されてしまうのです。

 天皇の崩御、それに続く大津皇子の死によって斎王の任を解かれた大伯皇女は、弟のいない飛鳥浄御原の都に帰京します。彼女は大津皇子に向けて挽歌を何首か詠んでおり、これらの歌は「万葉集」によって今日まで伝えられています。
 こうして大伯皇女は、大津皇子の冥福を祈りつつ、大宝元年(701)にひっそりと世を去りました。

 斎宮で過ごした13年という長い年月、大伯皇女はどのような気持ちでどのような日常を過ごしていたのでしょう?神に仕えると同時に、都に残してきた弟のことをいつも心にかけていたのではないでしょうか。そして、斎王を退下したあとの彼女の後半生は、亡き大津皇子への哀切な思い一筋で毎日を送っていたのでは…と思います。そんな大伯皇女に思いをはせつつ、斎王の森をあとにしました。

☆参考文献
 『伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち』 榎村寛之 塙書房
 『万葉の女性たち』 山本藤枝 立風書房

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