今回は、平安時代の歴史評論の本の紹介です。
☆王朝摂関期の「妻」たち ー平安貴族の愛と結婚
著者=園明美 発行=新典社・新典社選書 価格=1050円
[出版社商品紹介]
平安期の婚姻には正妻を筆頭に多妻間で序列があった。1人の正妻の決定、地位・安定性とは。王朝摂関期「妻」たちの姿に迫る。
[目次]
「妻の座」をめぐる研究状況
子の出世も母親次第?
皇女が臣下に嫁いだら?―師輔と三人の内親王たち
「正妻」は絶対的?―頼通と隆姫
儀式婚vs私通婚
「正妻」はいつ決まる?―道長の妻たち
「正妻」の条件は?―「后がね」の母ということ
「女房」は「正妻」になれない?
明子は詮子の女房だった?―再び道長の妻たち
同居する妻の強み―「正妻」の必要条件
「妻」たちの協力体制―夫の「家」の一員として
「摂関政治」の時代と「妻」たち―むすびにかえて
目次と本の紹介文からもおわかりのように、平安貴族の妻の立場について、史料や論文をもとにわかりやすく解説した本です。
平安時代は、一夫多妻であっても妻には序列はなく、後世の妾のような存在も等しく「妻」であった…ということを、私は20年くらい前に何かの本で読んだことがありました。
しかし、最近の研究によると、「平安時代にも妻の序列はあった」「という考えが主流になりつつあるようです。
確かに、「源氏物語」を読むと、光源氏は紫の上や女三の宮といった正妻格の女性とその他の女性とは明らかに扱い方が違いますし、ましてお手つき女房などは単なる召人で終わってしまっているようです。
この本では、主に歴史上の人物の妻たちを取り上げ、様々な例を紹介しながら、正妻の条件についてを解説しているのですが、「読書日記」のこちらの記事で少し書いた藤原師輔の妻となった3人の皇女の立場についてを初め、今まで私が知らなかった事がたくさん書かれていて、とても興味深かったです。そこで、その中のいくつかを紹介してみたいと思います。
例えば藤原道長の妻、倫子と明子について。
道長の妻に関しては。倫子が正妻で、明子はそれよりも一段低い立場の妻であると言われていますし、私もその説を支持しています。
そして、この二人の妻、倫子が儀式婚(「源氏物語」の葵の上や女三の宮のような例ですね)で、明子が私通婚(「源氏物語」の紫の上の例でしょうか)であることなどから、最初から倫子が正妻だったと言われてきたようです。
しかし、『王朝摂関期の「妻」たち』によると、二人の出自に差がない、いやむしろ、宇多天皇の曾孫である倫子より、醍醐天皇の孫である明子の方が格が上ともいえることや、『英花物語』や『大鏡』で使われている二人の呼称などを検討した結果などから、倫子が正妻という立場になったのは結婚後7~10年ほど経過した正暦四年(994)~長徳四年(998)頃だと推論されているのです。
では、どうして倫子が正妻となったのか?それは、正暦四年から長徳四年までに至る時期に、倫子が彰子、妍子という、将来、后がねになり得る女の子を生んだのに対し、明子は男の子しか生まなかったのが大きな原因のようです。この時代、上流貴族の妻たちにとって、女の子を生むことは大切な任務だったのですね。
あと、自分に仕える女房や、自分と近い親族に仕える女房は、嫡男や后がねになり得る女の子を生んでも正妻になれないという話も興味深かったです。
例を挙げると、藤原実資が将来、后がねと考えて大切に育てた娘、千古を生んだ女性は、亡くなった妻、婉子女王の女房でしたし、藤原頼通の嫡男、師実や後に後冷泉天皇の皇后となる寛子を生んだ女性、祇子は頼通本人の女房だったそうです。いずれも正妻にはなれませんでした。
その他、正妻の立場は必ずしも安定したものではなかったとか、平安貴族の妻たちに関しては色々な説があり、まだまだ解明されていない問題もたくさんあるそうで、この本を読んですべて納得…というわけにはいきませんでしたが、上で書いたように、彼女たちに興味のある私にとっては、とても参考になった本でした。
文章もわかりやすく、引用されている原典には口語訳がついていましたし、登場人物の簡単な略歴なども解説されていました。平安貴族の妻たちについて興味のある方にはぜひ一読をお薦めします。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
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☆王朝摂関期の「妻」たち ー平安貴族の愛と結婚
著者=園明美 発行=新典社・新典社選書 価格=1050円
[出版社商品紹介]
平安期の婚姻には正妻を筆頭に多妻間で序列があった。1人の正妻の決定、地位・安定性とは。王朝摂関期「妻」たちの姿に迫る。
[目次]
「妻の座」をめぐる研究状況
子の出世も母親次第?
皇女が臣下に嫁いだら?―師輔と三人の内親王たち
「正妻」は絶対的?―頼通と隆姫
儀式婚vs私通婚
「正妻」はいつ決まる?―道長の妻たち
「正妻」の条件は?―「后がね」の母ということ
「女房」は「正妻」になれない?
明子は詮子の女房だった?―再び道長の妻たち
同居する妻の強み―「正妻」の必要条件
「妻」たちの協力体制―夫の「家」の一員として
「摂関政治」の時代と「妻」たち―むすびにかえて
目次と本の紹介文からもおわかりのように、平安貴族の妻の立場について、史料や論文をもとにわかりやすく解説した本です。
平安時代は、一夫多妻であっても妻には序列はなく、後世の妾のような存在も等しく「妻」であった…ということを、私は20年くらい前に何かの本で読んだことがありました。
しかし、最近の研究によると、「平安時代にも妻の序列はあった」「という考えが主流になりつつあるようです。
確かに、「源氏物語」を読むと、光源氏は紫の上や女三の宮といった正妻格の女性とその他の女性とは明らかに扱い方が違いますし、ましてお手つき女房などは単なる召人で終わってしまっているようです。
この本では、主に歴史上の人物の妻たちを取り上げ、様々な例を紹介しながら、正妻の条件についてを解説しているのですが、「読書日記」のこちらの記事で少し書いた藤原師輔の妻となった3人の皇女の立場についてを初め、今まで私が知らなかった事がたくさん書かれていて、とても興味深かったです。そこで、その中のいくつかを紹介してみたいと思います。
例えば藤原道長の妻、倫子と明子について。
道長の妻に関しては。倫子が正妻で、明子はそれよりも一段低い立場の妻であると言われていますし、私もその説を支持しています。
そして、この二人の妻、倫子が儀式婚(「源氏物語」の葵の上や女三の宮のような例ですね)で、明子が私通婚(「源氏物語」の紫の上の例でしょうか)であることなどから、最初から倫子が正妻だったと言われてきたようです。
しかし、『王朝摂関期の「妻」たち』によると、二人の出自に差がない、いやむしろ、宇多天皇の曾孫である倫子より、醍醐天皇の孫である明子の方が格が上ともいえることや、『英花物語』や『大鏡』で使われている二人の呼称などを検討した結果などから、倫子が正妻という立場になったのは結婚後7~10年ほど経過した正暦四年(994)~長徳四年(998)頃だと推論されているのです。
では、どうして倫子が正妻となったのか?それは、正暦四年から長徳四年までに至る時期に、倫子が彰子、妍子という、将来、后がねになり得る女の子を生んだのに対し、明子は男の子しか生まなかったのが大きな原因のようです。この時代、上流貴族の妻たちにとって、女の子を生むことは大切な任務だったのですね。
あと、自分に仕える女房や、自分と近い親族に仕える女房は、嫡男や后がねになり得る女の子を生んでも正妻になれないという話も興味深かったです。
例を挙げると、藤原実資が将来、后がねと考えて大切に育てた娘、千古を生んだ女性は、亡くなった妻、婉子女王の女房でしたし、藤原頼通の嫡男、師実や後に後冷泉天皇の皇后となる寛子を生んだ女性、祇子は頼通本人の女房だったそうです。いずれも正妻にはなれませんでした。
その他、正妻の立場は必ずしも安定したものではなかったとか、平安貴族の妻たちに関しては色々な説があり、まだまだ解明されていない問題もたくさんあるそうで、この本を読んですべて納得…というわけにはいきませんでしたが、上で書いたように、彼女たちに興味のある私にとっては、とても参考になった本でした。
文章もわかりやすく、引用されている原典には口語訳がついていましたし、登場人物の簡単な略歴なども解説されていました。平安貴族の妻たちについて興味のある方にはぜひ一読をお薦めします。
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